第四十五話:妹の後輩と勉強
人間に不可能はない。
ただ人間が知らないだけさ。
人生の壁というものがある。
生きていれば当たり前のようにぶち当たる壁。
人によってはそれが壁だったり、ハードルだったり、ただの段差だったり、路傍の石なのかもしれない。
それは乗り越えるべき障害の大きさによって異なる場合もあるし、乗り越える人間の器量の大きさでも違う。
例えば、アリが手のひらサイズの石を持ち上げることは不可能だが、人間にとってしてみれば造作もない。
凡人と天才の違い。
天才も壁にぶち当たる。それを迂回するか乗り越えるか、はたまたぶち壊すかは人ぞれぞれだ。
そしてそんな人生の壁を最初に意識するのは、ほとんどが中学生なのだと思う。
中学生。日本における義務教育の終了。
つまり。
――高校受験である。
「兄先輩! 勉強を教えてください!」
「え、やだ」
即答である。
逡巡するまでもなく、間髪を入れるまでもなく、躊躇うことも悩むこともなく。
俺は妹の後輩である久々野空子のお願いを断った。
「……?」
まるでバスケットボールで野球をするラグビー選手を見つけたかのように、何が起きたのか理解できなかったらしい久々野ちゃんは、その大きな瞳を瞬かせてこほんと咳払いした。
「兄先輩。勉強を教えてください!」
「やだ」
リピート即答である。
先ほどよりも素早く断れたと思う。きっと、まだまだ速度を上げられる気がした。
今度は返答を理解したらしい久々野ちゃんは、「えー、なんでですかっ!」とソファに寝転がる俺に向かって、食い気味に顔を近づけて来た。
「いやいや、なんで俺が妹の後輩である久々野ちゃんに勉強を教えないといけないんだよ」
「そりゃ、私と兄先輩がマブなダチだからでしょう」
「いつからそんな眩しい間柄になったんだよ」
「私は兄先輩のことを、運命共同体、心の故郷、友愛の擬人化だと思ってますよ?」
「久々野ちゃんの中の俺の印象、すげーな」
「もちろん、兄先輩も同じですよね? ねっ?」
「俺にとって久々野ちゃんは、顔見知り、あるいは壊れたスピーカーだと思ってるよ」
「認識の違いがヒドイっ!?」
それはこっちのセリフだ。
俺はソファから上半身を起こして、久々野ちゃんから壁の時計に視線を逸らした。
午後四時三十五分。
妹の帰宅と共に久々野ちゃんがウチにやってきて、そろそろ一〇分が経つ。
中間テスト前の部活休みだと言う久々野ちゃんは、妹と勉強をするために学校からウチに寄ったらしい。
だが、帰宅してすぐに妹は肝心の勉強に使うノートを忘れたらしく、
「兄ちゃん、自転車借りる! 空子も悪いけど、戻ってくるまで適当にくつろいでて!」
そう言って俺から自転車のカギを借りて中学に忘れ物を取りに戻った。
そして、今に至る。
秋の夕暮れに染まる、濡れたような赤い空を眺めた久々野ちゃんは、黄昏るように肩をすくめた。
「……まあ、関係性の認識違いなんて些細なものですよね。それこそ流れるプールとウォータースライダーくらいの違いですよ」
「だいぶ違う気がするけど、まあいいや。っていうか、久々野ちゃんはさ――」
と、そこで言葉が詰まる。
次に言うべきセリフが失われる。両手に掬った水のように、少しずつこぼれ始める。
――久々野ちゃんは、知っている。
学園祭の出来事を。
尊敬する先輩の兄の非行を。
容赦も救いもない嫌悪すべき凶行を。
なのに、彼女は変わらず俺に接している。
一週間の謹慎を言い渡され、堕落しきった俺の様子を見てもなお。
久々野空子は変わらない。変わらないでいる彼女に向かって、俺は問いたかった。
「……なんですか? 兄先輩。私の顔に何か付いてます?」
「いや、何もないよ。芋けんぴとジャガリコとちんすこうが前髪に付いているけど、なんでもないよ」
「なんでもなくはないですよ!? え、あ、ほんとだ!? ……はむり。ポリポリ……むむっ、いつから付いてたんだろ?」
前髪にくっ付いていたお菓子を掴んで口に運ぶ久々野ちゃんを見つめながら、俺は苦笑する。
聞いたところで、何もない。
何を聞いたところで、俺は変わらない。変わりもしないし、変わろうとも思わない。
それなら、あえて聞く必要はないだろう。
俺は背筋を伸ばしながら、「っていうか」と久々野ちゃんを見下ろして言う。
「俺から勉強を教わる必要はないだろ。妹に教えてもらえばいいじゃねえか」
そもそもの話、今日はそれが目的で来たのだろう。
しかし久々野ちゃんは渋柿を食べたような顔を作り、かぶりを振る。
「いやあ。それなんですけどね。実のところ、私は兄先輩に勉強を教わりに来たんですよ」
「……なんで俺? 妹とか、それこそ久々野ちゃんの恋人に教えてもらえばいいじゃん」
恋人――加賀美・カトリーヌ・カグヤ。
妹の同級生にしてクラスメイト。金髪の小学生に見間違えそうな幼児体型をした少女。
彼女の成績は知らないが、それでも久々野ちゃんより上級生だ。
それに受験生でもある。中学全般が範囲であるわけだし、後輩の勉強を教えることくらい、赤子の手をひねるものだろう。
「むむぅ。そうなんですけど……。そうともいかないっていうか。ほら、このか先輩達は受験生じゃないですか」
「だからこそ、教えてもらえばいいじゃんか」
「だからこそ、教えてもらうわけにはいかないんですよ」
意味が分からなかった。
何故か改まって正座をした久々野ちゃんが続ける。
「私は先輩達が大好きです。このか先輩は敬愛すべき先輩ですし、もしも崖から落ちそうになっていたら、遺書を書いて一緒に飛び降りるくらいには尊敬する先輩です」
いやいや、そこは助けてあげろよ!
なんで『死ぬときは一緒!』の精神なんだよ。
「キティ先輩は純愛する先輩です。もしもキティ先輩を淫らな目で見る輩がいれば、両目をくり抜いて代わりにタマネギの芯を入れてやるくらいには純愛を捧げています」
こえぇよ! 純愛じゃない、もはや狂愛だ。
つーか、完全に俺よりヤバイ奴じゃねえか。
目だけに愛ってか? くだらない。
というか、それを純愛とは呼ばない、呼ばせたくない。
「まあ、それくらいには、私は先輩達が大好きなんです。だからこそ、私の勉強のために先輩達の受験勉強の邪魔をしたくないんですよ」
なるほど。そういうことか。
確かに受験生の時間は貴重だ。久々野ちゃんの気遣いは理解できる。
「でもやっぱり俺に教わる必要はないだろ。久々野ちゃんの成績は知らないけど、付け焼刃のテスト勉強なら一夜漬けとかで……」
「付け焼刃じゃダメなんです!」
久々野ちゃんの声が空気を張り詰める。
「……今の私の成績じゃ、ダメなんです。兄先輩の通う高校――このか先輩やキティ先輩の志望校の偏差値は、今の私じゃ届かないんです」
それを聞いて、二つ初耳だったことがある。
妹の志望校が俺の高校だとは知らなかった。志望校の一つだとは知っていたが、てっきりテニスが強い高校に行くと思っていたから。
そしてもう一つ。久々野ちゃんの成績。
確かにウチの高校の偏差値は、それなりの高さがある。
とはいえ、久々野ちゃんはまだ中学二年だ。受験まで一年の余裕がある。
それでも焦るというのは、現在の彼女の成績ではかなり厳しいということだろう。
「ちなみに、久々野ちゃんの最近の基礎科目の合計点は何点だった?」
「……二五〇点くらいでした」
思わず眉を顰める。つまり、五教科の平均は五〇点か。
俺の中学時代を思い返せば、ちょうど平均点くらいなのでかなり悪い方ではないが……。
顔に影を落とす彼女を見つめ、俺は小さくため息を吐いた。
「……分かったよ。俺も人に教えられるほどの成績じゃないけど、中学生の勉強くらいなら問題ない。暇な時は勉強を教えてやるよ」
「――っ!? ホントですか!?」
漆黒に浮かぶ星空のように顔を輝かせた久々野ちゃん。
「ああ。言っても、バイトとかあるから土日くらいだろうけどな」
「それでも嬉しいです! やったぁ!」
まさに文字通りに手放しで喜ぶ久々野ちゃん。
――まあ、これくらいはいいか。
普通ではない俺の行動を見た彼女が、変わらずに普通に接してくれる。
彼女の優しい行為に。妹の後輩の慰めの厚意に。知人の少なからずの好意に。
少しでも返せるなら、俺は惜しまない。
ふと、久々野ちゃんの喜楽の声に混じって玄関のドアが開く音が聞こえた。
どうやら妹が帰って来たらしい。
「ただいまー。ん? なに空子。そんな喜んでるの?」
一冊のノートを手にしながら、怪訝な顔でリビングに入って来た妹は、まるで宝くじが当たったかのように喜ぶ後輩を見据える。
「あ、このか先輩! 聞いてください! なんと、兄先輩が今度から私の勉強を見てくれるんですよ!」
「うぇあ?」
聞いたことのない妹の声。ナメコと納豆の風呂に入ったみたいな声だ。
じーっと半眼で俺に視線を移した妹は、「ちょっと、兄ちゃん」と咎めるように言う。
「それ、本気? 本気で空子に勉強を教えるの?」
「ああ。なんだよ、悪いか?」
「……。兄ちゃん、空子の成績は聞いた?」
「聞いたよ。大体五教科の平均五〇点くらいだって」
「あ、違いますよ。兄先輩。五教科の平均なら、三〇点です」
……は?
嫌な予感がしたが、確かめずにはいられなかった。
「いや、だって。さっき基礎科目の合計が二五〇点だって――」
「はい。基礎科目の合計はそうです」
「……空子。基礎科目名を言ってみて」
妹が凍えるような声で促すと、「えーっと」と指を折りながら久々野ちゃんが数える。
「国、数、英、理、社……それと、保体ですよね?」
「保健体育は基礎科目じゃねえよ!」
思わず大声でツッコんでしまう。
だが、それ以上に大きな目を見開いて久々野ちゃんが驚嘆する。
「ええーっ!? 違うんですか!? だって保健体育の先生が『これは大事な基礎授業だ』って言ってたから、てっきり!」
間違ってはいない。確かに保健体育は大事である。
「私、月経の計算だって暗算でできますし、陰茎の図形だって書けますよ! 女性の陰部だって名称を全て網羅して、おっぱいだって触らずにサイズが分かるんですよ! 受験で使わないんですか!?」
「ある意味すごいけど受験では意味ないな」
「そんなあっ! 高校生は全員おっぱいのサイズを見ただけで当てられないと、高校生になれないと思ってたのに……」
いや、そんな変態にならないと高校生になれないなら、俺はきっと進学なんてしないと思う。
「……ってことは、保健体育が満点だとして、それ以外が全て赤点ギリギリってことか……」
背筋が凍る。レッドモンスター。こいつを俺は、来年の受験までにそこそこの成績に上げないといけないのか。
何かを察したらしい妹は、小声で俺に耳打ちする。
「空子はね。部活でいい成績を残してるから、ある程度の免除はされてるけど。こと勉学においては、《教師殺し(ハンニバル)》って言われるくらいの問題児なんだよ」
なんだよ、その二つ名。かっこいいな。
――じゃなくて。
「つまり、教師すら投げ出すほどの勉強嫌いなのか」
「勉強が不適正ってくらいかな。だから、誰も空子に勉強を教えようと思わないの。もちろん、私も。今日は空子に二年の時のノートを貸す代わりに、勉強を教える役割を逃げるつもりだったし」
それを早く言えよ。
俺は壊れたロボットのように、ゆっくりと首を回して、赤い悪魔を振り向く。
「……ま、それはそうと、兄先輩。色々と誤解はありましたが。土日から勉強のご指導、お願いしますね!」
今度ばかりは。
やだ、とは流石に言えなかった。
***
このかからノートを受け取った久々野ちゃんは、「今日の所は帰ります! 兄先輩、また今度!」と言ってスキップをしながら帰って行った。
悪魔の退場を見送った俺は、学園祭の行為を反省しなくとも、今日の出来事だけは猛省する勢いでぐったりとソファにうつ伏せで倒れ込むと。
「それはそうと、兄ちゃん」
と俺の背中に固い何かが当てられた。おそらくこのかの肘だろう。
「いてぇ」
「痛くしてるから」
このかは俺の背中をテーブルにするかのように頬杖を突く。
「兄ちゃん。空子に勉強教えるなら、私にも教えてよ」
「……必要ないだろ」
やだ、とは即答しない。
このかの成績はかなり良かったはずだ。俺が勉強を教えるまでもなく、こいつの成績なら十二分に合格できるはず。
「必要だよ。私だって苦手な教科だってあるし」
「保健体育とか?」
ぐりっと、このかが肘を回転させて俺の背中の骨にめり込ませる。
悲鳴にならない声が喉を突き抜けていく。
「てめっ!? 何すんだよ!」
俺が起き上がると、このかは俺から離れて背中を向ける。
「……ったく。冗談に決まってるだろ。いてぇな」
背中をさすりながら唇を尖らせると、このかは小さな声で呟いた。
「教えてって言ったら、教えてくれるの?」
俺はもちろん、即答した。
――やだ。
色々と落ち着いてきたので、ぼちぼち更新を再開します。




