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39 侍従見習い

 長い回廊を、大きな籠をもって進む。

 籠の中には、試作品の保温ポットに入った鶏の肉団子入りのシチューが入っている。

(少しでも温かいうちに召しあがっていただきたいけど……)

 保温ポットとは言うが、別に保温機能があるわけではない。金属製の蓋つきの容器をもこもこ綿をぎっしり詰めた保温袋で覆っているだけの代物だ。

 冷えたらそのままソースがわりに使うために壺で蒸した野菜もあるし、何だったらパンにはさんで食べてもいい。もちろん、ガレットも忘れてはいない。


(魔法瓶とか開発してくれないかなぁ)

 確か、魔法瓶は液化ガスの保存容器からできたものだった気がする。

(ガス灯は存在しているんだから、あってもおかしくないんじゃないかしら?)

 最近、王都の一部……川を挟んだ南岸の大学都市ではガス灯を設置する工事がはじまっているという。もちろん私は見たことがないけれど、この間、ナディとのお茶会で教えてもらった。

(……あれ? ガス灯ができたっていうことは、ガスバーナーとかガスコンロもできるのかしら? いや、でも王宮の厨房設備はまだ昔ながらのオーブンだからそのへんは未開発なのかしら?)

 あるいは、ガスバーナーやガスコンロとガス灯のガスは、種類が違うのかもしれない。残念ながら、私はあんまりそこらへんに詳しくない。

(ガスのオーブンやガスコンロなんかができたら、料理革命がおきると思う)

 『調理』 ──── あるいは『料理』が重労働であることに変わりはないけれど、でも、技術的には飛躍的な進歩になる。

(……シフォンケーキが焼けるかもしれない)

 私の関心は、まずそこだ。

 ガスオーブンの利点はまず何といっても、火力が強いこととムラなく焼けることだろう。


「……あー、姫さん、ほんと、マジで勘弁してくんない?」


 前を歩くフィル=リンが足を止めた。この期に及んで往生際が悪い。


「嫌です。駄目ですよ、フィル様。約束は約束です。料理をして差し入れて良いって許可されているんですから。あと、姫さんじゃありません。エルと呼んでください」


 姫さんと呼ばれるのでは、エルティ=アルディアという偽名をつけた意味がないじゃないですか。正体だってバレバレですし。


「っていうかさー、エルに従者の顔して歩かれるとむずがゆくって怖ぇんだけど」


 さっさと歩けとばかりに背中を押すと、フィルはのろのろと歩き始めた。


「なぜです?」

「……あんたがナディルの姫さんだって知ってる俺としては、あんたを使用人とか部下扱いするのはすっごく難しい」

「気にしないで良いです。今の私はエルティですから。……フィル様の遠縁の親族で、後見をしてもらっている成人前の子供です」

「やーめーてーくーれー。……せめて、そのフィル様っていうのはマジで勘弁して」

「じゃあ、何て呼ぶんです?」

「フィルでいいだろ?」

「それはちょっと敬意に欠けてませんか?」


 仮にも後見してもらっている身としては、どうかと思う。


「身内に様づけなんかしねーよ、我が家は」

「わかりました。……フィルがそう言うのなら」


 それならば仕方がありません。


「……それより、あとどのくらいで着きますか?」


 私の感覚としてはもうだいぶ歩いたように思うのだけれど、王宮というのはただっぴろい建物なので、まだ目的地につかない。


「あー、もう半分は過ぎてっから」

「……そうですか。まだ半分ですか」


 はぁ、と小さなため息をつく。


「ねえ、フィル。……こういう予定がたてこんでいる時って、皆、食事抜きになってしまうの?」


 私が抱えている籠はナディル殿下の為のもので、フィルが持っているものが殿下のものの残りだ。すでにフィルがだいぶ消費したけれど、まだまだ数人分は充分ある。殿下の部下の人たちが食べてくれればいいなと思って持ってきてもらった。


「あー、だいたい、携帯糧食で済ませるな」

「殿下お得意の携帯糧食ですか……」


 殿下は好きで……というか、さほど拘りなく携帯糧食を食べているとしても、殿下をさしおいて自分だけちゃんと食事をとるわけにはいかないだろう。

 付き合わされる皆も気の毒なことだと思う。


「まあ……便利さでは一番だからな」


 フィルが持つ籠からチャポンという水音が聞こえた。たぶん、水筒の中身のチャイが揺れた音だ。

 身体が温まるように肉桂と生姜をたっぷりといれている。

 ホットワインにしようかとも思ったのだけど、建国祭は明日が本番なのでチャイにしておいた。

フェルディスの乳牛のミルクにグラーシェス産の蜂蜜と生姜、エルゼヴェルトの肉桂とカルダモンにアルハンの胡椒と茶葉を使ったレシピで、まさにダーディニアそのものみたいな飲み物になっている。

(保温性も欲しいけど、密閉性も欲しいのよね)

 こちらで地味に困ったことの一つに、食品の保存する手段の少なさがあげられる。特にすでに調理が済んでいるものや半分調理してあるもの ──── 汁物とか煮物なんかがとても困る。

 水筒を使えばいいじゃないかと言われるかもしれないが、純粋な飲み物ならそれでもいいけれど、水筒では具材が入らない。

今、主に使っている広口の瓶や壺などは随分と場所をとってしまうし、持ち運びに向かない。瓶詰や缶詰は作られているけれど、大掛かりな施設が必要になるので、気軽には使えない。

あちらの世界で言うタッパのようなお手軽なものがあればいいのにといつも思っているのだ。

(ただ、そもそも保存を考える必要があまりないから、こういう用途のものがあまり発達しなかったのはわかる)

 例えば、私たちの食事というのは、毎回とても食べきれない量が準備される。でも、それらはすべて使用人たちの食事になるから、食べ残しというものが出ない。

 多く作りすぎちゃったから、これ明日また食べよう! みたいなことがなくて、その日作ったものはその日のうちに食べきる、というサイクルが既に出来上がっている。

(あと、持ち運びをあんまり考えていないのよね)

 たぶん、『お弁当』という発想がないのだと思う。それは、密閉性と携帯性に優れた容器がないこともあるし、屋台や気軽に食べられる食堂がたくさんある為、価格競争が激しく、安価に外食が可能なせいでもある。


 後宮の水色が基調となった絨毯が終わり、正宮の青い絨毯がはじまったところでちょっとだけ違う気分で足を進める。

(……何か新鮮な気分だな)

 いつもは侍女や女官を従えて前を歩いている。今は、籠をもってフィルの後をついていく。それだけでも気分が違が違うのだけれど、それ以外にも新鮮さを感じる理由がある。

 というのも、すれ違う揃いのお仕着せの女官や侍従は、フィルには軽く目礼したり頭を下げるけれど、私には目もくれないで足早に隣を通り過ぎてゆくのだ。

 彼らと同じお仕着せを着ていない私は、彼らの仲間でもないし、年齢から考えると正式な来賓でもないからだ。

(……『見習い』って幽霊扱いみたい)

 普段、一挙手一投足を見張るがごとく注目されすぎている身としては、大変ありがたい。

 そんなことを考えながら、ふと壁に目をやって気がついた。

(あれ……この絵って………)

 吸い込まれそうな、あお……空と水との境がわからない、幻想的な風景が描かれたその絵は、私がひそかに気に入っていた絵だ。


(……あ……)


 ひゅんっと耳元で風を切る音を聞いたような気がした。

 足が竦む。

(……ううん。大丈夫。ここは建物の中だもの)

 あの日のことを思い出した。あの日も、この絵を見たくてちょっと遠回りしたのだ。

 考えてみれば、まだあの日から一週間も経っていない。

 ぞわりと冷たいものが背筋をのぼってくる。


「……………」


 フィルの名を呼ぼうとして、声がうまく出せなかった。

 身体が震えて、足が動かない。

(怖くない。……全然怖くないから!)

 でも、まるでフラッシュバックするように脳裏にあの生命を狙われた瞬間の景色が浮かんだ。

思い出そうとして思い出すことはできないのに、今はあの瞬間の恐怖が鮮やかにこの身によみがえってくる。

(……ナディルさま)

 思い出したその恐怖が私の身体を縛る。蹲りそうになって、踏みとどまった。蹲ってしまったら、一歩も歩けなくなるような気がした。

(……ナディル様)

 まるで呪文を唱えるようにその名を心の中で繰り返す。それだけで、心の中に生まれるものがある。

 私の矜持 ──── この魂の拠って立つところ。

(ダーディニア王太子ナディル・エセルバート殿下)

 私の夫。

 明日、国王となる人。

 私を護る私の騎士。

 下町で男に殴られそうになった時、私を助けてくれたナディル様の姿を思い出した。

 私をかばう背、抱き上げる腕の力強さ……腕の中に抱きしめられた時のぬくもり……。

(……私は、ちゃんと立っていられる)

 私にとって、ナディル様の名前は魔法の呪文だ。

 心の中で唱えるだけで、いつも私を支えてくれる。


「……大丈夫? 具合が悪いのかしら?」


 やわらかな声がして、顔をあげる。



*******



 一歩、足を踏み出した私の前に立ったのは、王宮侍女のお仕着せを着た女性だった。

 年は三十歳は越えていると思うけれど、四十歳にはなっていないくらい。正直、女性の年齢はわかりにくい。化粧の技術が発達している王宮侍女たちは特に。

(このタイは女官だ。それも、役職者)

 リリアと同じタイの形。襟と袖のデザインが私の侍女たちと違うのは、彼女が正宮の勤務だからだろう。

 彼女が押している美しい細工のされたワゴンには、掃除用具だけでなく、控室に備える公用箋やガラスペンの替えなどがのせられている。おそらく、このあたりの控室に備え付けの備品の補充をしているのだろう。


「……ありがとうございます。ちょっとめまいがしただけなので」


 彼女の袖口を飾る石が瑠璃でなく、黒……黒曜石なのは、彼女が貴族ではないことを表している。


「そうですか? でも、まだ顔色がよくないですよ。少し休んでは?」

「あ、でも……」

「この先は少し立て込んでいて、いろいろな人が忙しなく行き交っています。そんな中で具合が悪くなったら大変ですから……」


 心配げに私の顔をのぞきこんだ彼女は、親切心からだろう。休息をとることを勧めてくれる。


「いま、掃除のチェックをしたばかりですから、ここの部屋を使って大丈夫ですよ。この壁際の椅子を使ってください。私は仕事があるのでついていてあげられませんが……」


 彼女はすぐのところの扉を押し開いて、私に中に入るように促した。

(ど、どうしよう……)

 ちょっと休憩したいのもやまやまなのだけれど、すぐにでも差し入れを届けたい。

(……でも、フィルがいないとどこに行くのか全然わからない)

 フィルは、ナディル殿下が今どこにいるか私には教えてくれなかったのだ。

(足を止めた私も悪いけど、フィルももうちょっと後ろ気にしようよ!)

私を置いてどこまで行ってしまったんだろう。


「……でも……」

「私は後宮の下級女官を務めておりますエリニア=ネルケといいます。あなたは?」


 エリニア=ネルケ……どこかで聞き覚えのある名前だった。

(……どこで聞いたんだっけ)

 つい最近耳にしたはずだった。耳元まで思い出しているような気がするのに。ギリギリで思い出せないのが口惜しい。


「エルティ・アルディアです。本日より、アルトハイデルエグザニディウム伯爵公子のもとで王太子殿下の侍従見習いをしております」


 私は深々と頭を下げる。一瞬、フィルの名前を間違えそうだった……たぶん、間違えなかったと思うけど……あと、あやうく女性の礼をとるところだった。

 フィル=リン執政官と言わなかったのは、エルティがフィルの親族で後見をしてもらっているという設定だからだ。仮に、どれほど親しかったとしても、対外的な場で目上の人を略称で呼ぶのはちょっと憚られるだろうと思ったのだ。


「フィル=リン執政官の元で……本日からとは、随分と急ですね」

「せっかくの建国祭だからと今日から連れてきていただいたのです」


 私の回答にエリニアは納得したようにうなづいた。

 侍従見習いは、同じように思える侍女見習いよりもかなり気楽な立場だ。

侍女見習いは将来の結婚のための箔付けと言われるものの、実際に貴人に仕え、行儀見習いも兼ねて厳しく躾けられる。

 が、侍従見習いは違う。

 侍従見習いはこれから進路を選択する少年たちの社会見学といった側面が強い。そのため、かなり高位の貴族の子息も見習いとして王宮にあがることがあるし、その期間もまちまちだ。

 一週間程度しか滞在しない者もいれば、本当に侍従になるために二年間を見習いとして勤め、そのまま侍従職に就く者もいる。


「そうですか。では、休んだら、中庭に行くといいですよ」


 エリニアはワゴンを廊下の端に止めると、躊躇う私の手をとって部屋の中へと迎え入れ、椅子に座らせてくれる。


「中庭に、ですか?」

「はい。建国祭は花祭りでもあります。花壇がとても素晴らしいのです」


(……上役に見つかったら、絶対に怒られるのに)

 使われていないとはいえ、ここは来客用の控室の一つだ。使用人が使っていい場所ではない。それでも私の体調を慮って融通を利かせてくれたのだ。


「……ぜひ、見てみたいです」


 おずおずと申し出た私にエリニアはにっこりと笑う。


「ええ、ぜひご覧になって」


彼女は、それほど整った顔立ちをしているわけではない。でも、その笑顔はとても魅力的だった。


「……もし、ここで誰かに見つかったら、私に依頼されて椅子を動かしていたのだと言ってくださいませ」

「椅子を、ですか?」


 私は壁に寄せられている美しい椅子に目をやる。


「そうです。今日、椅子を入れ替えしましたから。……あとで、執政官にはあなたが具合を悪くして少し休息をとっている旨を伝言しておきますね」

「ありがとうございます」


(このまま、おとなしくフィルが迎えに来てくれるのを待とう)

 いくら何でももう気づいていると思うし、探しているだろう。

(下手に探してすれ違いになっても困るもの)


「それでは、失礼します」


 そして、軽く目礼して部屋を出ていくエリニアの後姿を見ながら、私はどこで彼女の名前を聞いたのかを思い出した。

(……この間の朝食の時の……)

 故意なのかうっかりなのか意地悪なのか判別しにくい不手際のあった朝食の時の責任者の名前だ。

 私は、迎えに来るだろうフィルが気づくように、エリニアが出て行った後の扉を薄く開けておいた。

(でも……彼女の顔に見覚えがない)

 たぶん、彼女はアルティリエの前に出ていないか、あるいは、ほとんど出たことがないのだと思う。

(……下級女官だから)

 私は軽く唇を噛む。

 上級とか下級とかそういう区別が、私はあまり好きではない。でも、これは私の好き嫌いでどうこうできる簡単なことではないのだ。

(きっとすごい優秀なんだろうな……)

 平民でありながら正式な王宮女官の制服に袖を通すことができるというのは、そういうことだ。

 今の私に接する態度も行き届いていて好感が持てるものだった。なるほど彼女が次期後宮女官長であるアンナマリアの腹心の一人と言われる理由がわかる気がする。


 王宮で暮らしていると、地位……あるいは、身分というものを気にしないでいることはできない。宮中での作法は身分によって細かく規定されているし、服装もそうだし、挨拶するだけにしてもいろいろとある。

 それだけではなくて、あちらでの記憶を持つ私は、時々、この身分というものがものすごく理不尽に感じられたり、強烈な違和感を覚えたりすることがある。もちろん、だからといって単純になくせばいいとかそんな風には思わないけれど。

(頭ではわかっているんだ……)

 鍵の姫を……帝國最後の皇女とその血筋を守るために建国されたダーディニアにおいて、

 貴族というのは皇女を守った騎士達の末裔だ。この国がこの国として在るためには、身分制度は絶対不可欠なものなのだ。

 ある意味、私はこのダーディニアの身分制度の頂点に立つ張本人の当事者で、だからこそ何もできない。

(いろいろ、難しいことがあるよね……)

 孤児院の子供たちの顔を思いだす。ラグやルファ、それから、ジャーロや小さなウェイ……身分のない子供たち。

(……才能があれば取り立ててもらえる仕組み自体はあるのよね)

 孤児院の出身でも大学の入学試験に挑戦する子供がいる。

たとえ奴隷であっても大学を卒業できれば高級官僚になれるし、平民であっても軍に奉職すれば己の能力次第で将軍にもなれる。

(広い意味で考えれば、この下級女官という曖昧な存在も救済措置と言えるのかもしれない)

 だとすれば、私には何ができるんだろう?

できること、できないこと ──── 力量の問題というだけでなく、さまざまな要因が絡んでくる。まだ王宮内のことをちゃんと把握していない私はうかつに動くことはできない。

(……でも、全部わかるまで何もしなかったら、一生何もできないと思う)

 こういう場合は、自分だけでやると考えなければいい。

 私が知らなくても、知っている人がいて教えてもらえればいい。

(私一人で考えていても仕方がないのよね……まずは目の前の一歩から!)

 籠を抱える手にぎゅっと力を籠める。

(できることから段階を踏んでやればいい)

 いろいろ考えすぎちゃったときは、原点にもどればいいのだ。

(私の原点は殿下だから……うん。まずは、殿下にちゃんとごはんを食べてもらう事から!)


「……よし」


 立ち上がる。殿下にご飯を食べてもらうためには、殿下の居場所を知っているフィルと合流しなければいけない。

 廊下に出ようとしたら、少し早いタイミングで隣の部屋からエリニアが出てきた。


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