34 私の宝
「……殿下、重くはないですか?」
たぶんもう十五分以上は地下都市を歩いていた。
殿下の足取りは最初とまったく変わっていないようだけれど、とても気になる。
「まったく重くはない。……君はもう少し太っていい」
「……殿下、太るは禁句ですよ」
私は笑顔でやんわりと窘める。
こういうことはすかさずその場で直していかないと!
「では……もう少し体重を増やしたほうがいい」
「……イヤです」
言葉を変えても意味は同じですから!
私は全然太ってないよ。むしろ、同年代の子供たちと比べると、たぶん縦も横も圧倒的に足りていないと思う。でも、それでも、太る、とか体重が増えるとかは聞きたくない言葉だ。
「もうちょっと肉をつけないと、体力がつかないだろう」
「運動をします! それで筋肉をつけるのです」
「君には筋肉は無理だろう。……それ以前の問題だ」
「え? それ以前ってどういう意味ですか?」
「急に運動したりすれば倒れる。……今のところ、日常生活にさほど影響を及ぼしていないから自覚がないのだろうが、君は……エルゼヴェルトというのは、わりと虚弱な体質なのだ」
「……そうなのですか?」
「ああ。……君は呼吸器系が特に弱いと聞いている」
半年前、私の主治医が変わった。私の新しい主治医は、マリアナ=ラヴェルという中年女性だ。アル・グレアの川向こうの大学都市在住者で、私に何かがない限りは大学で教鞭をとっているという。
貴族ではない人間が正式に王族の主治医になることは、これまでほとんどなく、いろいろと物議をかもしたのだけれど、結局、殿下はご自分の意思を通された。
こう考えると、陛下がお亡くなりなられてから、王宮はだいぶ様変わりをしているように思える。
「これまでは、宮からほとんど出ることもなく自分でも気づいていなかったのかもしれないが、これからはそうも行かぬだろう。君は虚弱体質気味で体力もない。もちろん、運動をするなどもってのほかで、全力で走ることもできるだけ避けた方がいい」
「え?」
「呼吸器が弱い、というのは、そういうことだ。私は医者ではないが、知識はそれなりに得ている。……何もそんな悲観的な表情をしなくとも……」
「いえ、だって……別に全力で走る予定はないのですが、何かすごく殿下のお荷物のような気がします、私」
「何を言う。君を荷物だなどとは思ったことはない」
殿下は軽く目を見開いて言った。
これ、ちょっとわかりにくいけれど、驚いているときの殿下の顔だ。驚いている、というよりはニュアンスとしては「心外だ」というところ。
「……今の状態は文字通りお荷物だと思いますけれど」
「バカなことを。荷物だったらこんな風に大切に抱え上げたりはしない。君は、私の宝だろう」
殿下は当たり前のことを言うかのごとき口調で私に告げる。まるでそれは常識だとでも言うように。
「宝、ですか?」
「そうだとも。君は私のエル・ゼ・ヴェルートだ」
エル・ゼ・ヴェルート────旧帝國語でいう『鍵の姫』。でも、殿下のいう意味は、たぶんさらに古い意味の『宝の姫』の方なのだと思う。
「……私は、殿下の宝なのですね」
思わず、呟きがこぼれた。かすれた声を、殿下はそれでもちゃんと聞き取ったらしい。
「ああ」
至極当然というようにうなずく。
その当たり前だという態度が、私を宝だと言ってくれるその言葉が……ううん、殿下が私に伝えてくれるすべてが嬉しくて頬が緩んだ。
(うわー、どうしよう……)
どうしていいかわからない。背中がムズムズして、指先がくすぐったいような感じがしていた。胸の奥の……身体の真ん中みたいなところが暖かくなっていて、じんわりと熱いものがこみあげてくる。
(……嬉しい)
少しずつあふれ出したものは、まるで尽きることがないかのようで……それが何であるのか、言葉ではうまく言い表せなかった。
(何だか、無敵になった気分!)
この瞬間、私の心はダイヤモンドだった。肉体的には大変ひ弱で貧弱だけれど、心だけなら最強無敵の勇者だった。
「ナディル様も私の宝物です」
何をどう言ってもうまく伝えられない気がしたけれど、言わずにはいられなかったのだ。
私の言葉に、急に殿下が足を止める。
まるで凍り付いてしまったように動かない。
「殿下? 殿下、聞こえてますか?」
縋り付いた胸をそっと叩く。
「……ナディルさま?」
名前を呼ぶと、殿下は深く息を吸い込んで深呼吸を一つした。
「……何でもない。ちょっと考え事をしていた」
なんだ。良かった。
急に動きを止めるから心配したのだ。きっと私を迎えに来るために無理をしたからこの後の処理のことをいろいろ考えていたのだろう。
「………このあたりから、王宮の敷地になる」
殿下は、何事もなかったかのように私に教えてくれた。そういわれて路面に目をやったけれど、違いはまったくわからない。
「……ナディルさま、この路面の光は何なのですか?」
路面の光だけではない。地下にだけあるこの蛍光灯のような明かりが何なのかが知りたかった。
(……明らかにオーバーテクノロジーなんですよね)
「遺物だ」
「いぶつ、とは?」
異物? いや、遺物だろうか?
「過去の文明の遺産だな。おおまかな年代で言うならば、おそらくは帝國時代初期の頃のものがほとんどだろう。……現代の一般技術ではもちろんのこと、大学の総力を挙げても今のところ複製が不可能とされている。再生・修理についても研究の段階でしかない。だいたいの仕組みはわかっているが、素材や材質が不明なものが多いのだ」
説明してくれる殿下の声はいつもながら淡々としている。でも、その声の底にわずかに柔らかな響きがあった。こういった会話を交わすことを殿下は嫌いではないのだ。
「地下の……この都市を私たちは王都迷宮と呼んでいる」
「王都迷宮、ですか?」
「そうだ」
見るが良い、と殿下は私を抱いたまま振り返った。
「……すごい……」
階段をのぼったという感覚はほとんどなかったのに、いつの間にか、私たちは随分と高台へとたどり着いていたらしい。
私たちの眼下に、青みがかった無数の光に包まれた都市遺跡が広がっている。
「……まるで、星空のようだな」
それはまるであちらの世界で高層ビルの高処からイルミネーションを見下ろしているかのような光景だった。
ナディル殿下の口からこぼれたのは詩的な表現だった。殿下は案外ロマンチストなところがある。
少しずつ和らぐ空気の中で、私の中に郷愁にも似たセンチメンタルな気持ちがこみあげた。
(綺麗だけど、どこか物哀しい感じがする)
きらめく無数の光……それはとても美しく、それでいて寂しい光景のように思えた。
もしかしたら、この地下の都市にはもう誰も住んでいないことを私が知っているせいだからかもしれない。
「……王都迷宮のこの光は、年々数が少なくなってきている」
ぽつりと殿下が言った。
「なぜですか?」
「現在の技術では修復できないからだ。記録によれば、かつてはもっと多くの光に包まれていたという。我々はこの地下都市について長年研究を続けているが、わかっていることはごくわずかでしかない。我々に残された謎は多く、私の一生を賭けてもそれらを解明することは不可能だろう」
「……でも、殿下はあきらめるおつもりはないのでしょう?」
「もちろんだ。……私は私に可能な限り、その謎を追うだろう」
殿下は柔らかく微笑った。
ほんとうにかすかなその笑みが、私に向けられていることが嬉しい。
「君も手伝ってくれるか?」
「私が、ですか?」
「ああ」
「私に何かできることが?」
「たくさんある。……そもそもが、君こそがその謎の最たるものであり、謎のすべてはおそらくは君へと帰結する。君は『鍵の姫』だ。建国祭の儀式を終えたら、帝國の遺産すべての主となる」
「……ていこくのいさん」
馴染みのない単語が出てきたので棒読みで鸚鵡返しにして、わざとらしく首をかしげた。殿下はまるで私がすべてを承知しているかのように話すけれど、知らないことのほうがずっとずっと多いのだ。
話の腰を折りたくないとは思うものの、適度なところで私は知らないんですよアピールをしていかないと知らないままどんどん話が進んでしまう。
「君は、陛下からどこまで話を聞いた?」
真顔になった殿下に静かに問われた。
ちゃんと意図をわかってくれる殿下がすごくありがたい。
「……この国が私の……統一帝國最後の皇女の血筋を守るためにつくられた国であること。私がその血筋を正しく保持している最後の一人とみなされていること。そして、殿下がそんな私を守るために選ばれた夫であること、でしょうか」
指折り数えながら、知っていることをできるだけ簡潔に伝える。
陛下からのお話については何度か話したことがある。
「そうだ。……君は、統一帝國の遺産を受け継ぐ唯一の人間だ」
殿下は満足げにうなずいて続けた。
「……帝國の遺産とこの国で呼ばれるものは公には二つある」
「二つ、ですか?」
「ああ。……大学と遺跡だ」
そこで私を見て、まるで耳に刻み込むようにとでも言うようにその単語を告げる。
「……大学」
「そうだ。この大陸にはかつて七つの大学都市があったのだが、今は六つ。そのすべての大学都市、そこに属するすべての研究機関及び施設……それらすべてを総称して『大学』と呼んでいる。このダーディニアは……というよりは、このアル・グレアは、大陸でも類を見ない特別な成り立ちをしている。この王都迷宮は、アル・グレアの南岸にある大学が管理していることになっている」
「本当は違うのですか?」
「大学は何も知らない市井の者が遺跡に入らないように封鎖しているだけだ。遺跡と言うのは私たちの思い通りになるようなものではない。君も知るように王宮の地下に番人がいるように、他の遺跡にもそれに類するものがいることもある。何も知らずに入れば、それらに排除される。排除の手段が不穏当なものになることがほとんどだから何も知らないものが被害にあわないように封鎖しているのだ」
「……この私たちが今歩いている場所にも王宮の地下のような番人はいるのですか?」
王宮の地下の番人は殺傷を辞さない。というか、あからさまに殺しにかかると聞いている。それがわかっていて、私は地下へと逃げ込んだ。
私を追った人たちがどうなったのか私は知らないし、確認する気もない。
(ズルいと思うけど……)
私たちを追ったせいで命を落とした人がいたかもしれない。その結果を受け止める覚悟はあるけれど、あえて自分から聞こうとは思わない。
「今のところ似たようなものがいると判明している建築物は王宮のもの以外に二つだな。ここには君がいるから一緒に覗きに行きたいところだが、残念だが時間がない」
(確かに今は寄り道している暇はないよね)
「……私がいれば、そういう建物も入れるのですか?」
小さなあくびを噛み殺しながら尋ねた。
さっきまでずっと気を張っていたけれど、もう大丈夫だとわかってだんだんと緊張が解けてくると、何だかすごく眠くなってきた。
「入れる。君は文字通り『鍵の姫』だから」
孤児院でも睡眠はとっていたけれど、ずっとどこか気持ちは張りつめていたのだと思う。夜、ほとんど起きない私が何度か目が覚めたから。
でも、今は殿下の腕の中という絶対の安全圏にいるせいで、すごく安心できてしまっている。
(……すごくあったかいし)
殿下がマントの中に抱き込んでくれているのがほどよく暖かくて、それも眠りを誘う一因だった。つかまるように握ったマントの絹であろうすべらかな手触りが気持ちがいい。
「……マスターキーみたいなものですね」
「ますたーきー?」
「あー、えーと、万能な鍵、というか……そういうのです」
どうやらこちらには存在しない言葉を口にしてしまったらしくて言い直す。
「そうだな。帝國の遺産の正当な主である君を阻む扉はなく、番人も守護者も君の前では沈黙するだろう。……さしあたっての問題は、遺跡は広く複雑な構造のものが多いので、おそらく君では目的地にたどり着けないということくらいで」
「……それ、どちらの意味で言っています?」
口角がややあがっているその表情を見れば、その言葉の意図は察せられる。
「両方だな」
「確かに私は体力もありませんし、方向音痴だと思いますけど!」
「安心するがいい。君を無駄に歩かせたりはしない」
殿下は珍しく、機嫌よさげな笑みを浮かべた。最初はそれほど機嫌はよくなかったけれど、いつの間にか改善していたらしい。
「それはありがたいと思いますけど……」
「……けど?」
「自分の足で歩かなければ足が弱くなりますし、いつまでたっても道を覚えないじゃないですか」
「問題あるまい」
「どこがです?」
(いやいやいや、問題だらけだから!)
何で殿下がそんなに自信たっぷりなのか全然わからないから!
「いつも私が君を抱えて歩けばいい。これでも私は鍛えている方だから君が成人しても問題なく抱えられるだろう。……それに、方向音痴というのは不治の病だ。かわいそうだが、頑張ってもおそらく治るまい」
「そういう問題じゃなくて……っていうか、さっき約束しましたよね。抱き上げられるのは今回だけですって」
殿下は何を言われたかわからないな、みたいな顔をして私の言葉をさらっと流す。自分に都合の悪いことはきかなかったことにしてますね、それ。
「体力つけるためにもできるだけ自分で歩きますから!」
殿下の耳元でしっかりと言い聞かせるように告げる。
なのに、殿下はしょうがない子だ、みたいな表情で私を見た。まるで、さも私がわがままいってるかのように。
「殿下」
思わず、腹の底からひくーい声が出た。
言っておきますが、わがまま言ってるのはそっちなんですからね! 私、当たり前のこと言ってますからね! 一瞬、え? 私が悪いのかなって思ってしまいそうだったけど。
「まあ、それは今後の検討事項だな」
「え? 検討の余地があるんですか?」
私は単に自分の足で歩きたいって言ってるだけですよ?
殿下は薄く笑った。
私は小さなため息を一つついて話題をかえる。
「……さっきのお話ですけど」
「ああ」
「建国祭が終わったら、お弁当とお茶をもって行きましょう」
「ぴくにっく、だな」
「はい。……殿下のお好きなものをつくりますね」
「私の好きなもの?」
「分厚いハムと卵とクリームチーズの胚芽パンのサンドイッチや、固めにやいたレーズン入りのチーズケーキ、それから、バーラト酒に漬けた果物たっぷりのパウンドケーキもお好きですよね」
「……そうかもしれない」
殿下は少し変な顔をしている。
私は思わずふき出しそうになって、口元を押さえた。こう言うと何だけど、すごくかわいい。たぶん、同意してくれる人はいないと思うけど。
「いろいろお代わりなさいますけど、そのあたりが一番お代わりの回数が多いんですよ。気づいていませんでした?」
「君の作ってくれるものはどれも旨いからな。……何を作ってもらっても好みだと思っているからわかっていなかった」
(うわぁ……これ、困る。嬉しすぎるよ!)
殿下の腕の中にいるのでなければ、くぅぅぅと呻いて、この小さな身体の中を荒れ狂う喜びのままにソファやベッドの上でゴロゴロと転げまわっただろう。
(これって、餌付け作戦更に大成功の証拠だよね!!)
こういう地道に成功を重ねていくのが一番強いと思う。
でも、結局は、自分が作っているものを好きだって言ってもらって、それが嬉しいっていうだけなのだ。
(料理人冥利につきるっていうか……報われたっていうか……)
好きな人においしいものを食べてほしいと思って努力したことが、思った通りにちゃんと伝わって受け入れてもらえたことが嬉しい。
(……一方通行じゃないってことだから)
嬉しすぎてどうしていいかわからないって今の私みたいな状態を言うんだと思う。
殿下はわかりにくい人だけれど時々とても素直にこういうストレートな賛辞をくれる。そういうのって本当にうれしい。何度言われても慣れなくて、どうしようもなくなってしまう。
みっともなく緩んでいる顔を見せられなくて、殿下にぎゅうっと抱き着いた。
最初は躊躇いがちに、そのうちに当たり前のようにそっと背を撫でてくれた手の心地よさはダメ押しで、いつの間にか私はゆっくりと眠りに落ちていった。




