88 長距離行軍訓練 沈黙の終わり
四日目の早朝、まだ陽も上りきらぬ頃。
レオナルドの班は、黙々と山を登っていた。
予定よりも遅れている。
帰投刻限に間に合わせるには、とにかく速く、余分を切り捨てて進むしかなかった。
その足取りには疲労が滲み、息も次第に荒くなっていた。
追い詰められることで迷いが削がれ、判断が速くなった。
余裕のなさはいかがなものかと思うが、普段の思慮深さが活きている。今のところ、“誤り”と言える選択はしていない。
レオナルドはそう分析しながら、半ば他人事のように彼らを観察していた。
ただ、ここからはどうだろう。
昨日から今日にかけての天気、生息する樹木、魔獣の足跡――。
それらから進路の状態を予想しながら、彼は一人、列から離れた場所を歩いた。
「嘘だろ……」
先頭を歩いていた青年が呟いた。
――レオナルドの予想は的中した。道が崩れていたのだ。
元々“道”といっても整備された道ではない。
地図に記された、“進むべき地面”にすぎない。
商人などの一般人では歩けないだろうが、自分たちのように鍛えた者なら歩み進める、そんな道。
それが今、崩れ去っている。
張り詰めていた空気が、ぷつりと切れた。
沈黙の中、誰かが息を吐く音だけが聞こえた。
――これは、立て直すのに時間がかかるな。
レオナルドの冷静な眼差しは、最早試験監督のそれに近かった。
――パンッ!
短く響いた音に、全員の注意が向いた。
一人の班員、北部の伯爵領出身の平民サントスが、大きく手を叩いたのだった。
「虫が飛んでた」
サントスの台詞に、班長のテオドールは一瞬言葉を失いかけたが、すぐに我に返って注意をした。
「響くように音を立てるな! 魔獣が寄ってくるかもしれない、危ないだろう」
「悪い悪い」
サントスは手をヒラヒラと振り、謝罪の色を伴わない言葉を吐いた。
レオナルドが捉えた横顔は、普段と変わらぬ、だるそうな青年のそれだった。
しかし――レオナルドの目は、ごまかされなかった。
虫など、居なかった。
あの拍手が、計算の上でのものだとレオナルドは理解した。
サントスは、沈みかけた班員たちを引き戻すため、わざと手を叩いたのだ。
そして班長に叱責させることで、全員を我に返らせた。
彼は、端的に言えばやる気を感じない生徒だ。
どの授業でも、手を抜けるところは手を抜いている。熱意を読み取れたことはない。
それでも上位クラスに属するだけの評価は受けている。
サントスが軍人学校に入ったのは、幼馴染についてきただけだと聞いている。
その幼馴染は努力家だったが、力が及ばず上級クラスには入れなかった。
自分は何もせずとも上位クラスに居られるのに、懸命に努力した幼馴染は下位クラスに――その矛盾が、サントスのやる気をさらに削いだのかもしれない。
彼には能力がありながらも情熱はない。
故に、指揮を任せるのは向いていない。――レオナルドはそう認識していた。
だが、決めつけるのは尚早だった。
多感で繊細な年頃だ。一つ二つの出来事で、価値観など容易く翻る。
四日前のサントスなら、こんなことはしなかっただろう。
班のために自分の能力を使おうなどとは思わなかった。
けれど四日間、班員たちが懸命に進む姿を見てきた。
その中で、サントスは変わったのだ。
やる気を出した、というほど大げさではない。
けれど今確かに、班のために能動的に動いた。
皆が絶望しそうなところを、拍手一つで止めたのだ。
サントスにリーダーをやらせても面白かったかもしれないな。
そう考えて、レオナルドは小さく笑う。
教官たちの決定に異議を唱えるほどのことではない。
だが、それも見たかったという純粋な興味だ。
さて、好奇心を刺激してくれた礼に、少し仕事をしてやろう。
もちろん、一班員として出過ぎない程度に。
「どうする班長。このまま進むのか?」
サントスが皆を我に返らせた。ならば次は、進むべき道を考えさせる番だ。
四日目にして、レオナルドが初めて班の判断に関わる事柄を口にした。
テオドールは一瞬目を丸くしたが、すぐに「いや」と答える。
「この道を進むのは危険だ。迂回しよう。こちらの道か、こちらの道を行く」
地図を広げ、迷いなく二つのルートを指し示す。
その手際は、往路で地図の細部まで確認し、慎重に進んできた証だろう。
だが、案が二つとなれば――この班の苦手とする“選択”だ。
「遠回りになるけど魔獣の少ない道と、それより距離は短いけど魔獣が多い区域を通る道だな」
班員の一人がそう言った。
同じ理解を持てるように声に出して共有する。その姿勢を、レオナルドは好ましく思った。
「俺らの課題は制限時間内にゴールすることだろ。それで、今日は四日目。一つ目の道だとギリギリになる。急いだ方がいい」
サントスが発言する。
訓練開始から今まで、自ら意見を出すことのなかった彼が、テオドールに意見した。
「だが、雨で足場が悪い。それに皆疲れている。魔獣に十分に対応できるかどうか」
班員十二人からレオナルドを除き、戦うのは十一人。
それが少ないとは言わないが、戦いを交えながら進むとなれば、不安が伴う。
テオドールの表情には、その逡巡がはっきりと描かれていた。
「足場が悪いのはあちらも同じだ。それに、戦力は十分だろ」
サントスは、レオナルドを指差した。
「一人、元気なのが居る。コイツは“一班員として振る舞え”って言われただけで、“手を出すな”とは言われてねぇ。殿を任せるのは問題ないだろ。……なぁ、レオナルド?」
サントスの言葉に、班の空気がわずかに動く。
班員たちの視線がレオナルドへと集まった。
それは昨日までの、縋るような視線とは少し違っていた。
レオナルドは、昨日まで返していた常の笑みではなく、不敵に笑った。
「そうだな。軽く剣を振るうくらいなら、教官の指示にも背かないんじゃないか?」
テオドールは一瞬だけ迷い、そして頷いた。
「分かった。レオナルド、殿を頼む。俺たちは――」
彼らは、魔獣が密集する区域へと足を踏み入れた。
次回のタイトルは、「結束の刃」です。




