94 長距離行軍訓練 遅滞の策
「遅滞行動を行う! 山に誘い込み、木を障害物にして勢いを削ぐぞ!」
統括教官の声が響く。
「全員散開しろ! イヴァール、〈氷刃〉を撃て! 私の後ろには立つな!」
教官たちの頭上から現れたトラグバインは、生徒と教官たちの間へと落ちた。
生徒を庇った教官以外の教官たち――統括教官とイヴァール教官は、トラグバインの背面にいる。
統括教官は瞬時に判断した。
このまま野に放つわけにはいかない。
かといって、この場に居る戦力では勝てない。
それならば山に誘い込み、倒せるだけの戦力を待つ。
彼は、自身に敵意を向けさせるべく、トラグバインの背後から攻撃を仕掛けた。
生徒たちの居る平野側ではなく、自分たちの居る山側に向かせるための対処だった。
巨体を誇るトラグバインからすると、「気が散る」程度のものだろう。
しかし、無視はできない。
案の定、トラグバインは生徒側に直進するのではなく、自身を煩わせる背後を気にした。
ザッザッと後ろ足で土を掻く。
単純な動作だが、太い足から浴びせられる土煙に混じる砂利は十分な威力を持っている。
ゆえに、統括教官はヒラリと避け、側面からの攻撃へ移った。
トラグバインにとって「気になる」が「苛立ち」へと変化したのか、明確に身体を山側に向けようとする。――その脇腹を、イヴァール教官の〈氷刃〉が襲った。
「ブモーーーー!」
当たったとはいえ、トラグバインにとっては小さな傷だ。
故にこれは、悲鳴ではない。
怒りによる咆哮だった。
トラグバインは明確に、統括教官とイヴァール教官を敵だと認識した。
そして――追いかけ始めた。
統括教官とイヴァール教官は、山へと駆ける。
トラグバインがその後を追う。
ズシン、ズシンと地を揺らしながら、トラグバインが山の斜面を登り始める。
教官たちは木々の間を縫うように逃げ、トラグバインを誘い込んでいく。
――遅滞行動の、開始。
山へと消えていった統括教官の代わりに、負傷した教官が指示を出す。
「赤の信標弾を上げろ。コンラッド班を四つに分ける」
教官は指を折りながら、続ける。
「三人は遅滞行動の補佐、六人は二手に分かれて他二班との合流、残り二人は訓練施設への連絡だ。」
その命令に、生徒の一人が腰の袋から筒状のものを取り出す。
それを空に向けて起動すると、赤い煙が空高く上がった。
――緊急信号だ。訓練中の異常時には赤色を上げると決められている。これで他の二班も異変を察知するはずだ。
煙が上るのを確認すると、負傷した教官は地図を広げてコンラッドたちに見せた。
「他の班に課した下山ルートはこれだ。チェックポイントでの合流時刻から考えて、ルートを大きく外れて動くような無茶はしてないだろう。おそらくこの辺りにいるはずだ。トラグバインの攻撃範囲に入らないように気をつけろ」
「はっ!」
そして教官は、ロエルに視線を向ける。
「ロエル、お前は走れない。ここで待機だ」
「……はい」
戦力外通告。
戦わねばならない場面での“待機”の命令に、ロエルは顔を曇らせた。
そんな彼に、コンラッドが指示を出す。
「俺たちは行く。お前には、教官を頼む」
「分かった」
コンラッドの「お前も一緒に戦っている」と告げる言葉に、ロエルは腰にかけた剣をギュッと握った。
ゴール地点で待機していた教官は三人。内一人は負傷し戦力外。
生徒十二人を三人ずつに四組へ分け、そのうち一組――三人が遅滞行動の補佐に回る。戦力としては、明らかに足りない。
仮に、まだ山中にいる教官五人が合流したとしても、トラグバインを倒すのは至難の業だろう。
例年通りの、教官八人と生徒三十六人という「文字面だけの戦力」ならば、統括教官はこの選択をしなかったかもしれない。
けれど今年は、クラウスとレオナルドが居る。
生徒を戦力として数えるのは、非難を受けて然るべきだ。
だが事実としてあの二人は、単純な武力として、他の学生はもちろん、教官と比べても圧倒していた。
訓練施設へたどり着いた生徒により呼ばれる応援を待つよりも、二人の合流を待つ方が現実的であった。
クラウスが来れば頑強な〈障壁〉でトラグバインの動きを制限できるし、レオナルドならばその多彩な魔術でいかようにも戦術を立てられる。
どちらかでいい。彼らのうち一人でも来れば戦況が変わる。
しかし、それがいつになるかはわからない。
……一時間、か?
各班の通過時刻や疲労度、ここまでの道のりを考えれば、先に他の教官が合流するだろう。
彼らと力を合わせてクラウスかレオナルドの到着まで持たせ、そこから討伐開始か。
山の中、木々に紛れながら、統括教官は小さく苦笑した。
トラグバインは、統括教官の狙い通り、彼らを追って山の斜面を登ってきた。
木々が密生する場所では、その巨体が逆に障害となる。
枝が角に引っかかり、幹が進路を塞ぐ。
遅滞行動――時間を稼ぐには、最適の地形だった。
次回のタイトルは、「十分間の死闘」です。




