48 実地演習 裂かれた幕の奥
※本話には、流血や死体描写など、ややグロテスクな表現が含まれます。苦手な方はご注意ください。
いっときの静けさが訪れた。
しかし、アイザックたちは気を抜かない。渦から目を離さず、いついかなるとき、再び魔獣が出現しても即応できるよう、集中を保ち続けている。
渦のすぐ手前には、三台の馬車が道なりに並んでいる。
商人たちの話のとおり、街へ向かっていたところを襲われたらしく、いずれも御者席がこちらを向いたまま瓦礫と化していた。
幌は引き裂かれ、木枠には深く牙の痕が残っている。無惨なその姿は、魔獣の凶暴さを物語っているかのようだった。
そのうち、アイザックたちから見て一番奥。
つまり、渦に最も近い馬車のすぐ傍に、喰いちぎられた死骸が転がっていた。
腹部から下が裂け、内臓が砂地にこぼれ出ている。
顔は恐怖に歪んだまま見開かれ、目はすでに乾きかけていた。
肌のあちこちに咬み痕があり、服は引き裂かれ、片腕は肩から先がない。
アイザックはその痛ましさに、目を細める。
ほんの一瞬だけ視線を逸らしかけた、そのとき。
破れた幌の布が、かすかに揺れた。
「……えっ?」
中に、討ち漏らしが潜んでいるのかもしれない。
警戒しながら、一歩前へ。腰の剣に手を添え、慎重に近づいていく。
渦の方角から吹いてくる砂塵と、血と肉の生臭さが、鼻を突いた。
この場にあるのは、紛れもない“死”の匂い。
だが、その中に、微かに異なる気配が混じっている。
谷底から吹きあがった風が、幌を大きくめくった。
その隙間から、何かがのぞく。
──縮こまった、小さな身体。
「子供……?」
幌の中には、若い女性の死体があった。
彼女は、子供を抱きかかえるように腕を回し、その姿勢のまま絶命していた。
さっき幌が揺れたのは、この子が身じろぎしたせいだったのか。
きっと、魔獣の気配が消えたことで、外の光を見ようとしたんだろう。
「早く気付いてやれればよかった」
アイザックは低く呟く。そして、優しい声音で呼びかけた。
「もう、大丈夫だ。こっちへおいで」
渦からいつ魔獣が現れても対応できるよう、アイザックは警戒を解かずに近づく。
子供は小さな体をさらに縮めながら、這うようにして女性の腕から抜け出してくる。
やがて、子供が馬車の中から完全に姿を現した。
それを見て、アイザックはホッと息を吐く。
「いい子だ。頑張ったな」
そう笑いかけた、その瞬間――
空気が張り詰めた。肌がざわつく。胸が嫌な鼓動を打つ。
渦の奥から、唸りが聞こえた。
獣の低い咆哮が大地を震わせる。
「ブラッドファング……っ!?」
ケイランの、悲鳴のような声が上がる。
牙獣種の変異個体、“ブラッドファング”。
灰色のグレイファングとは異なり、全身を深紅の体毛を纏う。身体の形は同じ狼型だが、体高はグレイファングの倍。
その目は、ただの野生ではない。獲物を選ぶ知性があった。
「マジ、かよ」
アイザックの口からぽろりと溢れる。
彼らが狩ったことがあるのは、グレイファングの通常個体まで。このサイズの魔獣を討伐したことは――いや、遭遇したことさえなかった。
「まずい!」
ケイランの叫びより早く、ブラッドファングが跳ねた。
その先にあるのは、小さな命。震えていた子供だ。
「くっ……!」
その牙が届く寸前、アイザックが身を投げ出すように飛び込んだ。
左肩に食らいついた牙は、首元まで達し、肉を裂き、骨を砕く。
激しく血が噴き出す。
「アイザック!?」
ケイランが駆け出すのに気付いたブラッドファングは、咥えたままのアイザックを激しく振り回す。
その勢いで、子供の体が跳ね飛ぶ。先ほどまでいた馬車の影へ、転がるように戻される。
「ケイラン! 止まれ!」
教官の静止も、怒声も、ケイランの耳には入らない。
瞳に映っているのは、ただひとつ。
「アイザックを……離せ!」
見せつけるように友を掲げる魔獣に、ケイランは剣を振り上げた。
だが、その斬撃が届くより早く、ブラッドファングはアイザックを投げつけた。
それは、ケイランめがけて飛んでくる。
ほんのわずかに狙いは逸れていたが、それでも――意識を逸らすには十分だった。
「……っ!」
反射的に剣を手放し、ケイランはその身体を受け止める。
衝撃で後ろに倒れこみ、砂の地を転がった。
だが、放してはいない。その腕には確かに、アイザックがいた。
ぐったりとした重みが、胸の上に沈んでいく。
「アイザック……!」
身を起こし、友の名を呼ぶが返事はない。
呼吸のないその体からは、ただ血液だけが流れ出ている。
「ケイラン! くそッ……!」
そんなケイランに追撃しようとするブラッドファングを、間に入り教官が止める。
押されながらも、巨体の攻撃をなんとか受ける。踏ん張る足が土をずり、足元に砂煙が立つ。
「ケイラン! 早く立て! ……アイザックは、もう無理だ!」
「目を覚まします! アイザックは、いま少し気を失ってるだけで……」
「現実を見ろ! あの子供を守れ! ――これは命令だ」
ケイランは『子供』という単語で顔を上げる。
アイザックが守ろうとした子供。頭を抱えるようにして、馬車の影に隠れている。
ケイランは、一瞬だけアイザックを見た。
その瞳には、まだ迷いがあった。だが、それでも立ち上がる。
心は今なお悲鳴をあげていたが、友が守った命のもとへと向かった。
その行く手を狙うように、ブラッドファングが身を低くして跳ねかかる。
だが、教官がすかさず割って入り、鋭い一撃でその動きを止めた。
グレイファング相手であれば斬り裂けていたはずの太刀筋。
だが、今の相手には通じない。
ブラッドファングの毛並みは金属のように硬く、刃が食い込む気配すらない。
いっそ、グレイファングと同じように谷底へ突き落とすかとも考えた。
だが、これほどの魔獣が、落下の衝撃で動きを止めるとは思えない。
落ちた先で暴れ、方向を変えて街へ向かう可能性さえある。
「さて、どうしたものか」
学生一人と自分一人。子供を守りながら、増援が来るまで耐える。
それがどれほど非現実的かは、分かっていた。
「やるしかない、か」
彼は腹を括った。
ケイランには子供を連れて街へ戻らせる。レオナルド、あるいはクラウスに伝達し、街の守りを固めさせる。
そして自分は、命を賭してでも、この場でブラッドファングを仕留める。
「……それで渦が閉じてくれなきゃ、詰みなんだがな」
この個体を最後に渦が閉じるか、あるいは増援が来るまで新たな魔獣が現れないか。
「希望的観測でも、このまま三人死ぬよりマシだろ」
ふぅ、と息を吐く。
若者たちに未来を託すと決めた瞳には、強い光が宿っていた。
本来の更新は火曜・木曜朝なのですが、この描写を朝公開するのはどうなのか……と思い、本日更新しました。
また、三連休は毎朝6:30に更新予定です。
※本作はタイトルを少し変更しました。
詳細は活動報告に記載していますので、よければそちらもご覧ください。
次回タイトルは、「誰かにとっての英雄」。
引き続き、よろしくお願いします!




