70 魔術の勉強 基礎の基礎
「魔術を教えてほしい」
レオナルドの扱きと励ましによって、クラウスはなんとか進級試験を乗り越えた。
「実技が飛び抜けているからといって、筆記試験で及第点が取れなければ進級できない」
「いや、ギリギリの点じゃ、俺とクラスが分かれるだろう」
「軍人学校を変える――それを手伝ってくれるって言ったのは、嘘だったのか?」
……励ましというより、脅しだったかもしれない。
とにかく、どうにか進級を果たしたクラウスは、レオナルドに言ったのだ。
「魔術を教えてほしい」と。
「俺が、お前に?」
「ここにお前以外、誰がいるんだよ」
寮の一室、二人部屋。ここにはクラウスとレオナルドしかいない。
「そうなんだが……そうじゃなくて……」
座学についてはレオナルドがクラウスに教える立場だったが、体術や魔術に関してはむしろレオナルドの方がクラウスから学んでいた。
感覚派のクラウスと、理論派のレオナルド。
レオナルドはクラウスに説明させることなく、実践させ、その動きを観察し、そこから理論を導き出して習得してきた。
だが、逆はなかった。
クラウスがレオナルドに理論を尋ね、学ぼうとすることはなかった。
何故か。――クラウスは「なんとなく」で、真似できてしまったからだ。
レオナルドがどれだけ試行錯誤を重ねて身につけた魔術も、時間をかけて習得した技術も、クラウスは数回見れば「なんとなく」で再現できる。
だから、レオナルドは驚いたのだ。
自分に、何を教えられるというのか、と。
「遠く離れても〈障壁〉を張ったままにできるようになりたい。だけど、訓練しても、なんかこう……できない」
クラウスは眉間に皺を寄せ、さながら野獣が唸るような顔で言った。
レオナルドには、「こいつは真剣に悩んでいるんだ」と、伝わった。
「レオナルドは、魔術陣にも詠唱にも詳しいだろ? 俺はその辺がよく分からない」
――その辺が分からなければ、普通は魔術が展開できないんだよ。
クラウスの落とした、何気ない一言。
そこに潜む“才能”に触れて、レオナルドは小さく笑みを漏らした。
「レオナルド?」
「魔術陣と詠唱について、知りたいんだな?」
嫉妬にもなれなかった、常識外への“圧倒”。
芽生えた感情を悟られぬよう、レオナルドは訊いた。
「おう。よく言ってるだろ、魔術陣を展開してから省略するとかなんとか。ああいうの、全く意味が分からないんだ。でもそういうのが分かれば、なんかヒントになるんじゃないかって思って」
クラウスは、どこかもじもじとした様子で、大きな体を縮めるように動かした。
普段のレオナルドなら、その仕草に「図体の割に情けない動きだな」と辛辣な感想を抱く。
しかし今は、“才能”を前にして、内に湧き上がる高揚を抑制するのが精一杯だった。
「〈障壁〉については、今度アイゼンハルト邸で調べた方が確実だろうな。それまでに〈風〉と〈土〉魔術の基礎からさらっておくか」
〈風〉と〈土〉の適性を持ち、高い技術力を持つレオナルドも〈障壁〉を展開することができる。
また、クラウスの〈障壁〉を破るため、理論も深く学んでいる。
だが、クラウスのような速度や精度では扱えないし、「張るため」ではなく「壊すため」の学びだった。クラウスの欲するものとは、視点が異なる。
加えてレオナルドは、「〈障壁〉の目的は攻撃を防ぐこと。ならば〈水〉系統の魔術で代用するか、そもそも攻撃を避けるほうが自身には有効だ」と考え、〈障壁〉の展開について深く掘り下げてはこなかった。
ゆえに、クラウスを高めるほどの知識を自分は持ち合わせていないと判断した。
「頼む。……その、基礎から分からないんだ」
「術陣や詠唱の構造ってことか? なら、まずは〈風〉の初級魔術から触れていこう」
レオナルドはそう言ってペンをとり、〈風〉系統の初級魔術〈風生〉の術陣と詠唱を書いた。
魔術とは本来、使い手の目的や魔力の性質に応じて、最も適した術陣や詠唱を構築すべきものだ。
だが現実には、多くの貴族が“汎用的に一般化された術陣と詠唱”を用いている。
理由は単純だ。
個別に最適な魔術を組み上げるには、広範な知識、深い自己理解、そして高い構築力が必要だ。
しかしそこまでの学習ができる者はそう多くなく、研究や修練にかけた時間に見合う成果が得られるかどうかも分かりづらい。
そのため、研究職を志す者を除けば、汎用からの工夫を学ぶ方が現実的かつ効率的だとされている。多くの者が“個別最適”ではなく、“汎用形式”からの威力の強化や詠唱の短縮に重きを置くのだ。
レオナルドが今書いた術陣と詠唱も、そうした汎用形式に則ったものだった。
術陣は、絵本で学ぶような、最も構成要素が少ない形。
まず円を描き、その内側に“風”を意味する図形を置く。
続けて円周に沿って、『生む』と『流れ』という単語を環状に並べた。
レオナルドはこの二語しか配置しなかったが、ここにさまざまな語句を加えることで、術の指向性や威力といった性質も調整できる。
最後にもう一重、外側に円を描いて全体を囲めば、術陣は完成する。
対して書いた詠唱は、“完全詠唱”と呼ばれる最も構成要素が多い形。
術の構造、術者の意志、魔力操作の流れなど、魔術を構築する全ての要素を過不足なく言語化している。
当然長くなるため実戦では非効率だが、理論を学ぶには最適だ。
すらすらと書き上げたレオナルドを見て、クラウスは一拍おき、意を決して口を開いた。
「分かんねえ」
「何が分からないんだ?」
「……何が書いてあるのか、分からない」
術陣の“形”は分かる。
中心の図形が“風”を意味することも、昔、家庭教師からなんとなく聞いた覚えがある。
けれど、それがなんなのかがよく分からない。
加えて、環状に配置された文字は、目がどこを追えばいいのか分からなくなり、普段以上に読みづらい。
今回は二つしかないはずの単語が、形を崩して見え、判別できなかった。
もしもっと多くの単語を並べられたら、どこが始まりでどこが終わりかさえ掴めないだろう。
詠唱はさらに酷い。
普段使わない単語や文法のため、途切れ途切れに拾える文字があるだけだ。
クラウスはまだ、レオナルドに「文字が読めない」とは言えていなかった。
欠けているようで恥ずかしかったし、父からのように否定されるのが怖かった。
だけど、強くなるためには、学ばねばならない。
文字が分からないことを、レオナルドにどう思われるだろうか。
不安が込み上げ、気づけば拳を握っていた。短く切った爪が、手のひらに食い込むほどに。
レオナルドは考える。
『何が書いてあるのか分からない』とはどういう意味か。
ここにあるのは“基礎”だ。それすら理解できないというのは、つまり――
「基礎の基礎から、分からないってことか?」
レオナルドの返答に、クラウスは拍子抜けしたように、それでいてどこかホッとしたように「おう」と答えた。
「魔術の勉強」は四話程度の予定です。
次回のタイトルは、「基礎と本質」です。




