40 ファーサルド子爵
「……あ……」
声をかけようとして思いとどまったのは、彼女の表情がどこか切羽詰まったものだったからだ。
「……エリニア、待ってくれ」
焦燥にかられた声というのはきっとこういう声のことを言うのだろう。
知らない人だったけれど、その一言を聞いただけで、彼がどうしようもなく焦って動揺していることがわかった。
「どいてください。仕事中です」
「エリニアっ」
(え? もしや、これって痴話げんか?)
何だか一瞬にして、聞いてはいけないものを聞いている気分になってしまった。
「……ファーサルド子爵閣下、私は仕事中だと申し上げました。これ以上、邪魔をするようであれば後宮の護衛騎士を呼びますし、私の上役である女官長にご報告申し上げることになります」
私に話していた時と違って、エリニアの声が嶮しい。
「……少しだけ……ほんの少しだけ協力してほしいんだけなんだ」
「子爵、何を言われようとも、私はあなたに協力などするつもりはありません。私はもうあなたの乳母ではなく、あなたの乳姉弟だった私の娘はもういないのです」
乳母って……エリニアは、そんな年齢には見えなかった。少なくとも、ファーサルド子爵と呼ばれている人と同年代の子供がいるようにはまったく見えない。
(すごい、王宮女官の化粧術……)
「エリニア、そんなこと言わずに助けてくれ!」
(これ、いま出たら絶対ダメなやつ)
というか、図らずもここで聞いてしまっていること自体がマズい気がする。
私はそーっと扉を閉じて、壁に寄る。万が一、扉を開けられたら、扉に隠れられる位置だ。
「……子爵閣下、あなたはティセラが……私のたった一人の娘がなぜ死んだのか……グラーシェス公爵妃のせいだと何度も言いましたね」
「ああ、そうだ。あの婆さんのせいで五日熱が蔓延したんだ。そのせいでティセラは死んだ」
「……侯爵夫人の判断が間違っていたせいでネーヴェで五日熱は蔓延したのだと。でも、他のいろいろな人からお話を聞いたことで私は知りました。……それは誤りです。公爵家の方々は、できる限りの手を尽くしてくださった。ティセラが助からなかったのは誰のせいでもありません」
これ、本当は聞いていたら絶対にダメだと思う。話の内容がすごく不穏な感じになっている。
(でも……)
気になって、耳がダンボになっていた。
幸い、二人の声はとてもよく聞こえる。
「ティセラは、お仕えしていたフィオニー様の看病中に五日熱に感染いたしました。それはもう避けようがないことです。そして、公爵家では、使用人もご自分のお孫様も同じように医者に見せ、手を尽くしてくださった……」
「そんなのはただの欺瞞だ! そう向こうが言っているだけじゃないか!」
「ならば、あなたのお言葉も、そうあなたが言っているだけではありませんか」
平坦な声音……エリニアは冷静だった。
「公爵家で手を尽くしてくださったことは、公爵家の方からではなく、ティセラの同僚だった方に聞きました。公爵家の方は言い訳は一切なさいませんでした。ですが……公爵家では、ティセラを公爵家の霊廟に葬ることを許してくださいました。最後まで忠義を尽くしたのだと。……母女神の園でもフィオニー様にお仕えせよ、と。……平民の、父のいない子をです。そして、年が改まるたびに、公爵家からあの子を偲ぶ丁寧なお手紙をいただきます。私はあの子を亡くした痛みを忘れることはないでしょう。ですが、それに囚われてこの先の人生を棒に振ろうとは思いません」
「エリニア、私を捨てるのか?」
「いいえ、子爵閣下。……もとより、私たちの間にそのような関係はありますまい。でも、あえて言うのであれば、私を先に捨てたのはあなたです。でも、それは当たり前のことです。お育てした御子が独り立ちなさる……寂しくは思いますが、それを喜ばない乳母はおりません」
「エリニア!」
「……子爵閣下、お間違えにならないでくださいませ。私は王宮女官でございます。私の主はもはやあなたさまではなく、明日、国王になられる王太子殿下であり、王妃となられる王太子妃殿下であります」
「私の主であるエオル様とて王家の御方なのだぞ!」
「存じております」
エリニアは能面のような無表情で小さくうなづいた。
「エオル様の為に私に従え」
「いいえ、子爵閣下」
「エリニアっ」
押し殺した悲鳴のような声音で、子爵はエリニアに詰め取った。
(……しつこい)
「子爵、あなたには私に命令する権利はありません。このまま邪魔をするようでしたら、衛兵を呼びますよ」
とうとうエリニアの言葉から閣下の敬称がなくなった。いっそもう衛兵を呼んで引き渡した方がいいと思う。
「わ、我が家に仕えた恩は……」
「『もう乳はいらぬ。手も離れた。あとは家庭教師に任せるから三日で出ていけ』と追い出されて冬空の下、子連れで行くあてもなく途方にくれた私を救い、実家に話を通して王宮へとお仕えさせて下さったシュターゼン伯爵様へのご恩のほうが何倍も上です」
自分の護衛隊長兼現在の家庭教師の名前が出てきて少しだけ驚いた。
恩の上下をどうこう言ったりしないけれど、今、ここで聞いているだけの私でもエリニアの気持ちのほうがよくわかる。
「もう良いっ。……そなたが悪いのだぞ、エリニア。我が乳母だと思うからこそ、おとなしくしていたものを……」
その言葉にものすごく危険なものを感じて、そーっと薄く扉を開いた。
目に入ったのは、きらめく銀色の刃……どこに隠していたのか、子爵が短剣を抜いて、エリニアに突き付けていた。
「鍵を出せ」
「………………」
エリニアが一歩、二歩と下がる。
「鍵を出せと言っているんだ、エリニアっ」
子爵が一歩、二歩と踏み出した。
(鍵って……あれか……)
エリニアのエプロンドレスの腰のところに鍵の束がある。
たぶん、清掃用のマスターキーの束だ。
(……どう考えてもよからぬことに使う未来しか想像つかない)
扉をもう少しあけて、エリニアを中へと入れて急いでドアを閉めたらどうだろう?
エリニアと目が合った。
その瞬間、エリニアは、私の方に向かってその鍵を投げた。
「……え?」
「……あ……」
エリニアの狙いはとっても正確で、私の手の中にその鍵はおさまる。
私はあわてて扉をしめて鍵をかけ、そして部屋の中にあるもう一つの扉から隣室へと踏み込む。
ガンガンと激しく扉をたたく音がしているけれど、知ったことではない。
(……廊下に出たら、たぶん見つかるし……姿を見られたらきっと追いつかれる)
あの音がするうちはあの場所から離れていないということだ。
あの男があそこで扉を叩いているうちに、エリニアが衛兵を呼んで取り押さえてくれればいいのだけど……難しいかな。
幾つかの部屋から部屋を抜け、誰もいない廊下を注意深く横切り、使っていないことを確認してから次の部屋へと抜け、扉が開いていない場所はマスターキーを使って通った。
扉を叩いている音はもうしないから、たぶん子爵も私を探しているだろう。
(あとは運かな……)
逆方向を探している可能性もある。でも、こちら側を探しているかもしれないのだから、気は抜けない。こっそり隠れて逃げながら気づいた。
(どうしよう、もうこれ、絶対元の場所には帰れないよ!)
まったく戻れる自信がない。
(ごめん、フィル、潔く殿下に怒られて!)
だいたい、自分がどこを目指しているかもわからないのだ。
「……あ、ここ……」
たぶん、殿下が使っている領域だ。
だって、室内装飾の色合いが……カーテンとか壁が殿下の執務室と同じものなのだ。おそらく濃紺であろう絨毯は使われていないで、丸めて部屋の隅のほうに置いてある。
「書類倉庫、かな?」
確かにそれだと絨毯は不要だろう。
床に無造作に積まれた木箱はまるで塔のようだった。何本も何本もある高い塔の、その中身はおそらく全部書類なのだろう。
その次の部屋も同じような書類倉庫で、その次の部屋も書類倉庫だった。そして、その次の部屋も。ただしこの部屋はまだ半分くらい床が見えている。
「どこまで書類倉庫なの……?」
そっと静かに扉を開き、それから、廊下をのぞき込んだ。
(誰もいない……)
よーし、と思って廊下へと出る。
「……あれ、ここ」
見たことのある絵が飾られている。
引き返して角を曲がる。
「あ、やっぱり」
さすがの私も、通いなれた道は何となくわかる。
(……とうちゃーく!)
見るからに頑丈な樫の扉。ピカピカの真鍮のドアノブのその光沢に既視感を覚えるのも当然だ。
こんこんと小さくノックする ──── 誰の返答もない。
もう一度扉を叩き、返答がなかったから、細く開いて中へと滑り込んだ。
(……ガウンじゃないと、ドア全部開かなくても入れるのが楽だよね)
本棚がたくさんある図書室のような部屋を抜けたその奥に、殿下の執務室がある。少しだけ緊張して、扉をノックした。
「……やっぱり、いないか……」
さすがに今日は執務もお休みのようで、机の上は綺麗に片付いている。
(子爵といえど、たぶん、ここまでは来ないよね)
殿下がいないか、護衛の騎士もいない。
(もし、隠れて護衛がいるなら、殿下の元に連絡がいくはずだから……)
そうしたらきっと誰かここに来てくれるだろう。
私はいつもの自分の席である椅子に座ろうかなと思って、ちょっといたずら心がわいて、殿下の椅子にちょこんと座ってみた。
(おおー、殿下のお席からはこんな風に見えるんだ)
何がどうというわけではないけれど、何だか少しだけ嬉しい気分になった。
(……殿下にお会いできたら、まずは、さっきの二人のことを話そう)
エリニアと子爵の交わしていた言葉の意味を、私は半分も理解できていなかっただろう。
私にわかったのは。あのファーサルド子爵という人が何らかのはかりごとを巡らしていて、そのためにこのマスターキーを必要としたということ。
そして、エリニアがそれを拒んだこと。
(きっと、殿下に話せばいいようにしてくれる)
それは私の絶対ルールの一つだ。
(……あれ? 人の、声?)
誰かの声が近づいてくる、と思った瞬間、椅子からするりと降りて、そのまま机の下に潜った。
声の主が殿下ならいい。でも、他の人間だったら……。
扉がきしみながら開き、そこには二つの影があった。




