38 扉を開けて
夫婦喧嘩をする、というのは、一つの目安だと思う。
喧嘩するほど仲が良いというではないけれど、喧嘩ができるというのは、まず相手と異なる意見を口にできるだけの関係を築いているという下地がある。そして、そのうえで意見を戦わせることができる対等な相手だと認め合っているっていうことだ。
だから、今の私の野望は『夫婦喧嘩』だったりする。
(……まあ、私と殿下はとても対等には見えないんですけどね!)
でも、別に私はナディル殿下のすべてにイエスマンなわけではない。
そして、精神的には守られるだけの存在ではないつもりだ。
(物理的には守られるだけだけど)
だから、今回のこれは別に夫婦喧嘩というほどのものではない。
(ただ、私が拗ねているだけで!)
「……ルティア……」
困った表情だろうことは、顔をみなくてもわかる。だから、あえて顔はみない。
(だって、私、怒ってるんだから!)
野菜尽くしの朝食の席では全然怒っていないと言ったけれど、今は怒っている。
(……殿下は、私を何だと思っているんでしょうか)
そっと伏し目がちにのぞけば、ナディル殿下はフィルの手を借りて略正装の禁色に近い色合いの長衣姿に着替えていた。
この光景を見ると、専属侍従の姿がないことを不思議に思う人もいるかもしれない。
でも、ナディル殿下はただの侍従をそばには置かない。ナディル殿下に侍従として侍るためには、秘書的な能力が必要となる。そして、秘書として一人前に業務を捌くとすると、そちらの仕事に手を取られるのが普通で、侍従が一人もいないことはめずらしくない。
「……ルティア、顔を見せてくれないか?」
うつむいたまま、殿下の長衣の飾りボタンの彫刻を見つめる。青とも碧ともつかぬ美しい色の絹はダーディニアの特産品だ。殿下によくお似合いだと思う。
腰に帯びた剣の他に宝飾品などは身に着けてはいないが、改まった格好なのは、たった今から建国祭&戴冠式のイベントラッシュに突入した為だ。
「……いってらっしゃいませ」
そして、拗ねた表情を隠しきれないのは、どうしようもなくくやしいからだ。
(一緒に、行きたかったのに!!)
ナディル殿下は、私に何を言えばいいのかわからなかったのか、ポンポンと頭を撫でる。
アルティリエ王太子妃が、今日の行事を欠席することを決めたのはナディル殿下だ。それに従うことは吝かではない。
男装させられたこともいい。安全を守るために必要なのだと言われればずっと前から準備した美しいガウンをあきらめることもできる。
でもそれは、この姿でついていって良いという前提があってだ。
私はついていく気満々だったのに、やはり連れていくのは危険なので残るようにと言われてしまった。
多少の危険くらい大丈夫だから!と 言いたいけれど、守られることが最大の仕事である私がそれをいう事はできない。
(……私を安全な場所に置いて、殿下一人だけで危険の中に踏み入ってゆくのを見るのはくやしい)
「……どうして私は出席できないのですか」
「まだ、元通りではないだろう?」
殿下は、私の琥珀色の革の長靴の足元に目をやる。
「もうダンスが踊れるくらいには回復しています」
「……ルティア」
咎めるような声で名を呼ばれた。
「だって、殿下に一人で行ってほしくないのです」
この格好ならばついていけるのに、というと、殿下は首を横に振った。
男装の醍醐味なんて、普段は私が行かれない場所に共に行くことだと思ったのに、殿下はまったくそんなこと考えもしなかったらしい。
ちなみに、今の私は、フィルの縁で王宮に上がった侍従見習いというのが役どころだ。名前は、エルティ=アルディア……フィルのお姉さんの嫁ぎ先の親族ということにしてある。フィルが私に男装させたのは変装の為だったけれど、無駄に手回しのいいフィルはちゃんと正式な書類も整えてしまった。嘘なのは、エルティという存在だけで他は全部本物が用意された。
「……ちゃんと、始末をつけてくるから」
「子ども扱いしないでください」
口をとがらせる私に、くすっと殿下は笑う。
野菜尽くしの朝食の席で、私たちは幾つかのことを話し合い、幾つかのことで意見をすり合わせ、妥協し、そして最後の一つで反発した ──── 結局、立場の弱さから私が譲るしかない。
「……お料理がしたいです。殿下のお昼と夕食を差し入れさせてくださいませ」
それが私の妥協点だった。
この後はイベントに次ぐイベントで、実は明確な昼食の時間も夕食の時間も設定できていない。もし、潔斎前までに食事をとることができなかったら、当然、食事抜きで儀式に臨むことになる。
(それなのに、隠れていろいろ始末をつけるおつもりなんですよね、この方)
(私にも手助けくらいさせてください)
たぶん、殿下は自分から助けてほしいなんて絶対に言わないけれど。
「それくらいならば、構わない。……フィル」
「へいへい。わかってます。俺が護衛でずっとついてるから、安心しとけ」
「ああ」
「厨房は新しいところを使ってもらうから」
「それでいい」
殿下とフィルの間で、必要事項が確認されてゆく。
コンコンではなく、ゴンゴンというように大きく扉が叩かれる。
殿下とフィルが同じように嫌そうな表情になったから、たぶん二人にはノックの主が分かったのだろう。
「……失礼します、殿下」
入ってきたのは、ややきつい顔立ちをした黒髪の青年 ──── アリエノール王女の夫であるクロード・エウスだ。
私は自分の侍女たちがそうするように、頭を下げてクロードが通り過ぎるのを待つ。
彼は、私を私としては認識しなかったのだろう。私に一瞥も与えることなく目の前を通り過ぎて、殿下の前に膝をついた。
「王太子殿下、どうか、ご出座いただけますようお願い申し上げます」
「ああ」
最後に、飾りのついた鞘におさまった剣を腰に帯びた殿下は、通り過ぎるときにそっと私の頭を撫でていった。
*******
「……それでは、フィル。行きましょうか」
「え? どこへ?」
フィル=リンはちょっと何を言われているかわからない、という表情をしている。
「お料理、作らせてくれるんでしょう?」
この怒りと言うか、ストレスと言うか……胸の中で渦巻くもやもやを解消するには、ちょっと手の込んだお料理を作るのが一番だ。
(……何を作ろうかしら)
図らずも、諦めかけていた自分自身の手で料理することが叶うらしい。
「……あー、了解。了解。ついてきてくれ」
こんな場合だけど少しだけワクワクしてきた。
(おいしいものを作ろう。優しい味のするおいしいもの)
昼食は、手早く食べられるものがいい。
(……ピザ、お茶漬け、リゾット……雑炊、うどん……いや、食べやすいもの。冷めてもおいしいもの……)
幾つかの角を曲がり、長い回廊を抜ける。まるで工事が終わったばかりのようにピカピカの一角に誘われた。
「……ここが、姫さんの新しい宮だ」
「新しい宮ですか?」
「おう。正確には新しい後宮な。……ナディルにそれほど広い後宮は必要ないから、古い宮を閉鎖して老朽化のすすむ建物を少しずつ直していく計画が進んでいる。で、その初っ端がここだ。……設計はナディルがした。あんたの使いやすい宮にするんだって」
位置的には王宮のかなり奥まった一角で、王太子妃宮のように庭がある。
「……ピカピカですね」
「そりゃあ、改築したばっかりだからな。……腕のいい職人を集めて少しづつやっていたんだがな……つい一昨日完成したばかりだ」
間に合ってよかった、とフィルは目を細める。
「本当はナディルが連れてくるつもりだったんだろうが……」
「私が拗ねたからですね……もしかして、ご機嫌とられてますか?」
「あー、まあな」
くっくっくとフィル=リンが喉の奥で笑った。
「……あんたさ、ほんとすげーよ。ナディルにあんな表情させて、譲歩まで引き出して……ナディルにここまでさせるのはあんたくらいしかないよ」
「そうですか?」
「おう。……あんたといると、完璧な王太子殿下が完璧じゃないことばっかしてるから、おかしくて…………ありがとな」
「はい? そこで何でフィルがお礼を言うんです?」
「いや、あいつの乳兄弟としてはさ……あいつがおかしな表情するたびに、礼を言いたい気分になるわけだよ。俺のできなかったことだからさ」
「……どういたしましてと言っておきますけど、でも、本当は全然そんなのいらないんですよ。乳兄弟と妻の立場も立ち位置もまったく違いますから!」
「わかってるけどさ。……やっぱ、礼は言わせてくれ」
「礼には及びませんっていうか、フィル、ちょっと一発殴らせてください」
「へ? え? 何で? 俺、何かした」
「妻をさしおいて自分が礼を言う権利があると思っているところがムカつきます」
「え? あ? え? もしや俺に嫉妬してんの?」
「嫉妬じゃありませんよ。妻の権利を行使するだけですから!」
「……いや、それ嫉妬だから! 俺、そんな気まったくないから!」
ふるふるとフィルが首を横に振る。その顔が変だった。大笑いしているのに、何だか泣きそうにも見える。
「……なあ、姫さん。俺は、本当に嬉しいんだ。……あいつにとって、姫さんだけが自分の……自分だけのもので『特別』なんだ。その姫さんも、あいつのことを『特別』って思ってくれてる。そんな奇跡みたいな偶然、そうそう転がってるもんじゃないんだぜ」
「何言ってるんですか、偶然のわけないじゃないですか」
「え?」
「私も、殿下も、努力しました。……お互いを尊重し、思いあって時を重ねてきたその成果なんです」
そうまっすぐとフィルを見て告げられることが嬉しい。
「……成果、か」
「はい」
私ははっきりと自信をもってうなづいた。
フィルはまた、ありがとうな、と礼を言おうとして、自分で自分の口を閉じた。学習能力があって何よりである。
「……ああ、姫さん、こっちだ」
案内されたのは、大きな樫の扉の前。がっしりとした扉はとても重厚で、何だか圧迫感がある。
「……ここは?」
「どうぞ、扉をお開け下さい。妃殿下」
フィルは、芝居がかった口調で恭しく頭を下げた。
よくわからなかったけれど、言われるままに扉を押し開いた。
見た目の重厚感からは感じられないほど軽く開いた。
「……え?」
扉の向こうに広がっていたのは、厨房だ。
「すごい……」
私は目を見張った。
最新式のオーブンや、水洗い場、それから、ピカピカの堂の鍋やフライパンが所せましと壁を埋め尽くしていた。
「あんたが直接作りたいんじゃないかってナディルが言うもんだから……」
「ええ。ええ、そうです」
さすがナディル様だ、と思った。私がうずうずしていたのはお見通しだったのかもしれない。
「……お昼は殿下がお好きな具をたっぷりとはさんだサンドイッチにしましょうか? それで、夜は肉団子のシチューです」
「あの人に好きなもんなんかあるの?」
「ありますよ。……無言でお代わりするメニューとかもありますし……とりあえず、肉、大好きですよね」
「そりゃあ、男は肉好きだよ。特にがっつりなの」
「ではフィル、この食材をもってきてください」
長衣のポケットにいれていたメモを差し出す。
男性の服装はいろいろなものをいれておけるポケットがたくさんあるので便利だし、袖も広がっていない。足元もしっかりとした長靴にズボンだからとても動きやすい。
「小麦粉、蕎麦粉、チーズに卵にハムやベーコン……野菜も忘れるわけにはいきませんね」
「あー、とりあえず、俺が食材持って戻ってくるまでこっから絶対に動かないでくれよ」
「はい」
私は力強くうなづいた。
*******
銅色の鍋の中で、ぐつぐつと野菜が煮込まれる。
あくを丁寧にすくいながら、そのお隣の火を使い、小さなパンでベシャメルソースを煮詰めた。
丁寧にふるった小麦粉をたっぷりのバターで炒め、それを新鮮なミルクでのばして煮詰める ──── 言葉にすればそれだけの手順だけど、これがなかなかの重労働だ。
あちらではシチューミックスをいれれば済んだのに、こちらでは一つ一つが手仕事になる。
(あれはあれでおいしかったですけれど、これはこれでおいしいんですよね)
バターの香りとミルクの香りが混ざって、優しい匂いになっている。
「……さっきからずっとそれかき混ぜてるけど、何作ってんの?」
「シチューの元、ですかね? いろいろなソースにも応用がききます」
ピカピカのフライパンや鍋を見るだけでワクワクするし、何でも切れそうな包丁を見るだけでときめく。
(あ、何かちょっと危ない人みたいになっていますね、私)
「……姫さんは変わった女だなぁ」
「はい?」
「きれいな宝石やドレスよりも、きれいな鍋やフライパンや包丁のが嬉しいんだろ?」
「……まあ、そうですね」
ってことは、ナディルの作戦は大当たりってわけか、と小声でつぶやく。
(作戦? 何の?)
大きめのフライパンの上にガレット用の生地を落とす。これを均一な厚さに大きく焼くのが技術だ。
(……この手が、ちゃんと憶えている……)
表面がちょっと泡立って火が通ってきたところで、マイルドなクセのある白カビのチーズをしいて、その上に塩漬け豚を細く刻んで焼いたものを並べた。色合いのために、水菜によく似たマーシャル葉という野菜をぱらりと散らして、仕上げに蜂蜜をたらす。
「ちょーっと待った、姫さん、今の蜂蜜じゃねえ?」
「ええ、そうですけど」
「肉とチーズと野菜に蜂蜜?」
「ええ。大丈夫です。ミスマッチのように思えますが、この組み合わせは素晴らしいんですよ」
「いやいやいや、姫さん、いくら姫さんが蜂蜜好きだからって、それはねえだろ」
「そんなことありませんよ。……グダグダ言うなら、食べてみればいいんです」
はい、どうぞ。と。ガレットをくるくると筒状に巻いて紙ナプキンにくるんで渡した。
最近大量生産されるようになった紙ナプキンは、白というよりはグレーという色合いをしている。こういう時に使い捨てるにはとても便利な品だ。
(普通のディナーとかには使えませんけどね)
「……え」
フィル=リンは、まるでこの世すべての絶望を見たかのような顔をする。
「食べなさい、フィル」
私はにっこりと笑った。
「い、いや……でも、姫さん」
「温かいうちのほうがずっとずっとおいしいんですよ」
冷めてもおいしいけれど、チーズがとろけた温かいものの方が私は好きだし、できたては格別だ。
わりと柔軟なように見えて、フィルは食べ物にはとても保守的だ。たぶん、御料理がそれなりに上手なお母様の元で、しっかりとしたものを食べてきているから、保守的な味覚をしている。
(その点、ナディルさまは全然なんですよね)
ナディル殿下は味覚に対してあまり決まりを持っていない。
おいしいとかまずいとかそういう分類ではなく、食べられるか食べられないかを最低ルールとしているのだ。
もちろん嫌いな物だってあるのだけれど、それを取り除くのが面倒くさいとおとなしく食べる。
殿下にとって食事は生命維持の手段でしかなかったのだ。
(……そんなナディル様も、最近、好き嫌いがちゃんとできてきたからなぁ)
最初の頃のことを考えると感慨深いものがある。
「……ん……?」
おずおずとガレットを口にしたフィルの顔が、あれ? というものに変わる。
「……姫さん、これ、全然いける」
「そうでしょう。食べず嫌いなんですよ」
私は自慢げに笑いながら、殿下のお昼にお届けする一品として、ガレットをくるくる巻き始めた。




