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第89話 あれ、そっち?

 むぎゅう。

 抱擁の予想はあっていたのだが、対象が違った。

「あ、あの……」

 猫のように頬を山田さんの頭にすりつける真祖。

 彼女が選んだのは親しかったであろうグルゲルでなく、山田さんだった。幸いだったのは彼女に敵意がなく、何故か山田さんになついていること。

「あ、あの、ヴァンさん。く、くすぐったいです……」

「あなた、お名前は?」

「山田ひまりです」

「ひまり、ひまりね」

 彼女はようやく山田さんから体を放し、冷涼な顔に似つかわしくないほどくしゃりとした笑顔を見せた。

「ありがとう、ひまり。私がどんな状態だったか、理解できるだけの知性が戻ったわ」

「ヴァンさんと戦わなくて済んでよかったです。グルゲルさんもきっと喜んでいます」

「グルゲル? あの甲斐性なし、どこに」

「どこにって、あ、あの」

 急に胡乱な顔になり目が坐る真祖ヴァン。

 ぷるんとした胸をすくいあげるようにして腕を組み、すううっと目を細める。

 そして何かに気が付いたようだ。

「グルゲル、あなたも来ていたのね。その体に入っていたらオイタもできないわね」

「おいおい、オレを何だと思ってんだ」

「女好きのダークエルフ」

「待て待て、自慢じゃねえが、オレは一度たりとも浮気したことねえぞ」

 おやおや、グルゲルとヴァンの間で痴話げんかがはじまったぞ。

 こういう時はニヤニヤしながら様子を見守るのが最高なんだぜ。いやあ、他人の痴話げんかを眺めるのって至福だよね。

「えー、あれだけ女を侍らせていたのに」

「侍らせてなんていねえんだが……」

「ふうん、まあいいわ。あなたのことだから、その子のことも大事に扱っているんでしょ。ほんと、ダークエルフらしくないんだから」

「オマエも似たようなもんだろ。真祖って、人の天敵なんだろ」

 ふむふむ。ダークエルフも真祖も世間の認識は悪い奴ってことか。

『リンゴを寄越すモ』

「はいはい」

 全く、人がせっかく至福の時を過ごしているってのにマイペースなマーモットだよ。

 無言でリュックからリンゴを取り出し、マーモットに手渡す。いつものごとく両前脚で挟んでしゃりしゃりしはじめた。

 ん、いつの間にかヴァンの視線がマーモットに釘付けになっている。

「こ、この子……いえ、この人はまさか老師?」

「そうだぜ」

「あ、あなた、よく平気で老師と行動しているわね」

「別に敵対してねえし。老師はマツイのことをいたく気に入っているようだから、すんげえ協力的だぜ」

 グルゲルの答えに信じられないと長い髪をくしくしするヴァンであった。

「唯我独尊の老師が、人の頼みを聞くなんて……俄かには信じられないわ。これも『縛り』なのかしら」

「さあな。案外元々、老師は気さくだったのかもしれん」

 グルゲルとヴァンは言いたい放題言っているわね。

 確かにモンスターを倒してくれたり、護ってくれたりしてくれるけど、ものすごくマイペースだぞ、マーモは。

 喋っている間にもう半分ほどリンゴを食べているマーモである。小さいのに食べる速度がくっそ早い。

 グルゲルとヴァンはまだ何やら言い合っているが、喋るにしても立ち話もなんだし……。

「え、ええと、ヴァンは友好的になってくれた、でいいのかな……」

「グルゲルは張り倒したいけど、肉体はグルゲルじゃないから我慢するわ」

 一体、グルゲルとヴァンの間になにがあったんだか。彼女の目線のきつさが尋常じゃないんだけど……。

 ぼっちの俺がこんな目線を向けられたら気絶しそうだわ。

 ここはそうだな、やはり山田さんに話を振るべし。

「四部屋目はボス不在になったことだし、帰ろうか」

「うん、ヴァンさんは?」

「ヴァンはダンジョンの外に出ることってできるのかな」

「そっかあ。マーモちゃんみたいにダンジョンの外に出られるかは分からないのかな」

 ヴァンはマーモやミレイのようなガチャ引きの魔獣じゃないから、ステータスも表示されなければ、システムで出し入れとかできないよな。

「あ、いいことを思いついた」

 そうと決まればさっそく移動だ。エレベーターへ向かおうとする俺をグルゲルが呼び止める。

「マツイ、最後の部屋も見て行かねえか」

「あ、いや、でも」

「たぶんヴァンはこの状態を維持できると思うが、絶対じゃねえ」

「ヴァンの同位体と戦いたくないのは俺も同じだ」

 また山田さんの再起の杖で今の状態へ戻すことはできるだろうけど、その時は今のヴァンではなくなるよな。

 限りなく同じだけど、違う存在。安全に四部屋目を通過できることは変わらないけど、やりたくない。

 うまく言えないが、似て非なる存在と同じ言葉を交わすってのは心にくるものがあるんだよ。

 だから、もしヴァンが自分の意識を失い、消える、または四部屋目の番人に戻るような事態になったら、俺は四部屋目へ訪れたくないんだ。

 クリア条件が5部屋目であることは限りなく可能性は低いものの、見ておくにこしたことはない。

 我ながら手のひら返しがすごいけど、行くか。

「山田さん、様子を見てくるよ」

「うん!」

「ヴァンはどうする? 俺たちはこの奥の部屋へ行く」

「ひまりを護るわ。だから、ひまり、私たちも行きましょうよ」

 ヴァンが山田さんに抱き着き、頬ずりする。彼女が自分を助けてくれたからなのか、とても懐いているな。

 実力も見ていないのに、ヴァンに彼女を護る力があるのか、とか全く疑っていない。

 何しろ四部屋目のボスだったのだから、グルゲルはともかく俺よりは遥かに頼りになるだろ。

 何を勘違いしたのかグルゲルが俺の肩をポンと叩く。

「そんな嫌そうな顔をすんなって。一回のみの戦闘ならヴァンは相当強えぞ」

「不安そうなことが顔に出てた? 俺が心配しているのはヴァンのことじゃなく、この奥にいるモンスターだよ」

「カカカ、武者震いってやつか」

「断じて違う。様子見て、やばそうなら即退散するからね」

 へいへい、と軽い調子でいなされた。

 一回きりのチャンスになるかもしれない、777階の最後の部屋へいざ。


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