97 長距離行軍訓練 力の行方
ケイランは知っていた。
力は使い方次第なのだと。
どんな力も、使い方次第。使い手次第。
自分が持たない“魔術”という力は、敵を倒すこともできるけれど、美しい炎を生むことや、楽しく水遊びをすることだってできる。
もし恐ろしい者がこの力を持っていたら、自分は声を発することはできなかった。
後ずさりしたかもしれない。
自分たちにその力を向けられたら、恥ずかしながら崩れ落ちて失禁してしまうかもしれない。
だけど、ケイランは知っている。
『クラウスは悪いやつじゃない』
そう、知っている。
のんびりしていて、ちょっと抜けていて、人懐こい。
「このバカ犬」とレオナルドに蹴られ、座学が難しくてうんうん唸り、好物をいっぱい食べられるとほくほくする。
一緒に過ごして知っている。
だから、言えた。
小刻みに震える手を無視して。
背を伝う畏れを無視して。
勢いよく刻む鼓動を無視して。
声を、振り絞った。
「クラウス、助かった! ありがとう!」
自分を叱咤して、そう言うことが、できた。
その声に、統括教官はハッと我に戻った。
ぐっと手を握りしめて、自分の仕事に戻る。
「クラウス、他の班員はどうした」
それは疑問形というよりも、確認の音だった。
「まだ、下山の途中です」
「ならば、ここに来たのは班長命令か?」
そこには、『違うだろう』という意図が含まれていた。
クラウスはそれに対し、正直に、「いいえ。独断です」と答えた。
「班長の命令にない、勝手な行動。それと訓練課題である『気配を消せ』の無視。クラウス、二十点減点だ」
「それは……っ!」
ケイランは、思わず声に出した。
だってクラウスは、自分たちを守るために来たのだ。
助けてくれたのだ。
それを、減点だなんて。
「軍人にとって上の命令は絶対だ。指示がないのに動くことは許されない。それも、まだ下山しきっていないのなら、班員は状況の把握すらできていないんじゃないか?」
クラウスは、教官の言う通りだと思ったので、「はい」と返した。
減点に異議はなかった。
しかしケイランは納得いかなかった。
叱られようとなんだろうと、統括教官に意見しようと息を吸う。
すると、統括教官はこう続けた。
「だが――魔獣への対応は完璧、いや、それ以上だ。加点二十点とし、相殺で加点減点零点とする」
統括教官とて、クラウスやレオナルドが来ることを望んでいたのだ。
まさかこんなに早く、それも命令を無視して一人でやってくるとは思わなかったが。
クラウスの登場に助けられたことなど、ここにいる誰もが分かりきっている。
「ふぅ……とりあえず危機が去ったと伝えるために信標弾を上げよう。ケイラン、頼めるか」
「はっ!」
ケイランが青色の信標弾を上げる。
その煙に視線をやったあと、統括教官が言った。
「皆、座って休め。周囲の警戒は私がするから」
その台詞に、ケイランは自分の膝が笑っていることに気付く。
力が抜けて、そのまま座り込む。
ダリオはずるりと、崩れるように膝をついた。
そしてクラウスを視界に入れぬよう、下を向いたまま休息の体勢に移った。
自らの〈炎槍〉とクラウスの一撃を比べるほど、ダリオは傲慢ではない。
しかしその圧倒から目を逸らさぬほど、強くもなかった。
イヴァール教官も「さすがに疲れたな」と座り、息を整え始めた。
その脳裏には目の前に展開された障壁と、撃破されたトラグバイン。
「あれが加点二十点っていうのはおかしいでしょ」
声に出さず、頭の中で呟いた。
彼が整える必要があるのは、息だけではなかった。
「警戒は自分がします。教官も休んでください」
クラウスが統括教官に申し出た。
彼に任せれば、確かに問題ないだろう。
しかし自分には“統括”という役割がある。
統括教官は、そう考えて返した。
「では、私とクラウスの二人で行う。異論は認めない。……もう幾ばくもせず、他の教官が駆けつけるだろう」
「はっ!」
クラウスの返事を最後に、場が静まる。
押し黙っているわけではないが、会話という会話もない。
疲れを癒やすことこそが、今すべきことだ。
軍人として必要とされる選択肢を、各々が選んだ結果の静寂だった。
クラウスは、スゥ、と息をする。
トラグバインの血の匂いと、森の匂い。
視界にいる皆は疲れ切っているが、犠牲者は出なかった。
良かった、と思う。
そんな中、クラウスは考える。
クラウスには、ケイランの礼が届いていた。
それをちゃんと受け取った。
でも同時に、周囲の畏れを分かっていた。
いつだって、感じてきた空気だから。
家に居た頃も、軍人学校に入った後も、感じていた空気。
慣れ親しんだ、よく知っている空気だ。
だから、周囲が畏れていることを、よく理解していた。
そして今はそれ以上に、自分が“できてしまった”ことを理解していた。
クラウスは確かに、強くなりたかった。
いや、今もなお強くなりたいと思っている。
誰も失わないように、強く在りたいと願っている。
けれど――自分がどうやって動いたのか、分からなかった。
もう一度やれと言われたら、できる。
全く同じことができる。
いや、さっきよりも速く、正確にできるかもしれない。
そこに理屈はなく、ただ感覚だけがある。
「ぎゅっとする」
「バーンって感じ」
そんな、普段の説明にならない説明すらできないくらい、自然に身体が動いた。
ただ山道を駆けるように、呼吸をするように。
説明のつかない、言葉にならない何かが自分の中に在るようで。
自分自身が、得体の知れない“何か”で在るようで。
腹の奥底で、暗い熱さがぐるぐると溜まる。
答えの出ない問いが、頭の中で渦を巻いた。
クラウスは、自分の立っている場所さえ、確かではないように感じた。
次回のタイトルは、「並ぶ場所」です。




