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93 長距離行軍訓練 終点の空

 五日目の朝が明けた。

 四泊五日の長距離行軍訓練も、いよいよ最終日を迎えた。

 山の冷気が、汗と疲労の残る体にじわりと染みる。


 ケイランは歩きながら、昨夜受けた襲撃を思い返していた。


 彼らは、クラウスの班のような奇策は用いず、堅実に対応し、教官たちを退けた。

 十二人全員で戦えたこと、個々の技量が高かったことが勝因だろう。

 この戦闘により、彼らの班には二十点の加点が与えられた。


 ――ケイランはまだ知らないが、夜襲は定刻までに最終チェックポイントを通過した班だけが対象だった。

 レオナルドの班は遅れていたため、加点の機会を逃している。


 この行軍が終わったとき、“班”としての評価が最も高いのは、ケイランたちの班となる。



 夜襲の余韻を抱えながら、ケイランたちは訓練最後の朝を迎えた。

 昨夜の戦闘の疲労は、確実に彼らの身体に響いていた。


「長かった訓練も今日で終わりだ。最後まで気を抜かず、やり遂げるぞ!」


 コンラッドの声に、班員たちは「あぁ」と応じる。

 言葉通り、誰一人として気は抜かなかった。


 山裾に向かうほど魔獣の数は減っていくが、施設に帰還するまでが訓練だ。

 警戒は怠らなかった――だが、それだけで疲労のすべてが補えるわけではない。



「……ッ!」


 ケイランの前を歩いていた班員が、斜面の木の根に足を取られ、崩れるように倒れた。


「ロエル、大丈夫か?」


「……あぁ、大丈夫だ」


 返ってきた声には、明らかに痛みを堪える色があった。


「足を捻ったか。とりあえず固定しよう」


 携行していた救急道具で足首を固定する。

 ケイランが肩を貸そうとしたとき、声が上がった。


「私が貸す。お前は副班長の職務を全うしろ」


 ダリオだった。不機嫌そうな顔をしながらも、ケイランたちの近くに歩み寄り、しゃがむ。


「私は後衛だ。足を痛めた以上、ロエルもその方がいい」


「……頼んだ」


 ケイランの言葉に、ダリオは視線だけで頷いた。

 そしてロエルに「無理はするな、体重はこちらにかけろ」と声をかけ、肩を貸す。


「ダリオ」

 ケイランが呼ぶ。


「なんだ」


「ありがとう」


 ケイランの言葉に、ダリオは一瞬、不可思議そうな顔をした。

 だがすぐに視線を逸らし、「フン」と鼻を鳴らす。


「班のためだ」


 その言い方があまりにもダリオらしくて、ケイランは小さく笑い、前を向いた。




「よし、進むぞ。何かあったらすぐに言え。――帰ったらしっかり食って、ゆっくり休もう!」


「おう!」


 コンラッドの言葉に、皆の心が前を向く。


「寮に戻ったら絶対ベッドから出ない」

「夕飯は肉がいい」


 そんな言葉を交わしながらも、緊張は保たれていた。


 そして彼らは、どの班よりも早くゴール地点へと辿り着いた。

 太陽が真上に上がった頃だった。


 ゴールに待つ三人の教官が見えた瞬間、誰かが小さく「やった」と呟いた。

 疲労困憊の身体に、達成感が染み渡る。


 足を引きずるロエルを支えながら、大きな怪我人を出すことなく、全員で辿り着いた。

 それは、五日間の努力の証だった。



「お、コンラッド班が一番か。よくやった」


 ゴールで待っていた教官の一人が声をかける。

 ここは訓練コースの終点で、施設までは小一時間ほどの距離だ。

 全班が揃ってから施設へ戻るのが通例らしい。


 他の班よりも早く戻れたことが、彼らに小さな昂揚を生んだ。


 だが、それも束の間だった。


「じゃあ、ロエルは手当するからそっちに座れ。残りの面子は他の班が戻るまで整列して待機な。雑談禁止」


「はっ!」


 訓練で培われた反射で「はっ」と答えたが、心の中では「マジかよ」である。


 平野にて、山の方を向いて整列。

 出発前のレオナルドの班と同様、私語は禁止。


 いつ戻るかも分からない仲間を待つ時間は、長く感じられた。


 アイツら、早く帰ってこないかな。

 帰投から一時間が過ぎ、ケイランの班の幾人もがそう思い始めた。


 ――その瞬間。空が、裂けた。


 整列していた生徒たちの視界――教官たちの真上、その上空高くで、空間が裂けた。

 生徒たちには視界に入っていたが、教官たちにとっては完全な死角。


 ゆえに、一瞬初動が遅れた。


 渦とは、災厄である。

 突如現れ、突如消える。誰にも予測はできない。

 だからこそ、今この場で反応できないのは、当然のことだった。


「……え?」


 空を見上げたまま、生徒たちが立ち尽くす。

 昨夜の夜襲では冷静に動けた彼らも、目の前で起こる異常には混乱を隠せなかった。


「渦だ! 下がれ!」


 ケイランが叫ぶ。

 昨年の実地演習で渦を経験している彼は、あの異常な空間の歪みを見た瞬間、理解した。


 ケイランの声で、教官は事態と渦の位置を把握した。

 そして「全員後退しろ!」と指示をする。

 それに従い、多くの生徒が距離を取った。

 そう――“多くの”生徒が。


 渦という非日常の現象に、反応できなかった者も数人いた。

 だが災厄は、彼らを待ってはくれない。



 ぬるり、と空から生み出されるように、巨大な魔獣が現れた。

 その落下の軌道は渦から平野側――教官たちの前方、つまり生徒たちの頭上だ。


 トラグバイン。巨体を誇る、牛型の魔獣。

 ケイランは昨年の実地演習で、解体された死骸を見たことがある。

 岩のような筋肉。馬四頭分の巨体。そして――あの巨大な角。

 だが、生きたそれに出会うのは初めてだった。


 降り立とうとするその真下には、動けなかった生徒がいた。


「くっ……!」


 踏み潰される寸前、教官がその生徒を庇う。

 だがその代償として、教官は着地するトラグバインの爪に引っかかる。

 咄嗟に身体を反転させ、爪から逃れようとしたが、肩に深い爪痕を負った。


 ――渦とは、予測不可能な災厄だ。


 狙って出会うこともできない。

 この場にいる教官の中で、“渦”と対峙した経験がある者は一人だけ。

 その一人ですら、『渦が生まれる瞬間』に立ち会ったのは初めてだった。


 トラグバインは、ゆっくりとその巨体を動かした。


 ケイランが昨年見た“死骸”とは、まるで違う。

 地を踏みしめる音。鼻息。

 そのすべてが、圧倒的な“生”を伴っていた。


 あのときは、クラディアン・アイゼンハルト中尉を含む即応部隊十一人で対応したと聞いている。

 王国軍のエリート部隊でさえ、十一人がかりで討伐に数十分もかかったのだ。


 ここにいるのは、教官が三人と、疲れ切った学生が十二人だ。

 そのうち負傷した教官とロエル、計二名はすでに戦えない。


 ケイランの背筋を、冷たいものが走る。


 トラグバインが地を踏みしめる音が、空気を震わせた。


 彼らにとっての不運は、災厄に出会ってしまったこと。

 そして幸運は、その災厄がトラグバイン一体だけを生み落とし、すぐに空へと溶けたことだった。

次回のタイトルは、「遅滞の策」です。

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