54 実地演習 備えあれば
渦の大きさは当初の二倍程度にまで広がり、おどろおどろしい魔力が垂れ流されている。
だが、変質を続ける渦を前に、レオナルドは冷静だった。
レオナルドは、目の前の現実と過去の記録を照合し、確率の高い未来と、起こり得る最悪の未来を想像する。
それらに対して可能な限りの準備を整え、研ぎ澄まされた静寂の中、そこに居た。
空気を満たす魔力の濃度は、先ほどから変わらない。
しかし、静けさは“終わりの気配”を孕んでいた。
渦の裂け目が、不意に細く震えたように見えた。
それは予兆のようでもあり、呼吸のようでもあった。
やがて灰に近い毛並みが、空間の裂け目から覗いた。
毛並みの主――一頭のグレイファングが、姿を現す。
そしてそのまま、レオナルドが作り上げた泥濘に沈んだ。
滑るというより、吸われるように足が地面に飲まれる。
グレイファングはバランスを保てず、胸から地に叩きつけられた。
その後ろから、次の一頭が、間を置かずに出現する。
それはただ重力に従い、崩れた仲間の背へと真っ直ぐ落下した。
足元に仲間がいるとは思わなかったのだろう。想定外の足場に驚き跳ねたグレイファングは、着地点の薄氷に足を取られ転倒した。
――渦の中から、転がる二体が見えたのだろうか。
まだ解明されていない“渦の中”から続け様に現れた三体目は、泥に沈んだ仲間の身体を踏み、レオナルドの元へ跳躍した。
だが、踏み込みはわずかに狂っていた。沈んだ仲間の身体が想定よりも軟らかかったのか、あるいは滑ったのか。
勢いは削がれ、跳躍は距離を満たせない。
三体目はそのまま泥濘に落ち、崩れた土に膝を取られ、体勢を失った。
四体目は、迷いなく仲間を踏みつけ着地する。
泥に脚を取られぬよう、注意深く進んでくるその姿は、慎重とも、あるいはただの遅滞とも取れた。
――そして五体目。
赤黒い毛並み。変異種、ブラッドファング。
一体目と二体目の背を、微塵の狂いもなく選び取り、脚を置く。
深く沈み込まず、瞬時に体勢を整えると、低く吠える。
その遠吠えに応えるかのように、すべてのグレイファングの瞳がレオナルドを向いた。
「ブラッドファングがグレイファングの群れを統率した話は、聞いたことがあるな」
それは渦とは関係のない、野生下での事例だった。
当時は、群れを相手にするのは面倒そうだと考えたが――
「機動力を失くした牙獣種を、殺せない道理はない」
レオナルドはまず、足場を整え統率の兆しを見せたブラッドファングを仕留めることにした。
先ほどの個体と同様、〈水球〉と〈凍結〉で凍てつかせ、今度は〈氷槍〉をその頭蓋に貫通させる。
次いで、四頭のグレイファングの頭部を〈氷礫〉で砕き、確実に息の根を止めた。
どちらも、あらかじめ設置した魔術陣を使うまでもない。
そう判断した彼は、新たに術陣を描き、そのうえで詠唱した。
最も手間はかかるが、その分、集中も魔力の消費も最小限で済む方法だった。
「死骸が邪魔だが――逐一退ける暇はないか」
ブラッドファングたちを余裕をもって討伐し終えた、そのときだった。
渦の中から、新たな魔獣が顔を出す。
「次はスレイクホークか。罠を準備した後でよかった」
姿を見せたのは、翼禽種の通常個体・スレイクホーク。
鷹のような形状だが、翼の一部には鱗が混じる。その一体の大きさは、およそ馬一頭分だ。
「〈氷刃〉」
簡易詠唱と同時に、罠として仕掛けておいた術陣を起動する。
渦のほぼ真横からの攻撃だった。
スレイクホークは翼を広げる暇すら与えられず、首を斬られて、グレイファングの死体の上に落ちていく。
「……本当に、罠が間に合っていてよかった」
そのすぐ後ろから、新たな魔獣の姿が見えた瞬間、レオナルドは思わず溢した。
ガロウブルーム。蔓獣種、食虫植物型の魔獣だ。
“植物型”とはいっても、実際は太い蔓足を持つ。その表面は吸盤のように広がり、わずかに粘り気を帯びている。あれは、地形を選ばず進む、巨大な軟体の歩行器官のようなものだ。
中央の花器官は、喉を思わせる構造の口を持つ。その蔓の先には棘状の触手が伸び、内部には腐食液を溜めた嚢がある。
最大の特徴は、“口”から炎を吐くこと。
その火力は、下手な貴族の〈炎弾〉よりもよほど強い。
遠距離から腐食液や炎で獲物を仕留め、触手でそれを口へと運び消化する。
植物のような見た目に反して〈炎〉系統に耐性があり、植物のような見た目通りに〈水〉にも〈土〉にも強い。
真正面から撃ち合いをしたならば、それなりに魔力と体力を削られただろう。
ガロウブルームの口が、ゆっくりと開いた。その内側が脈動し、赤熱が立ちのぼる。
火ではない。魔力の奔流が花器官の奥から漏れ、熱を含んだ空気が周囲を歪ませていた。
「撃ち合いをする気はない」
レオナルドはそれが発出されるよりも早く、罠を起動した。
「〈風刃〉――植物なんだから、大人しく切られろ」
ガシュ、とガロウブルームの胴体が断たれる。
魔獣の連続出現に一つ息を吐いた、そのときだった。
花弁の陰から、チロチロと小さな影が滑り出す。
ガロウブルームを即座に仕留めなければ、見逃していたかもしれない。
「……スリグレイム」
灰褐色の皮膜に覆われた群れ型の魔獣。蜥蜴のような見た目をしており、短肢で地を這うように移動し、粘り気を残しながら泥濘の表面を滑る。
野生では泥沼に住まうため、レオナルドが整えた地との相性は、むしろ良い。
レオナルドは眉間に皺を寄せ、声を低くした。
「まさか、出て来る魔獣がこちら側に適応してるわけじゃないよな? ――考えたところで仕方ないか」
こちらにできることは変わらない、とレオナルドはすぐに思考を切り替える。
ガロウブルームの巨体に隠れ、スリグレイムはすでに十数体が出現していた。気付かずに泥に紛れたものもいるかもしれない。
スリグレイムは、単体だとさして脅威にはならない。だが、小さく、素早く、数で人の体を覆い、噛み付き、削り、肉の色が見えなくなるまで食い尽くす。
柔らかな女子供の肉を好む魔獣だ。ここで逃せば、どこかで誰かが痛みと絶望の中死ぬだろう。
レオナルドは罠の縁まで歩み寄り、泥に手を触れた。
その瞬間、罠として整えていた地全体が、〈氷結〉により氷へと変わる。
「いかに泥沼に住もうと、氷の中では生きられない」
相性で言えば、スリグレイムに最も効果的なのは〈火〉系統の魔術だ。けれど、レオナルドの魔力適正や泥濘と化した地を考えると、それは非効率的だった。
故にレオナルドは、最も得意とする氷魔術で、罠を張った地自体を凍らせた。表層だけでなく、その奥深くも。そして沼に潜っていなかったスリグレイムも、その粘膜を伝いついでに凍らせた。
水というのは、凍れば膨らむ。泥濘の外側から内側に順に凍結を行い、膨張エネルギーを閉じ込めてしまえば――
「圧力は、内部に向く」
地中に潜ったスリグレイムが何体いたかはわからない。だが、「潜れた」場所は全て潰れた。
表層にいるスリグレイムの死は目視で確認できている。これで、討ち漏らしはない。
「さて、これはいつまで続くんだ?」
渦はまだ、異様な雰囲気を放っている。
レオナルドはもう一度「温存しておいてよかった」と言いながら、ため息を吐いた。
次回は通常通り火曜(6:30)更新の予定です。
タイトルは、「戦場にて」です。




