95 長距離行軍訓練 十分間の死闘
トラグバインを山に誘い込んでから、まだ数分しか経っていない。
しかしケイランには、その数分がまるで何十分にも感じられた。
「私とイヴァールが順番にトラグバインを引き付けて、木や岩にぶつける! いいか! ヤツの正面に立つな! 角の届く範囲にもだ! 大怪我は免れん!」
統括教官の声が響く。
「イヴァール、コイツに駆け出す隙は与えん! 順に注意を引くぞ!」
「はっ!」
統括教官たちのフォローには、ケイランとダリオ、それにもう一人、貴族の令息が駆けつけた。
現場の状況と体力を踏まえた、コンラッドの判断だ。
補佐とはいえ、魔術が使える者がいた方がいい。
しかし体力的に、それが可能なのはダリオともう一人だけ。
その魔術を使える二人を補佐する役として、ケイランが選ばれた。
駆けつけた後、三人は散った。
木の上、岩の上など視界の良い場所に移動し、教官たちに地形を伝える。
自分たちも動きながら、敵意を引く教官たちをなんとか逃し続ける。
山中での追いかけっこは、激しさを増していた。
統括教官とイヴァール教官が交互にトラグバインの注意を引き、逃げる。
その間に、追われていない方が魔術で攻撃を加え、片方に集中させないようにする。
「〈氷槍〉!」
イヴァール教官の〈氷槍〉を撃ち込まれたトラグバインは、彼の方に顔を向ける。
順に引きつけ、逃げる。引きつけ、逃げる。
その繰り返し。
魔術は温存するべきだ――だがそんな余裕はない。
そうやって連発される魔術で岩のような筋肉に覆われた巨体につけられるのは、せいぜいかすり傷。
――いや、詠唱を経た魔術でさえ、致命傷は与えられない。
やがて、教官たちの魔力も底を見せ始めていた。
「〈土弾〉!」
統括教官は、的確に関節部を狙う。煩わしいだけでなく、痛みを与える。
片方だけを倒せばいいと思わせないために、注意を引き続ける必要があった。
「凍てつく水よ。我が意に応え――ッ」
統括教官へと突進しかけたトラグバイン。
その邪魔をするはずのイヴァール教官の詠唱が途切れ、魔術が霧散する。
連発による疲弊で、魔力の流れを乱したのだ。
トラグバインは、そのまま統括教官の元へ勢いをつける。
誰もが「危ない」と思った、その瞬間。
「〈炎槍〉!」
ダリオの〈炎槍〉が、トラグバインの頭に当たった。
――ダリオの簡易詠唱の成功率は、これまで二割程度。
だがいま、彼は成功させた。
それでも分かっていた。“もう一度”は無理だと。
あれは追い詰められたからこそ出せた、火事場の馬鹿力だった。
また、簡易詠唱による魔術では、威力も低い。かすり傷すらつけられない。
しかし確実に、トラグバインの気は逸れた。
当たった炎を払うように、トラグバインが頭を振る。
少しだけダリオの方を気にしたが、すぐに統括教官を見やった。
統括教官が十分に距離を取るには、まだもう少し時間が必要だ。
ダリオは思った。
もう一度撃たねばならない。
次は、『無視できる』と思われない攻撃を。
教官たちへの集中を削ぐために、威力を上げる。
ダリオは、杖を構え、詠唱を始めた。
「燃え盛る炎よ――」
ダリオの詠唱が聞こえ、ケイランは、彼が再度魔術を放とうとしていると察した。
だが詠唱を完了させるには、数秒足りない。
ケイランは拳大の石を拾い、思い切りトラグバインの顔に投げつけた。
ダメージにはならない。だが、苛立ちは買える。
ケイランの石が当たった二秒後、ダリオの〈炎槍〉がトラグバインの左頬に突き刺さった。
今度は詠唱を経た魔術。
教官たちほどではないが、それは確かにトラグバインに痛みを与えた。
「ブモオオオオオオ!」
トラグバインが再び吠える。
その横っ面に、〈氷槍〉が突き刺さった。
「舐めんなクソ牛、ぶっ殺すぞ」
背筋を撫でるような、イヴァール教官の低い声。
生徒を叱責するときと同じ声音だった。
その声にケイランは、心配はいらなそうだと胸をなで下ろす。
“魔力欠乏”の感覚が分からないケイランは、先ほどの魔術の失敗が不安だったのだ。
「お前ら! 遅滞だぞ! 無理はするな!」
統括教官の声に「はっ!」と返す。
だが、いつまで持たせればいいのか。
おそらくまだ二十分も経っていない。もしかすると、十分ほどしか経っていないかもしれない。
密度の高い戦いが、時間の感覚を狂わせた。
ケイランがダリオを見ると、彼は肩で息をしていた。
〈火〉の適性を持つダリオは、山中という環境を考えこの訓練ではあまり魔術を使っていなかった。
それでも先ほどの威力を出せば、魔力の消耗は避けられない。
誰か、早く、この状況を変えてくれ。
前にも、こんなふうに、一分一秒を祈ったことがあったな。
そんなことを考えたケイランの前に、突如、透明な壁が現れた。
ケイランの前だけではない。
皆を守るように、トラグバインを中心とした半円状に、巨大な壁が築かれていた。
これは、なんだ。
ケイランは――いや、ここにいる全員が、トラグバインを囲めるような〈障壁〉など見たことも、考えたこともなかった。
だからそれがなんなのか、瞬時に理解することができなかった。
「――ッ! 陣形を整える! 全員、まだ動けるな!?」
統括教官は瞬時に判断した。
"何が起こったか"ではない。"何をすべきか"だ。
そうやって思考を切り替えた。
だが、結論から言えばそれは必要なかった。
山の中を、鈍い音が響いた。
同時に、目の前のトラグバインが急に体勢を崩す。
そしてその首が、宙に跳ねた。
何も分からぬ彼らの前で、あの災厄の命が――いとも容易く、散ったのだ。
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次回のタイトルは、「理解不能の軌跡」です。




