49 実地演習 誰かにとっての英雄
ケイランが剣を拾い、子供のもとにたどり着く。
馬車の影で、子供は小さな体をぎゅっと縮めていた。
震える体には、無数の擦り傷。先ほど跳ね飛ばされたときにできたものだろう。
「ごめん、な……」
現場に着いて、すぐに見つけてやれなかったこと。
あのとき、アイザックを優先してしまったこと。
そのせいで、この子の救出が遅れてしまったこと。
泣くこともできず、ただ震えている子供を、ケイランはしっかりと抱き上げる。
「俺たちが、守るから」
今は、一秒でも早く、安全な場所へ。
とはいえ、戦線を長く離れるわけにはいかない。
馬を繋いである留め場まで連れていく。あそこは安全だし、駆けつけたレオナルドが子供に気付くはずだ。この子をそこに避難させ、すぐに戦場に戻る。
それが、彼の出した結論だった。
だが、教官の指示は異なるものだった。
「そのまま街に戻れ!」
「なぜですか!? この子を避難させたら、すぐに戻ります!」
「一日持たせろという話だったが、それは無理だ! 街に戻って、守りを固めさせろ!」
言っていることは理解できる。戦いは、ここで完結しない。
しかし、それは――
「教官はどうするんですか!?」
「俺はここで食い止める!」
それはつまり、教官を見捨てろということではないのか。
ケイランは、どうしても頷くことができなかった。
「……っ! ひとまずこの子を避難させて、すぐに戻ります!」
「ケイラン!」
教官の声を振り切り、ケイランは子供を抱えて谷の上手にある岩陰へと走った。
戦闘の音に怯えて身じろぐ馬を避けながら、そっと子供をおろす。
「大丈夫。あの魔獣を倒したら、すぐ戻るから」
そう言って子供の頭に手を伸ばす。
けれど、その瞳に浮かんでいたのは、恐怖だけだった。
「……必ず、君を街に連れて行くよ」
ケイランは子供を岩陰に残し、再び戦場へと駆け戻る。
戦いの音はなお続いているが、優勢なのはどちらか、耳だけでは分からない。
地を踏みしめるたび、胸の奥がざわつく。進んでいるのに、進めていないような焦燥。
ようやく戦場が見える位置に出ると、教官がブラッドファングに押され始めていた。
衣服のあちこちに裂傷が走り、肩で荒く息をしている。
それでも一歩も退かず、間合いを保ちながら、刃を振るっていた。
「援護します!」
叫ぶなり、ケイランは迷いなくブラッドファングに突進した。
「なぜ戻った!」
「『一日』は無理でも、レオナルドが来るまでなら持たせられます!」
教官からすれば、増援といっても学生が一人増えるだけのことだ。
だがケイランは、思った以上によく戦えている。
命を落としたアイザックも、学生とは思えぬ戦いぶりを見せた。
そんな彼らが信じるのなら。
「……分かった。順番に囮になって奴を引きつける。削れるだけ削るが、時間を稼ぐのが最優先だ」
「はい!」
ケイランの参戦で、崩れかけていた戦況はわずかに持ち直した。
それでも押されていることに変わりはない。
どこか一つでも崩れれば、すぐに均衡は破綻する。
それを、教官もケイランも分かっていた。
渦から魔獣が現れるのが先か。
それとも、レオナルドが到着するのが先か。
「一分でも、一秒でも早く来てくれ……」
ケイランは、祈るように願った。
ブラッドファングの動きが、一瞬止まる。
好機か、それとも何かを狙っているのか。
『時間稼ぎをする』と割り切った二人は、それが誘いである可能性を警戒し、距離を取りながら次の動きに集中する。
やがて、ブラッドファングが大きく身をかがめ、跳ね上がる。
狙いは――教官。
ブラッドファングは、学んでいた。
自分にダメージを与える相手を。より消耗の激しい相手を。
ケイランの攻撃を受ける覚悟で、ブラッドファングは教官を狙ってきた。
「教官!」
教官は剣でその勢いを受け止めきれず、後方へ倒れ込んだ。
頭を打っただろうか。
意識を失っていてもおかしくない倒れ方だった。
生まれた隙を、ブラッドファングは逃さない。
牙を剥き、教官の喉元へ喰らいつこうとする。
瞬間、ケイランは体当たりを仕掛けた。
次の攻撃など考えていない。ただ、教官の致命傷だけは避けたかった。
それだけを願った、必死の突進だった。
ブラッドファングは体勢を崩したが、すぐさま頭を振り回し、ケイランを弾き飛ばす。
そして、改めて教官の首を狙って跳び掛かる。
――そのとき。
拳ほどの氷塊が、ブラッドファングの頭を撃ちつけた。
ケイランの体当たりではよろめくだけだったその巨体が、のけぞるように吹き飛び、地を転がる。
「……遅いぞ」
「悪かった」
氷塊の出所を辿ると、戦場から少し上──馬を留めたあたりから岩を一つ登った斜面に、レオナルドが立っていた。
『悪い』などとは微塵も思っていない、あまりに涼しい表情。
だがそれが、今はとても頼もしく思えた。
レオナルドは周囲をざっと見回し、ケイランに短く指示を出す。
「子供がいたな。教官も連れて、街に戻ってくれ」
「お前一人に戦わせろっていうのか!?」
「……念のために訊くが、アレはクラウスより硬いのか?」
“天才”
“化け物”
それが、最初の実技授業で受けたクラウスの印象だった。
のちに親しくなってからは、少しのんびりした気のいい奴だと分かった。だが、それでも――
「任せた」
「あぁ」
“あの”クラウスと渡り合えるレオナルドにとって、ブラッドファングなんか敵じゃない。
ケイランはそう、理解した。
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次回の更新は明日朝(6:30頃)を予定しています。
タイトルは、「氷の静謐」です。




