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85 長距離行軍訓練 偵察が築いた夜

 風が冷たさを帯び始めた頃、ケイランたちは野営の準備を始めた。

 慎重に、かつ堅実に行動し、余裕を持って食糧も調達してきた彼らは、想定外の激しい雨の中でも遅れなく進んでこられている。

 この調子なら、問題なく訓練を修了できるだろう。


 皆の顔に疲労の色は隠せない。

 それでも、着実に進めているという事実が、班全体の自信となっていた。


 コンラッドの指示で、班員それぞれが拠点作りに勤しんでいる。

 手の空いたケイランは、夜を越すための火を用意しようとしていた。


「火が点きづらいな」


 適宜偵察を重ねていたおかげで、彼らは山中にある巨大な岩棚を見つけていた。

 その場自体は濡れていないが、枝葉は近隣の樹木の足元から確保したものだ。

 木陰で濡れていない枝を選んだつもりだったが、湿気は避けられない。

 それに、空気自体が湿りきっている。


 腰袋に忍ばせていた樹脂に、火打石で火花を散らす。

 しかし火花は火を生む前に消えてしまった。


「……貸せ」


 いつの間にか、ダリオがケイランの背後に立っていた。

 彼はケイランの隣にしゃがみ、手から樹脂を取る。

 そしてそれを枝葉の上に置き、杖を取り出して唱えた。


「熱を与え、灯火を生め――〈火種〉」


 小さな炎が杖の先から生まれる。

 〈水球〉や〈風生〉と並ぶ基礎魔術。

 その小さく、しかし確かな熱を持つ光を、ケイランは綺麗だと感じた。


「初めて見た」


 思わず零れた声には、感動が滲んでいた。


「お前はクラウスやレオナルドの魔術をよく見ているんだ。この程度、大したことでもないだろう」


 フン、とダリオは鼻を鳴らした。

 それはケイランを馬鹿にするのではなく、むしろ自嘲に近い響きだった。


 ケイランは一日半前、ダリオの態度は平民への差別意識から来ていると思った。

 苛立ちの果てに、根にあるものが表面化したのだろう、と。

 だがそれだけではないのかもしれない。

 今のダリオの言葉でそう思った。


 レオナルドやクラウスといった“圧倒”に対するコンプレックスも、きっとあるのだ。


 あのときケイランが思ったように。

 あの場の全員が知っていたように。


 ――ここにクラウスやレオナルドがいれば、もっと簡単に進めただろう、と。


 ダリオたちと、彼らを比べた。


 平民にとって、貴族と聞いて思い浮かぶのはレオナルドだ。

 彼こそが「理想の貴族の在り方」だと思う。

 クラウスはまた区分が違う。彼は“クラウス”以外の何者でもない。


 レオナルドはときに苛烈だが、公正だ。

 基本的には協調的で、その者が平民だろうと、レオナルドに悪感情を持っていようと平等に扱う。

 彼が叩き潰すのは、明確に“軍人”として誤った行動をし、なおかつ彼の癇に障った者だけである。


 だがそれは、隣に並び立つということではない。

 彼は常に高貴さを携え、“貴族”であることを忘れさせない。


 腹の立つ言動はある。

 それでも彼の言葉はいつも正しい。

 自分たちが適っていないからこそ、レオナルドの言葉に腹が立つのだ。

 そしてその苛立ちを誘う物言いがあるからこそ、彼はただ遠い存在では終わらない。


 ――それと比べられたら、たまったものじゃないよな。


 ケイランは、レオナルドとクラウスが特別だと分かっている。

 分かっていながら、無自覚に“貴族”を彼らと一括りにした。

 差別意識があったのは、自分も同じなのかもしれない。

 そう考えて、ケイランは自分を恥じた。


 ケイランは、まっすぐにダリオを見た。


「ここで火種をくれたのはダリオだ。クラウスでもレオナルドでもない」


 ダリオの視線と、ケイランの視線が交わる。


「助かった。ありがとう、ダリオ」


「……あぁ」


 ダリオはケイランから目を逸らし、揺れる炎を見つめた。

明日の18時過ぎに、レオナルドも登場する短編『ざまあみろ、と思ったはずなのに――壊れた私の復讐は、何も満たさなかった』を公開予定です。

よろしければ、そちらも覗いてみてください。


次回のタイトルは、「感情の正体」です。

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