第四十七話:妹と駆け落ち
君は、何者になりたいんだい?
十月の夜の風はかなり冷たい。
風を全身で感じながら冬の寒さを少しだけ先取りできるのは、おそらくバイク乗りの特権だろう。
果たしてそれがメリットなのかデメリットなのかは分からないけれど、少しだけ違う日常というのは新鮮で良いと思う。
市街地を超えて山間部の道に入った辺りで、バイクに乗る俺の腰にしがみつく妹の声が、インカム越しに聞こえた。
「兄ちゃん。これからどこに行くの?」
バイクのエンジン音に混じる妹の声に、同じようにヘルメットに取り付けたインカムに返す。
「とりあえず、大洗だな」
「なんで」
「なんでって……北海道に行くからだろ?」
「うん。だからなんで?」
少しだけ不機嫌そうな妹の声。
百メートル先の信号が黄色になり、俺はゆっくりと愛車のギアを落とす。
Yの字に枝分かれする手前の信号で止まり、ハンドル部分に取り付けたスマホのナビを確認しながら答える。
「そんなの決まってるだろ?」
腰にしがみつく妹の手をそっと触れながら、俺は当然のように言った。
「――祖父さんの葬式に出るから」
***
――回想である。
菅谷姿が俺にありがたくもない説教をし終え、餞別にと大量のエロゲーを置いて満足げにウチから立ち去った矢先に。
俺のスマホから電話が鳴った。
着信元を確認すると、母さんからだった。
「もしもし。どうしたの、母さん。今、仕事中じゃ……え?」
――訃報の報せだった。
母さんの実父、つまりは俺の祖父さんが亡くなったらしい。
元々身体が弱く、持病がたたり今日の昼に自宅近くの病院で息を引き取ったとのことだった。
小学生の頃に二回ほど会っただけで、顔もおぼろげだった俺は、小さな声で「そう」としか言えなかった。
「……うん。ああ、お葬式ね。分かった。……え、ああ、そっか。祖父さんの家って北海道だったっけ」
祖父さんは生まれは関東だが、定年退職した後は祖母さんと一緒に北海道に移り住んだ。
元々老後は北海道でのんびり農家でもやるつもりだったらしく、俺の古い記憶の中でも、確かに広大な畑に囲まれた場所にあった。
「うん。母さん達は仕事が落ち着いたら、飛行機で……うん。俺達? あー、そうだな……」
北海道、北海道ねえ……。
俺は少しだけ考えて言った。
「俺とこのかは、バイクで行くよ」
***
「お祖父ちゃんのお葬式に出るなんて、さっき聞いたんだけど」
青信号に変わり、俺はニュートラルからローギアに入れて、アクセルを回す。
右折して再び木々に囲まれる峠道を走りながら、妹の不満を聞き流す。
「だからなんだよ。そのためにこうしてバイクで北海道に向かってるんだろ?」
「……っ。もう、いい!」
耳元で妹の怒鳴り声が響いた。かなりご立腹らしい。
俺はナビにしているスマホの画面をチラ見する。時刻は夜の十九時を回っていた。
走り出して二時間が経つ。そろそろ休憩を兼ねて夕飯を食べる場所を探す必要がありそうだ。
「……ふんっ」
妹が分かりやすく不機嫌を伝えてくる。
インカム越しに妹の吐息を感じながら、俺は出発前の会話を思い返す。
――駆け落ちしよう。
――分かった。
即答だった。
躊躇わず、迷うことなく、逡巡することもなく、事前に台本を渡されていたかのように。
妹は、頷いた。
それからバイクに荷物を括りつけて、シートに跨った俺の背中にしがみついて家を出た。
妹は何も言わなかった。俺も何も言わなかった。
走り出して一時間が経った頃に、ようやく妹が口を開いた。
「これからどうするの?」
「北海道に行く」
「ん。いいんじゃない。美味しいもの、たくさんあるし」
「そうだな。祖父さんの葬式が終わった後、ちょっと観光して帰るのもいいかもな」
「うん。そうだね。お祖父ちゃんのお葬式の後に――え?」
「ん?」
「今、なんて?」
「だから、祖父さんの葬式の後ならって」
「……え?」
「……あん?」
それ以降、妹は少しだけ不機嫌だ。
理由は知らない。分かるけど、知らないフリをする。きっとそれが正解だから。
――反省、ね。
俺は逃げているのだろうか。何から?
現実。反省。親友。恋人。絶望。妹。
そして、自分。
「こんなの、時間稼ぎだよな……」
時間を掛けたところで、意味なんてないはずなのに。
「うん、時間稼ぎだと思う」
小声で呟いたはずが、どうやらインカムが拾っていたらしく妹が返してきた。
「私、そろそろ限界」
腰に手を回していた妹の手が俺の腹部を撫でる。
そしてより密着し、つつましい妹の胸が俺の背中に押し付けられる。
ごくりと喉が鳴った。それは果たして俺のなのか、それとも――。
「――兄ちゃん。お腹空いた」
Me too。
峠道を抜けた先に、ファミレスを見つけてそこで夕飯となった。
俺はチーズハンバーグのセットを、妹はカルボナーラとイチゴのパフェを頼んだ。
運ばれた料理を食べながら、妹は俺に聞いてきた。
「ねえ、フェリー港って何時に着けばいいの?」
「チェックインは夜の一時までにすればいいから、それまでに着けば大丈夫」
「ふうん。随分遅いんだね」
「それでもチケットが取れたのはラッキーだったよ」
「アンラッキーの間違いじゃない?」
ポツリと妹が毒舌を吐き出す。
相変わらずの不機嫌オーラを醸し出す妹を眺めつつ、流石にまずいなと唇を噛む。
……仕方ない、腹を割るか。
「そういや、お前。よく即答したよな」
「何が」
髪の毛が入らないように手で押さえながらパスタを口に運ぶ妹が首を傾げる。
「駆け落ちしようって言った時」
「ぶふっ!?」
ごほっ、ごほっと咳を繰り返す妹が涙目で俺を睨みつける。
まるで今言うなと訴えているみたいだ。おそらくそう訴えているんだろうけど。
「……げほっ。はあ。だって、冗談だと思ったから」
「まあ、冗談だったけど」
「……」
じーっと俺を恨むように目を眇める妹に、俺はナイフとフォークを置いて肩をすくめて見せる。
「それでも、ちょっとだけ嬉しかった」
「……あっそ。でも、冗談なんでしょ?」
「本気でしてもいいぞ」
「お金ないじゃん」
「バイトの貯金が百万くらいあるから、半年くらいなら生活できる。ないのは――」
俺は妹の顔に手を伸ばす。妹の口に入った前髪を除けて言う。
「覚悟だな」
ジッと俺を見つめる妹が、嘆息してパスタを食べる手を再開する。
「……。一番大切なやつじゃん」
そうでもねえよ。
夕飯を食べ終えた俺達は、またバイクに跨って大洗港に向かって走り出した。
このまま問題なく行けば、あと二時間くらいで着くはずだ。
「……ねえ、兄ちゃん」
このかの声がインカム越しに聞こえる。
「もし逃げる時は、置いてかないでね」
ぎゅっと俺の腰にしがみつく手が強くなった気がした。
俺はハンドルを握る手を緩めることも強めることなく。
「……悪い。風の音で聞こえなかった」
ただ変わらずアクセルを回した。
「……あっそ」
背中にしがみつく小さなこのかの身体の体重を感じながら、俺は流れていく夜の空を見上げる。
やはり夜の風は冷たかった。
本編時系列が、現実に追いつこうとしている。
追われるのは、現実か。それとも締め切りか。




