35 寝起き
(……あー、ぬくぬく……しあわせ~……)
誰だって布団と結婚したいと思ったことが一度や二度はあるはずだ。特に寒い冬の朝は布団から出たくなくて、いつまでも毛布の中に居たいと思ったことがあるだろう。
首を縮めて、ふわふわの毛布の中に口元を埋める。
まるですっぽりと寝袋に入ってるみたいに心地が良い。
(お布団、さいこー。このままずっとぬくぬくしていたい……)
理想の朝の目覚めの一つは、このとてつもなく危険なぬくもりを感じながら、誰かが作る朝ごはんの優しい香りの中で目覚めることだと思う。
例えば、お味噌汁の優しい匂いの中でゆっくりと意識が覚醒して、ジュージューと新鮮な鯵のひらきか、脂ののった鮭が焼ける音を聞きながらのろのろとベッドから出て、胃袋を刺激するおいしそうなにおいの中で身支度を整える。着替え終わって食卓につくと、目の前に湯気のたつ朝食が並べられているのだ。
(そんなの夢だって知ってるけど!)
これは一人暮らしの身では味わえない贅沢だ。己がアルティリエ・ルティアーヌである今となっては、夢のまた夢である。
ふわふわの毛布にくるまってぬくぬくとのんびりできる幸福感を味わいながら、半覚醒の頭で考える。
(……一部は実現できる)
イメージしたのが炊き立てのごはんだったり、大好きなじゃがいもと玉ねぎのお味噌汁だったりするのは、たぶん私にとって一番おいしい朝食が母────麻耶の母が作ったものだからだろう。
(別に和食にはこだわらないけど……がんばればできるものもあるよね)
例えば、塩鮭とか鯵のひらきは該当する魚が見つけられれば比較的簡単に食べられるだろう。
残念ながら日本で食べていたようなお米はないけれど、麦みそみたいな調味料はあることは知っているから、お味噌汁のようなものは作ることができる。
そして、あとはほんの少し怠惰になれば……あるいは、自分で殿下の朝食を整えたいという望みをあきらめれば、起きて、着替えて、テーブルに着いたら温かな朝食が運ばれてくる……というのも可能だ。むしろ、それのほうが王族の通常だ。
(でも……やっぱり、私はできるだけ殿下の朝食は自分で用意したい)
私と朝食をとることが習慣になった今ならば、たまには他の人に任せてもいいかもしれないけれど……ううん。でも、まだ気をぬいたら駄目だ。安心できる理由なんてない。
(積み重ねてきたこの一年間の思い出はあるし、お互いに好意はあるけれど、それに胡坐をかいていられる状況ではないものね)
周囲は殿下を狙う妙齢のお嬢様方でいっぱいなのだ。
リリアの調査によれば、ここ半年以内に入った行儀見習いの侍女たちの大半がそういう人たちである。
何といっても私が幼いのがネックだ。
つまり、まだ閨を共にしていないから……隙を狙われやすいのだ。
あと、殿下と私の年齢差を考えて、完全な善意から娘を送り込んできている人もいるからいろいろ大変なのだ。
しっかりと胃袋を掴んでいる自信はあるけれど、まだまだ自信を持つには足りない。
(……だって、そもそもが缶詰の携帯糧食で平気な方だし!)
食いしん坊な人はいい。おいしいものの為に犠牲を払うことを厭わないし、とってもわかりやすいから。
でも元々それほど執着がなかったり、食べられれば何でもいい的な人は難しい。さらにそこに殿下のようにご自分を制することに長けた人だともっと難しい。
私が作るものをおいしいと思って好きになってくれても、自制して……我慢ができてしまうから。
だから、まだまだ油断なんかしてはいけないのだ。
(……本当は、もっとこの手で作れればいいんだけど)
自分の手で作れるものはそれほど多くない。
私が直接作業することを皆が好まないし、適温で提供しようとすれば、私が作っていては間に合わないからだ。
それでも、殿下が来る前に味見をしたり、ソースの細かな調整を指示したりして、できるだけおいしいものを提供するために努めることは大事だと思っている。
ころん、と寝返りをうとうとして、すっぽりとはまりこんだぬくもりの中で、身動きがとれないことに気づいた。
(……あれ?……)
私、すっぽりとはまりこんでる?
もぞもぞと身動きをして、まだ目を瞑っていたいと思いながらも、薄く目を開く。
(……壁?)
それから、柔らかい肌触りの毛布と、なめらかな手触りのシーツに気づく。
(……ここ……どこ……?)
己の知るどこでもない、と気づいた瞬間にぱっちりと目が覚め……。
「…………っっっ!!!!!」
思わず息をのんだ。
いや、だって! 誰だって息をのむ。一瞬、呼吸を忘れたから!
やや視線をあげた私の目に入ったのは、作り物のように綺麗な顔。
見間違えるはずもない、私の夫たるナディル殿下の信じられないようなどアップだ。
(……これ、何がおこってるの? 何の罰ゲームなの?)
パニックを起こす前に思考が停止した。
だって、え? なんで? 殿下がなんでここにいるの?
いや、あれ? 私、どうしたんだっけ?
脳裏に目まぐるしく流れ込んできたのは直前の記憶だ。
祭ににぎわう街の中で売り子をしていて危ない目に遭ったこと。危機一髪、殿下に助けられたこと。それから、殿下に抱き上げられて王都迷宮を歩いたこと……殿下のいろいろな表情や、話したこと。その思いがけず柔らかな声のトーンまではっきりと思い出せた。
(……そっか、私、寝ちゃったんだ……)
意識は一人前の大人のつもりだけど、身体はまだ十三歳の少女だ。しかも、あまり体力があるとはいえない。
うん。殿下の腕の中で寝てしまったのはわかった。
でもね……でも、今の状態はどういうこと?
何度目をしばたたかせても、目の前に殿下の顔のどアップがあるという事実は変わらない。
そう。つまり、殿下と一緒に寝ているということだ。
(……じょーきょーがよくわからない)
記憶にある最後は、殿下の腕に抱かれて王都迷宮の中を歩いていたところ。その後は意識がぷっつりと途切れている。
ここは深呼吸をするべきだろう。
目を瞑って、深く息を吸って吐く。
身体の中に新しい空気をとりいれて、静かにゆっくりと吐く。
何度か繰り返して、心を落ち着けた。
(……殿下、まだ寝てる……)
疲れているんだろうな。ずっと忙しかったし……それに、きっと心配かけただろうし……たぶん、私がいなくなったことで余計な仕事も増やしてしまったと思う。
「……心配かけて、ごめんなさい」
そっと身体をよせて、少し伸び上がって眠っている殿下のおでこに唇を寄せた。
軽く抱き枕状態だったので、腕の中から抜けるのはちょっと大変だけど、多少の自由はある。
もちろん、起きていたらそんなことできるはずがないけど。。
普通に起きていたら私たちの身長差からしてまったく無理だし、恥ずかしいからね。
(……寝てるからできるんだよね……え?……)
唐突に、殿下の眼がぱっちりと開いた。
蒼の瞳……どこまでも透徹とした氷の蒼が寝起きのせいで潤んでいる。
ぼんやりとしているせいか、いつもより少し幼く……いや、若く見えるかもしれない。
(……!!!)
焦って挙動不審な動作をしそうになったけれど、危うく押しとどまった。
ここでおかしな動きをする方が悪目立ちする。
(……お、落ち着くんだ、私!)
ぎゅっと拳を握り締めた。
殿下がわずかに身じろぎする。
そして ──── 何の感情も映さぬ瞳が、驚くほど間近で私を見た。
(……あ、これ、ちゃんと見てませんね)
そう思ったら、さっきまでの焦った気持ちが嘘のように消えた。
たぶん、さっきのおでこへのキスは見られてない、というか、認識されていないだろうと思ったらとても安心できたのだ。
私はぼーっとしている殿下を観察した。
(……睫毛ながいなぁ)
あと、お肌が綺麗。きっと夜更かしとかすごいし、不摂生もたくさんしてると思うのに。
(殿下、たぶん、寝起きがあんまりよくないんだ)
それは新しい発見だった。
しばらく、無言でそうしていた。
「……!!!」
そして、目覚めたのと同じくらい唐突に、私を見て殿下は大きく目を見開いた。
(……あ、起きた……)
先に目覚めたおかげで、私はすっかり気持ちを落ち着けることができていた。
「……おはようございます。ナディルさま」
「……おはよう」
たぶん、ナディル殿下も一瞬だけ状況を認識できなかったのだと思う。
でも、殿下は殿下なので、動揺はほんの一瞬だけだった。すぐに気持ちをたて直して、いつもの表情になる。ただ、ほんの一瞬垣間見せた、きょとんとした表情が目に焼きついた。作り物ではない、素の表情のように思えた。
「……あの、ここは、どこなのでしょう?」
間抜けな質問だな、と思いながらも口に出す。
寝台の上だということはわかっています。私の寝台ではないということも。
「……私の部屋だ」
殿下が、気まずいようなくすぐったいような微妙な空気の中で身体を起こす。私もつられるようにしてのろのろと寝台の上に起きあがった。
「……後宮のですか?」
「ああ」
あっさりとうなづいた。
たぶん、そうだとは思っていました。でも、ご本人の口から改めて聞くとなかなか衝撃的な言葉です。
(だって、これってつまり、殿下の寝台に泊まってしまったって事ですよね?)
別に何かあったとは思わない。だって私はちゃんと寝間着を着ているし……え? 寝間着?
(ちょっと待って。……自分で着替えた覚えなんて、ない)
さーっと背筋が冷たくなる。
「……どうした?」
目をぱちぱちとしばたたかせた殿下が私の瞳をのぞき込む。
「わ、私の着替えは?」
「ああ……君の女官に……ラナ・ハートレーに頼んだ」
リリア、有難う。私は心の底から、リリアに感謝した。
殿下に着替えさせられるなんてあり得ないから! 私がまだ幼くて殿下のお相手をつとめられるほど成熟していなくとも、恥ずかしいものは恥ずかしい。それに、いつライバルになるかわからない殿下の女官たちの手で着替えさせられるのも嫌だ。
「……あの、リリアが私を着替えさせているのに、なぜ私は殿下の寝台に?」
「……話せば長いことになるが、簡単に言えば、こちらに戻ってきたときにすぐに君の部屋に戻そうとした。だが、タイミングが悪くてその時間がなかったので私の寝台に寝かせておいた。用事が済んでから自分で戻すつもりだったのだ」
でも、それは叶わなかったのだと殿下は言う。
「……少々厄介な問題が発覚して、戻ってきたのが遅かった……君は起きる気配もなかったし、口裏を合わせる必要があったからな。……だから、そのまま寝た」
殿下の手が私の髪に触れ、梳るようにそっと撫でた。
「……噂になります」
「別にかまわない。元より、私たちは夫婦なのだ。誰にも文句は言えぬであろう」
「……私が『姫』ができないのでは、と言い出す人間がいそうです」
「それはいるだろうな」
殿下がくすりと笑った。
すごく腹黒い笑みだった。
「……ちょっと腹がたちますし、幼女趣味だって言われますよ、殿下」
「言わせておけ。何と言われても私は気にしない」
その長い指先に私の金色の髪をくるくると巻いてははずし、また巻く。それはただの手遊びだったけれど、私の気を惹こうとしているようでもあった。
「でも『姫』の役は、高位の貴族の未婚の娘が条件なんですよね?」
「表向きはな。……実際のところ、建国祭の『姫』役というのは、真実の『鍵の姫』を選定するためのものだ。処女であるかどうかはどうでもいいが、『鍵の姫』と認められればほぼ例外なく王家かエルゼヴェルトへと嫁ぐことになる。だからこそ未婚の乙女と定めているのだろう。実際には処女であるかどうかは関係ない。……だいたい、暇人が多すぎるのではないか?私の閨の中でのことなどどうでもいいではないか」
そのあからさまな物言いが恥ずかしくて、顔を伏せる。きっと耳まで紅くなっているに違いない。
「すまぬ。下世話な物言いをしたな」
「……いえ」
見るからに王子様然とした殿下がそんな風な言い方をするとすごく違和感がある。
潔癖症の少女であれば嫌がるかもしれないけれど、中身はとっくに成人済だった意識を持つ私にとって、それは嫌な違和感というわけではない。むしろ、そのギャップにちょっとだけドキドキした。
「……いろいろと言われているが、私は無理強いをするつもりはないし、未成熟な身に欲望を押し付けようとは思わない。だから、君は気にしなくていい」
急ぐことはない、と殿下は私の髪を撫でる。
耳元で囁くように告げられると、何だかむずがゆかった。




