表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
49/102

48 実地演習 裂かれた幕の奥

※本話には、流血や死体描写など、ややグロテスクな表現が含まれます。苦手な方はご注意ください。

 いっときの静けさが訪れた。

 しかし、アイザックたちは気を抜かない。渦から目を離さず、いついかなるとき、再び魔獣が出現しても即応できるよう、集中を保ち続けている。


 渦のすぐ手前には、三台の馬車が道なりに並んでいる。

 商人たちの話のとおり、街へ向かっていたところを襲われたらしく、いずれも御者席がこちらを向いたまま瓦礫と化していた。

 幌は引き裂かれ、木枠には深く牙の痕が残っている。無惨なその姿は、魔獣の凶暴さを物語っているかのようだった。


 そのうち、アイザックたちから見て一番奥。

 つまり、渦に最も近い馬車のすぐ傍に、喰いちぎられた死骸が転がっていた。


 腹部から下が裂け、内臓が砂地にこぼれ出ている。

 顔は恐怖に歪んだまま見開かれ、目はすでに乾きかけていた。

 肌のあちこちに咬み痕があり、服は引き裂かれ、片腕は肩から先がない。


 アイザックはその痛ましさに、目を細める。

 ほんの一瞬だけ視線を逸らしかけた、そのとき。


 破れた幌の布が、かすかに揺れた。


「……えっ?」


 中に、討ち漏らしが潜んでいるのかもしれない。

 警戒しながら、一歩前へ。腰の剣に手を添え、慎重に近づいていく。


 渦の方角から吹いてくる砂塵と、血と肉の生臭さが、鼻を突いた。

 この場にあるのは、紛れもない“死”の匂い。


 だが、その中に、微かに異なる気配が混じっている。


 谷底から吹きあがった風が、幌を大きくめくった。

 その隙間から、何かがのぞく。


 ──縮こまった、小さな身体。


「子供……?」


 幌の中には、若い女性の死体があった。

 彼女は、子供を抱きかかえるように腕を回し、その姿勢のまま絶命していた。


 さっき幌が揺れたのは、この子が身じろぎしたせいだったのか。 

 きっと、魔獣の気配が消えたことで、外の光を見ようとしたんだろう。


「早く気付いてやれればよかった」


 アイザックは低く呟く。そして、優しい声音で呼びかけた。


「もう、大丈夫だ。こっちへおいで」


 渦からいつ魔獣が現れても対応できるよう、アイザックは警戒を解かずに近づく。

 子供は小さな体をさらに縮めながら、這うようにして女性の腕から抜け出してくる。


 やがて、子供が馬車の中から完全に姿を現した。

 それを見て、アイザックはホッと息を吐く。


「いい子だ。頑張ったな」


 そう笑いかけた、その瞬間――

 空気が張り詰めた。肌がざわつく。胸が嫌な鼓動を打つ。


 渦の奥から、唸りが聞こえた。

 獣の低い咆哮が大地を震わせる。


「ブラッドファング……っ!?」


 ケイランの、悲鳴のような声が上がる。


 牙獣種の変異個体、“ブラッドファング”。

 灰色のグレイファングとは異なり、全身を深紅の体毛を纏う。身体の形は同じ狼型だが、体高はグレイファングの倍。

 その目は、ただの野生ではない。獲物を選ぶ知性があった。


「マジ、かよ」


 アイザックの口からぽろりと溢れる。

 彼らが狩ったことがあるのは、グレイファングの通常個体まで。このサイズの魔獣を討伐したことは――いや、遭遇したことさえなかった。


「まずい!」


 ケイランの叫びより早く、ブラッドファングが跳ねた。

 その先にあるのは、小さな命。震えていた子供だ。


「くっ……!」


 その牙が届く寸前、アイザックが身を投げ出すように飛び込んだ。

 左肩に食らいついた牙は、首元まで達し、肉を裂き、骨を砕く。


 激しく血が噴き出す。


「アイザック!?」


 ケイランが駆け出すのに気付いたブラッドファングは、咥えたままのアイザックを激しく振り回す。

 その勢いで、子供の体が跳ね飛ぶ。先ほどまでいた馬車の影へ、転がるように戻される。


「ケイラン! 止まれ!」


 教官の静止も、怒声も、ケイランの耳には入らない。

 瞳に映っているのは、ただひとつ。


「アイザックを……離せ!」


 見せつけるように友を掲げる魔獣に、ケイランは剣を振り上げた。

 だが、その斬撃が届くより早く、ブラッドファングはアイザックを投げつけた。

 それは、ケイランめがけて飛んでくる。

 ほんのわずかに狙いは逸れていたが、それでも――意識を逸らすには十分だった。


「……っ!」


 反射的に剣を手放し、ケイランはその身体を受け止める。

 衝撃で後ろに倒れこみ、砂の地を転がった。


 だが、放してはいない。その腕には確かに、アイザックがいた。

 ぐったりとした重みが、胸の上に沈んでいく。


「アイザック……!」


 身を起こし、友の名を呼ぶが返事はない。

 呼吸のないその体からは、ただ血液だけが流れ出ている。


「ケイラン! くそッ……!」


 そんなケイランに追撃しようとするブラッドファングを、間に入り教官が止める。

 押されながらも、巨体の攻撃をなんとか受ける。踏ん張る足が土をずり、足元に砂煙が立つ。


「ケイラン! 早く立て! ……アイザックは、もう無理だ!」


「目を覚まします! アイザックは、いま少し気を失ってるだけで……」


「現実を見ろ! あの子供を守れ! ――これは命令だ」


 ケイランは『子供』という単語で顔を上げる。

 アイザックが守ろうとした子供。頭を抱えるようにして、馬車の影に隠れている。


 ケイランは、一瞬だけアイザックを見た。

 その瞳には、まだ迷いがあった。だが、それでも立ち上がる。

 心は今なお悲鳴をあげていたが、友が守った命のもとへと向かった。


 その行く手を狙うように、ブラッドファングが身を低くして跳ねかかる。

 だが、教官がすかさず割って入り、鋭い一撃でその動きを止めた。


 グレイファング相手であれば斬り裂けていたはずの太刀筋。

 だが、今の相手には通じない。

 ブラッドファングの毛並みは金属のように硬く、刃が食い込む気配すらない。


 いっそ、グレイファングと同じように谷底へ突き落とすかとも考えた。

 だが、これほどの魔獣が、落下の衝撃で動きを止めるとは思えない。

 落ちた先で暴れ、方向を変えて街へ向かう可能性さえある。


「さて、どうしたものか」


 学生一人と自分一人。子供を守りながら、増援が来るまで耐える。

 それがどれほど非現実的かは、分かっていた。


「やるしかない、か」


 彼は腹を括った。

 ケイランには子供を連れて街へ戻らせる。レオナルド、あるいはクラウスに伝達し、街の守りを固めさせる。

 そして自分は、命を賭してでも、この場でブラッドファングを仕留める。


「……それで渦が閉じてくれなきゃ、詰みなんだがな」


 この個体を最後に渦が閉じるか、あるいは増援が来るまで新たな魔獣が現れないか。


「希望的観測でも、このまま三人死ぬよりマシだろ」


 ふぅ、と息を吐く。

 若者たちに未来を託すと決めた瞳には、強い光が宿っていた。

本来の更新は火曜・木曜朝なのですが、この描写を朝公開するのはどうなのか……と思い、本日更新しました。

また、三連休は毎朝6:30に更新予定です。


※本作はタイトルを少し変更しました。

詳細は活動報告に記載していますので、よければそちらもご覧ください。


次回タイトルは、「誰かにとっての英雄」。

引き続き、よろしくお願いします!

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ