番外編:妹と七夕
いつか。いつか。いつか。
これはまだ妹が、サンタクロースがファンタジーではないと信じていた頃の話であり――。
俺がサンタクロースは試験と資格も存在するグリーンランド公認の、ファンタジーではない職業であると知った頃の話だ。
――7月7日。
つまりは、七夕の日。
「ねえ、にぃに。なんて七夕の日は、お願いごとを書くの?」
リビングのテーブルで短冊の紙を前にした妹が、舌足らずの言葉で俺に聞いた。
小学校のクラスで飾っていた笹が折れて、ゴミになるはずの枝葉をもらってきた俺は、それを支えるための容器をキッチンで探しながら答える。
「えっと。確か昔は短冊に俳句とか短歌を書いていたんだって。それが段々、上手な歌を読めますようにとか上達をお願いするようになったとか?」
ずっと前に本で読んだことを思い出しながら言う。
さらに言えば、七夕の日に願い事を書くのは、日本だけの風習だったはずだ。
クリスマスに恋人と過ごしたり、バレンタインに女性から男性にチョコを贈ったりと、日本は海外とは微妙に違う文化が浸透している。
「ふぅん? よく分からないけど、織姫さまと彦星さまに叶えてもらうものじゃないんだ……」
戸棚でジャムの空き瓶を見つけた俺は、これでいいかとリビングの方を振り返ると、妹は不貞腐れたように唇を尖らせていた。
俺はポンと妹の頭に手を乗せる。
「このかは、どうしても叶えて欲しいお願いがあるのか?」
「うん」
「そうか。じゃあ、頑張らないとな」
「頑張る?」
「そうだよ。願い事は、自分で叶えるもんなんだから」
「……織姫さまと彦星さまに叶えてもらっちゃダメなの?」
舌足らずの妹が、不思議そうな顔で俺を見上げる。
それに俺は小さく笑う。
「じゃあ、例えばだけど。このかは足が速いよな? でも、俺よりは遅い」
「うん。にぃに、足速い。クラスで一番だよね?」
「まあな。で、もしもこのかが《俺より足が速くなりますように》って願って、仮に俺がかけっこでわざと遅く走って、このかが勝っても嬉しいか?」
「……うれしくない」
「そういうこと。だから、このかが頑張って俺より速くなるしかないんだ。願い事は、自分を信じるためにあるんだよ」
「……うん。分かったっ!」
パァっと顔を輝かせたこのかは、鉛筆を手に取って短冊に文字を書き始めた。
それを隣から覗こうとすると、「ダメッ。にぃには見ちゃダメ!」と手を広げて隠されてしまった。
「いいじゃん。気になるんだよ」
「ダメったらダメッ!」
「じゃあ、兄ちゃんのが書けたら、このかのも見せてよ。願い事っていうのは、人に見せることで叶いやすくするんだから」
――だから願い事を、お星さまに願うんだよ。
そう嘘を吐いた俺に、妹は「うう~っ」と頭を抱えて唸りだす。
まあ、さっきのは半分嘘で、半分本当だけど。
「じゃ、じゃあ! にぃにのも見せてくれたらいいよ!」
「……俺の?」
「うんっ」
「……いいけど」
ともなれば、俺も短冊に願い事を書く必要性がある。
俺はリビングのテーブルに笹の枝を入れた瓶を置いて、妹の対面に座る。
短冊を一枚取って少しだけ考える。
願い事、かあ。
さっきは妹に偉そうに言っておきながら、俺に願い事なんてない。
期待するだけ意味がない。
信じるだけ裏切られた時が怖い。
……何も望まない。そうすれば、きっと何も失わないで済むから。
チラリと妹の顔を見る。
妹は、楽しそうに短冊に願い事を書いていた。
期待して、希望に満ちて、信じて、笑っていた。
……俺とは違う、兄妹だけど少し違う妹の表情を見つめて。
俺は、少しだけ羨ましいと思った。
それならば、せめて。
近くで、妹の願いが叶うところを見たいと思った。
何もできない俺でも、少しでも妹の傍にいられますようにと。
そう、願った――。
「にぃに、書けた?」
「うん。じゃあ、お互いに見せ合いっこするか」
「……どうしても見せなきゃダメ?」
「いやいや。このかが言ったんだろ? 兄ちゃんが願い事を書いたら、このかの全てを見せてくれるって」
「そこまでは言ってないよ!? うぅ……じゃあ、せーの、ね? せーのっ」
そうして俺達は互いに短冊を見せ合う。
『にぃにとずっといっしょにいられますように』
『このかのねがいがかないますように』
「……」
「……」
俺と妹は顔を見合わせる。
そして、妹はふふっと口元を手のひらで隠して、嬉しそうに笑った。
「にぃに」
「なんだよ」
「一緒にがんばろうね!」
サンタクロースがファンタジーではないと信じている妹が。
兄妹がずっと一緒にいられるわけではないと知るのはいつだろう。
俺はそんなことを考えながら、
「そうだな」
と優しく笑った。
*************
――そんなアルバムにも載らない幼い頃の思い出を、七夕が来る度に思い出す。
バイト先から帰宅した俺を認めたこのかが、怪訝な表情で俺の右手を指さした。
「何それ?」
「笹」
「食べるの?」
「俺はパンダか」
まあ、パンダも別に笹を主食としてるわけじゃないけど。ああ見えて、熊だし。肉食だし。
「バイト先で七夕フェアやっててな。その飾りつけの余りを貰ってきたんだよ」
「ふうん。どうでもいいけど、お腹空いた」
そんなことより早く飯を作れと言わんばかりに、髪を掻き分けて流したこのかは、リビングに入っていく。
俺も手洗いを済ませて、このかの後を追ってリビングに入り、テーブルに笹を置いてキッチンに立つ。
「何食べたい?」
「なんでもいい」
「じゃあ、パスタな」
「うーい」
適当な返事を耳にしながら、俺は鍋に水を注ぐ。
背後でこのかが、「ねえ、兄ちゃん」と俺を呼んだ。
「ずっと前さ。兄ちゃんと一緒に短冊にお願い事書いたよね」
「そうだっけ? 覚えてないな」
俺は鍋をコンロにかけて、水が沸騰するのを待つ。
このかは、俺の返答を無視して続ける。
「あの時、兄ちゃんが言ったんだよ。『願い事は、自分で叶えるもの』だって」
「だから覚えてないって。……でも、まあ。小学生の発言とは思えないな」
「そっか、あの時、兄ちゃん小学生だったんだ」
……しまった。
背後で妹が嫌な笑みを浮かべているのがイメージできたので、絶対に振り返らなかった。
「ねえ、兄ちゃん。あの時に私が書いた願い事、覚えてる?」
「覚えてないって」
「だよね。私も覚えてないや」
そりゃそうだろ。俺はまだしも、このかは、十年くらい前の話だ。
「じゃあ、今だったらなんて書くんだ?」
俺は沸騰した水に、パスタを入れながら尋ねる。
「さあ。でも、昔と同じことを書くんじゃないかな」
「覚えてないんだろ?」
「うん。でも、多分――」
そこでこのかは、キラキラ星を鼻歌で奏でる。
「今も願い事は、変わらないから」
流石に今度は、一緒に頑張るとは言わなかった。
一日遅れの七夕。
そして来週は更新できませぬ。




