86 長距離行軍訓練 感情の正体
ダリオには、平民に対する差別意識があった。
無意識ではない。彼にはその自覚があった。
だがそれは、貴族としての“身分”による差別ではなく、軍人としての“意識”への差別だった。
生まれの気高さに重きを置かないのは、彼にとって当然だった。
貴族としての身分など、軍人学校では武器の一つに過ぎないと、レオナルドに刷り込まれていたのだから。
彼には、軍人学校の学生としての自負があった。
レオナルドと出会う前。
ダリオはシュヴァリエ侯爵家の次男が軍人学校に通うと聞き、「何があれば侯爵家から軍人学校に来させられるのか」と、心の中で嘲った。
それはそのまま、父親から軍人学校へ行くように言われた自分への慰めとなった。
だが軍人学校でレオナルドと出会い、その慰めはあっけなく崩れ去った。
自分とは違う。
完璧に整ったレオナルドは、何もかもが違った。
「何故こんなところに居るのか」とは思いつつも、そこに嘲りはなくなった。
その後、貴族学院の単位を取っていることや、流れてきたレオナルドの噂を聞き、家に軽んじられているわけではないと知った。
家のために最善だから。そして、それが可能だから。
それだけの理由で、軍人学校に居る。
それを知った瞬間、胸の奥で何かが砕け散るような感覚に襲われた。
家から『不要』とされた自分とは違う。
軍人を目指してここに来た者とも違う。
誰とも違うレオナルドの姿を目に映すたび、感情が逆撫でされた。
そしてそれをそのままに、本人にぶつけたのだ。
――一学年の冬季休暇が始まる少し前。
軍人学校の二階の廊下。空がよく見える場所だった。
その日は、雲ひとつない青天だった。
侯爵家の令息に、子爵家の令息が突っかかるなど在ってはならない。
自分のためにも、家のためにも。
平民から見れば同じ“貴族”でも、貴族の間ではトリヴェリ子爵家とシュヴァリエ侯爵家は雲泥の差。
トリヴェリなど、シュヴァリエの鼻息一つで吹き飛ばされる存在だ。
だが、そんなことはどうでもよかった。
自分を否定した家のことも、家に否定された自分のことも、もうどうでもよかった。
ただ、この感情の激流を鎮めたかった。
ダリオは、レオナルドが一人のときを狙って突っかかった。
クラウスという化け物に、用事はなかった。
そのとき自分が何を口走ったのか、今ではもう覚えていない。
ただ、胸の奥の黒い感情を、言葉にして吐き出したのだ。
……おそらく、シュヴァリエ侯爵家を侮辱する言葉だけは避けたのだろう。
そうしていなければ、きっと自分はレオナルドの視界の中で呼吸することすら許されず、彼と同じ上位クラスになど残れなかった。
「なんだ、嫉妬か」
レオナルドの声には、ダリオへの感情が何一つなかった。
『くだらない』という呆れすらない。
強いて言うなら、『つまらない』という響きだった。
ダリオは言葉を失った。
胸にあったものが“嫉妬”だと言い当てられたから――ではない。
嫉妬とは、こんなにも複雑なものだったのか。
そう思ったからだ。
軍人学校へ進めと命じられたときの絶望よりも重く。
家督を継ぐ兄に嘲られたときの悔しさよりも暗く。
初めて魔術を使えたときの昂揚よりも熱く。
どうしようもなく理性をかき乱す。
胸を抉るように締め付ける、この感情を――嫉妬というのか。
混乱の中にいるダリオに、レオナルドは言った。
「軍人は、民のために在る。そう思わないか」
ダリオは、レオナルドの言っていることが一瞬分からなかった。
レオナルドはダリオの困惑を理解しているという顔で、視線を窓の外に向けた。
ダリオも、自然とそちらを向いた。そこには、笑い合う平民の学生たちがいた。
「アレのために、私たちが居ると言うのか。平民のために戦えと言うのか」
「まさか」
感情の伴わない、貴族らしい声音。
背骨を氷でなぞられたような感覚に、ダリオの喉からひゅっと息が逃げた。
レオナルドに顔を向ける。見知った場所なのに、ここが軍人学校ではないように思えた。
「彼らは軍人となる。守るべき“民”ではない。剣であり、盾。俺たちと同じだ」
「私たち、と……?」
ダリオは気が付かぬうちに、レオナルドの声を聞きこぼさないよう意識のすべてを傾けていた。
「俺たちは、国のために生き、国のために死ぬ。そう定められて生まれた。違うか?」
『俺たち』
それは明確にダリオとレオナルドを指していた。
他の誰かではなく、自分と彼、二人だけを。
その響きに、胸の奥が焼けつくように熱を帯びる。
「軍人学校に来たんだ。彼らにだって、その覚悟は求められる。俺たちと同様に戦わねばならない。彼らは、守られる立場ではない」
ダリオには、そのような覚悟はなかった。
だが、この美しい男の期待を裏切りたくなかった。
先ほどのように、冷たい無関心を向けられることだけは耐えられなかった。
「軍では貴族も平民も関係なく、王国の民に尽くさねばならない。――だが残念なことに、彼らは俺たちと同じ舞台には立てない」
「……どうして」
「力がない。“身分”という力も、“魔術”という力も。『軍』では能力のみを評価するが、外部と関わる環境がある以上、その“能力”には、軍人学校で学ぶこと以上のものが求められる。そして彼らは、それを得られない」
レオナルドは、平民の生徒たちから視線を外し、身体を翻して窓枠に寄りかかった。
「ならばやはり、私たちが守らねばならないのではないでしょうか」
持つ者は持たざる者に与えねばならない。そう在るべきとされている。
しかしダリオはこれまで、平民を守るなど考えたことがなかった。
けれど今、彼の口は「守るべきだ」と発していた。
貴族としての自負が、そう言わせたのだ。
この瞬間、レオナルドとダリオは同じ立場にいなかった。
心理的な差が、自然と敬語を使わせていた。
「それは違う。俺たちの命は王国民のために使われる。彼らもそうだ」
ダリオの身体に、ゆっくりと、レオナルドの言葉が染み込んでいく。
「彼らは俺たちと同じ舞台には上がれないが、違う舞台には上がれる。それぞれが、それぞれの力を、それぞれの場所で発揮するんだ。それが集まって、“軍”になる」
「軍に……」
「今は貴族と平民で分けて言ったが……お前も、お前の力を発揮すればいい。他の誰でもなく、ダリオ・トリヴェリの力を。俺と比べる必要はないさ」
レオナルドが、ダリオを見て微笑んだ。
ダリオはその微笑みに、応えたいと思った。
細められたその瞳に認められたいと思うのは、至極自然なことだった。
先週金曜日に、短編『ざまあみろ、と思ったはずなのに――壊れた私の復讐は、何も満たさなかった』を公開しました。
レオナルドも登場しますので、よければ読んでいただけると嬉しいです。
次回のタイトルは、「灯された誓い」です。




