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89 長距離行軍訓練 結束の刃

 レオナルドたちが魔獣の密集区域に踏み入ってから三時間後、クラウスの班もまた、魔獣と戦っていた。


 ロックホーン――岩のような皮膚を持つ、角の大きな牛型の魔獣。

 牛よりもひと回り小さいが、その分俊敏だ。


 岩のような筋肉を持ち、角を振るって突進する性質はトラグバインに似ている。

 だが、個体としての脅威は大きく劣り、もし両者が相対したなら、ロックホーンは一瞬で吹き飛ばされるだろう。


 ただし、単体で強さを誇るトラグバインとは異なり、ロックホーンは群れを成す。

 七、八体と小規模ながら、統率の取れた群れの動きは、個の戦いとはまったく違う厄介さを持っていた。


 クラウスの班は、できる限り魔獣との遭遇を避けて進んでいた。

 常に周囲を警戒し、油断は無かった。


 けれどここは左右を木々に囲まれた細い山道。

 ところどころ、岩肌がむき出しの斜面があった。

 ロックホーンの群れはその陰に潜んで獲物を待っていたのである。

 結果、彼らは完全な奇襲を受けることになった。


 岩影に潜んでいた四体が、一斉に飛び出す。

 角を下げたまま斜面を駆け下り、先頭を行く前衛を狙った。


 人が並べるのは四人が限界という狭い山道で、後列から援護に出るのも難しい。

 群れの残りは見えない。

 崖の上か、それとも道の奥か――ロックホーンは岩壁を駆けることもできる。


 見えている数はわずかでも、状況は十分に危うかった。

 奇襲という一点だけで、敵の力は倍にも感じられる。


 もちろん、クラウスはロックホーンの存在に気づいていた。

 仲間に危険が迫れば助けるつもりだったが、彼は信じていた――仲間たちなら自分の力でこの状況を切り抜けると。


 前衛の一人が剣でロックホーンの突撃を受け止め、叩き落とす。

 先頭の一体に対処したその背から、他の者が剣を突き込んで二体目のバランスを崩す。


 順々に生まれる隙を、常に他の者が補う。

 奇襲を受けながらも、彼らは落ち着いて自分たちの“戦いの形”を作っていた。


「ジアナードは〈風刃〉を、コックスは〈氷刃〉を展開! 前衛はその時間を稼げ!」


 ロックホーンの皮膚は物理攻撃に強いが、魔術には弱い。

 一撃でも魔術を通せば、その箇所を狙って剣でも斬れる。


 ジアナードとコックスは下級貴族の息子で、それぞれ〈風〉と〈水〉の適性を持つ。

 逆に言えば、それしか適性がない。


 魔力も多くはなく、自信を持てずにいた。

 だがクラウスから見れば、彼らは自分の力と向き合ってきた者たちだった。

 少なくとも、今この場で仲間に任せられるほどには。


「安心しろ! お前らが外したら俺が攻撃してやる!」


 班長が声を上げる。彼も下級貴族の出だ。


「お前は〈火〉系統だろ! 森を燃やす気か!」


 四日という短期間で、彼らは何度も魔獣と戦い、少しずつ自信をつけてきた。

 こうして軽口を叩けるほどに。


「じゃあ他のやつだな。でも、うちは戦力が少ない! なるべく当ててくれ!」


「わかった、任せろ」


 コックスが答える。

 ジアナードは返事の代わりに杖を向け、詠唱を始めた。


「疾風よ。我が意に応え、鋭き刃となれ。空を駆け、虚を裂き、敵を断て――〈風刃〉」


 詠唱の終わりと同時に、風が刃となってロックホーンを切り裂いた。

 四体のうち一体が深手を負い、隣の一体も浅い傷を負う。

 ロックホーンが怯んだ隙に、コックスの詠唱が終わった。


「凍てつく水よ。我が意に応え、鋭き刃となれ。静を纏い、動を抱き、敵を断て――〈氷刃〉」


 ジアナードの攻撃を受けていない一体に〈氷刃〉が命中し、ロックホーンは倒れた。


「今だ!」


 班長の指示で、魔術の射線を避けるため下がっていた班員たちがロックホーンに飛びかかる。

 ダメージを負った二体の傷口を狙い、確実に仕留めた。


 その間に、コックスは再び詠唱を始める。


「――凍てつく水よ」


 それを聞き、班長が指示を飛ばした。


「もう一度下がれ! 押し返せ!」


 無傷のロックホーンが、群れを失った怒りで角を振り上げ突進してくる。

 前衛二名が受け止め、力任せに押し返す。

 その隙に詠唱が終わった。


「動を抱き、敵を断て――〈氷刃〉!」


 二度目の〈氷刃〉が放たれ、ロックホーンの体を見事に両断した。

 それと同時に、こちらを窺っていただろう、残りのロックホーンが逃げていく足音が聞こえる。


「よし!」


 周囲を警戒しながらも、班員たちは歓声を上げた。

 〈氷刃〉を二発放ったコックスは肩で息をしている。

 四日間の疲労、戦闘の緊張、そして魔力の消耗が重なったのだ。


 これは虚弱だからではない。

 むしろ彼は下級貴族にしては高威力の魔術を扱える方だ。


 入学当初はそうではなかったが、軍人学校で鍛えられ、体力も増した。

 それでも、十五、六歳の少年が実戦で魔術を二発連続で放てば、こうなるのが普通だ。

 無詠唱で威力ある魔術を次々放つクラウスとレオナルドが異常なのである。


 クラウスも喜びを分かち合いたかったが、自分は何もしていないため、大人しくしていた。


 どこかしゅんとした犬のようなクラウスを見て、コックスは少し哀れに思う。


 クラウスはおしゃべりな方ではないが、仲間の話をのんびり聞くのが好きな性分だ。

 それが今は、仕方ないとはいえ仲間外れのようになっている。


「あー、その……クラウス」


 コックスは、この訓練が始まってから初めてクラウスに声をかけた。


 クラウスは「なんだ?」という顔を向けた。

 課題で“気配を消せ”と言われている以上、自分が声を出していいのか迷っているのだろう。


「帰ったら、魔術の訓練に付き合ってくれないか? ほら、今回の訓練で俺の魔術を結構見ただろ? 気になるところを教えてほしいんだ」


 コックスは、クラウスがレオナルドとよく魔術訓練をしているのを知っている。

 “そこに混ぜてほしい”とは言えなかった。

 いや、そんな人外じみた訓練に混ざる勇気はなかった。


 けれど、強くなるためには訓練が必要だ。

 今回の行軍訓練で、コックスは何度も痛感した。


「もっと早く撃てたら」

「もっと精度を上げられれば」

「もっと魔力効率を良くできれば」


 そして同時に、恐れも知った。


「もしも発動が遅れたら」

「もしも仲間に当ててしまったら」

「もしも魔力が尽きたら」


 四泊五日の実戦で、魔術の重要性と運用の難しさを身に染みて理解した。

 だが軍人学校には、“魔術”を本格的に教えられる者が多くない。

 せっかく極めて優れた存在が同じ学年にいるのだ。

 自らも切磋琢磨できれば、と思う。


 コックスとクラウスは同じクラスだが、“親しい”とは言えない。

 コックスがクラウスに畏れを感じており、それが距離として現れていた。


 同じ貴族の出だからこそ、圧倒的な魔術の腕と、誰とも比べられないような武力を持つクラウスの存在が、どこか怖かった。

 クラウスとレオナルドの、訓練に対する異常なまでの真摯さも、敬意と同時に距離を生んでいた。


 ――もっとも、クラウスにとってそれは“真摯”というより、単に身体を動かすのが好きなだけなのだが。


 それでもコックスは、この訓練を機にクラウスと少しでも近づけたらと思った。

 薄い気配で自分たちを追うクラウスは理解の外にあり恐ろしくもあったが、食や歩調を自分たちに合わせるその姿に、人としての誠実さを感じた。

 健気な姿に絆された、とも言えるだろう。


 コックスの言葉に、クラウスはぱっと嬉しそうな顔で頷いた。

 その背には、ぶんぶんと尻尾が振られているようだった。


 コックスの脳裏にレオナルドの怒声が過ぎる。

 先日聞いた台詞。そのときは、また叱られてるなと軽く笑った。


「こ……のバカ犬!」


 ――確かに、これは犬だ。


 コックスは思わず吹き出しかけ、クラウスは不思議そうに首を傾げた。

ここまで読んでくださって、ありがとうございます!

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次回のタイトルは、「肩を並べて」です。

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