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幕間 王太子と公爵と公爵夫人


 王太子ナディルの執務室は、それほど広くはない。

 元より余人を入れることを想定していないからだ。

 現在の執務室は、立太子された時よりずっと使っていた王太子宮のものより幾分広くはなったものの、代わりにテーブルセットが増えているので使用範囲はそう変わっていない。


 ナディルは、ちらりとテーブルセットが備えてあるコーナーに目をやる。

 アルティリエの為に設けた一角だった。

 食事を一緒にとることにこだわる彼女が差し入れをもって執務室に出入りすることがあるので、後宮に引っ越した時に設えさせた。

 木目の違いで美しい模様を描き出しているテーブルセットは、アルティリエのために選んだ品だ。美しい工芸品を好む彼女は、ナプキンの小さな刺繍一つにさえ目を留めて、その出来や選んだセンスを褒めるので侍従たちが家具倉庫でさんざん悩んで選び抜いた品だ。

 初めてそのテーブルで朝食をとった時、アルティリエはその大切に手入れされてきたゆえの飴色の風合いと、執務室の中で悪目立ちをしない落ち着いたたたずまいの良さを褒めた。

 新品を好む者が多い中で、アルティリエはどちらかといえば大切に使われてきた古い物を喜ぶ。

 ダーディニアでは、一部の分野においては顕著に工業化が進んだ。もちろん、政庁の主導と大学の監視の上でのことだが、ここ数年で陶器や生活雑器は機械と手作業を併用した大量生産が主流となり、最近では機械織の布等が市場を占めはじめている。


(いずれ、人の手によるものは高級品となり、大量生産された品は消耗品となってしまうのだろう)


 アルティリエの好みはある意味、時代に逆行するものであるが、ナディルはそれをより好ましく感じていた。

 ナディルはまったくそういった興味や関心がない。

道具は使えればそれでよく、身分にふさわしければ何でもよい。ナディルには好みやこだわりがまったくないのだ。

 アルティリエに贈るものくらいは自分で選ぼうと考えるのだが、いつも選びきれないため、色や条件だけを決めて得意な者に任せることが多い。


 溜息を一つついて、もう一度テーブルセットに目をやる。

 アルティリエ専用のそのテーブルセットには二つの人影がある。

 一つはグラーシェス公爵で、もう一つは公爵妃。

 アルティリエ以外にこの執務室で初めて迎えた客が彼らだった。

 彼らに聞こえぬようそっと息を吐いた。

 さめざめと空気を震わせる細い泣き声。

 公爵妃が来訪時よりずっと泣いていて、公爵の慰めですら受け入れないせいだ。

ナディルはもう一度ため息をつく。


(夫婦の問題ならば、自分たちだけでかたづけてほしいものだが……)


 グラーシェス公爵が己の妻を溺愛していることは誰もが承知の事実だった。

 謹厳実直な老公爵は、部下や使用人に対しても相応に厳しい主である。そして、それ以上に子供や孫には厳しい。獅子は我が子を千尋の谷に落とすと言うが、公爵が突き落とすのは谷ではなく地獄の底だと言われるほど。

 その公爵が唯一甘いのが、公爵妃だった。エルゼヴェルト公爵家から嫁いだ公爵妃は、老公の唯一の弱みといっても良かった。

 公爵妃がやらかすさまざまな後始末を、公爵は何も言わずに引き受け、世間知らずゆえに済まぬと頭を下げる。

 ナディルは、公爵妃がかかわらぬことで公爵が頭を下げたところを見たことがない。


(……信じられないことだが、まあ、惚れている、と言うことなのだろうな)


 正直なところ、同じような過ちを何度も繰り返させるのではなく、よく思い知らせて反省させろと言いたいのだが、それは己の範疇ではあるまいといつも口を噤む。

 もちろん、そこには年長者であるグラーシェス公爵への配慮が多分にあった。


「……すまなかったな、公爵。急ぎの仕事があったのだ」

 キリのいいところまで終わらせた書類を重ねてトントンと整え、立ち上がった。

「……いえ、急な来訪にもかかわらず、面会をお許し下さりありがとうございます」

 老公は、そっとかたわらの妻の背を撫でた。

「エレーヌ、いつまでも泣いていないで殿下にお話し申し上げなさい」

「……は、はい……」

 何枚目になるのかわからない手巾でそっと目元を拭い、エレーヌ妃が口を開いた。



**********



「……話はわかった。つまり、逃げ出して、地下をさまよって王宮の外に出た後、アルティリエが倒れて、そなたは助けを呼びに屋敷に戻ったのだな」

「……はい。……途中、親切な子供たちに助けられて、馬車にのせてもらい、屋敷に戻りました。それで、屋敷におりました息子と共に妃殿下と別れた祠にもどりましたけれど、妃殿下のお姿はなく……」

 エレーヌ妃は、泣き伏してかたわらの夫にすがる。

「老公、今も周囲に人をいれているのか?」

「はい。ただ、妃殿下が外においでと知られれば良からぬことを企む輩もおるでしょうから、密やかに捜索をさせております」

「……そうだな」


 その判断に間違いはない。

 ナディルは公爵妃から与えられた最新の情報を頭の中で整理する。いつもの癖で、指先が小さなリズムをとった。

(アルティリエは何事もなく王宮に戻らねばならない)

 行方不明になった事実などあってはならない。

 元より自身に与えられた区域から出てくることの少ない身だ。周囲の侍女、女官が口裏をあわせればその不在を隠し通すことはそれほど難しいことではないだろう。


「……公爵妃」

「……はい、王太子殿下」


 涙にぬれた青い瞳がナディルを見上げる。

 白くなってしまった髪色こそ違えど、その瞳はエルゼヴェルトに特有の奇跡の青。アルティリエと公爵妃が血縁関係にあるということを思い出しながら問うた。


「先ほどの話だが、地下でも襲われたと言うのは本当か?」

「はい」

「心当たりはあるか?」

「ここ最近、届いた脅迫状がこれでございます」


 公爵が写しはとってあります、と原本を数枚積み重ねた。

 ナディルは無造作にその一番上のものを手に取って目を通す。


「……また、二年前か」

「また、と申しますと?」

「先日、クロードがもってきたものも二年前だった」

「同じ輩であれば当然では?」

「いや、こちらは手蹟が違う。それから、インクも紙も違う。……まあ、おそらくは単独犯ではなく複数犯だろうから当然と言えば当然かもしれないが……」

「しかし、なぜ我が妃を?」

「世間では、そなたの妃の不注意が病を広げたと考えているらしい」

「……しかし、それは事実ではありませんが」

「ああ、そうだ。事実ではない。だが、当時はいかにもそれが事実のように噂されていたようだな。現にアルフレートですら、公爵妃が言い出して病の旅人を別邸に移転させたのだと思っていた」

「……私が、移動させる許可を与えたのです。そのせいで病を広げたと言われても致し方ございません」

「だが、それで恨まれるのは筋違いというものだ。……そもそも、私が不思議に思っているのは、なぜ今頃なのだ?」


 今更、復讐をはじめたところでタイミングは逸しているだろう? とナディルは首を傾げた。

 あの事件の恨みだというのなら、なぜ二年もたってからなのかがよくわからない。


「恨みは風化しないということでございましょう……」

 でも、それは私が引き受けねばならないものです、と公爵妃は涙をぬぐいながら告げた。

「エレーヌ……」

「いつも貴方が庇ってくださっていることはわかっております。でも、この件は私の責任でございますから……王太子殿下、罰は私がお受けいたします。ですから、どうぞ、私の身一つでおさめてくださいませ」

「エレーヌ!!」


 それは、怒声というのではなく……どちらかといえば悲鳴のような叫びだった。


「……公爵妃、、今回の一件は公には処理をしない。……被害者が存在しないからだ」

「え?」

「妃は、今、自室で菓子を焼いているところだ。……そなたも地下になど足を踏み入れてはおらぬ」


 良いな、と念を押すと、エレーヌ妃は大きく目を見開いて、そして涙を流した。


「……殿下、そんなことをおっしゃらないでくださいませ。私は妃殿下に何てことを……」


 大粒の涙が次から次へと溢れる。


「気にせずともよい。アルティリエは無事だ」

「ですが、殿下……」

「アルティリエの身柄についてはこちらで保護する。老公は、放っている者たちをひかせろ。どうせ彼らはアルティリエの顔も知るまい」


 アルティリエも彼らを知らぬのだ、とナディルはわずかに遠くを見る。


「アルティリエもまた彼らを知るまい。……で、あればそれらにアルティリエを見つけることは不可能だ」

 あの娘はとても用心深いのだ、と小さくわらった。

「捜索はこちらの手の者にやらせる」

「御意」


 侯爵は恭しく頭を下げた。


「アルティリエは頭の良い娘だ。今頃、何とかこちらと連絡をとろうとしていることだろう」

 ふと思いついたようにナディルは付け加えた。

「そうでしょうか?」

 王宮からほとんど出たことのない幼い娘だ、泣かないで過ごしていれば上々の出来だろう。

「安心するといい。アルティリエは、建国祭までに必ず私の元に戻るから」

「殿下……信じておられるのですね?」

 エレーヌ妃が涙を拭った顔で問うた。

「信じてる……というよりは、私は知っているだけだ」

「何を?」

「……あの娘が私を一人にしないことを」


 ナディルの隣に立つ為にはらったルティアの努力のすべてをナディルは知っている。

 昼餐会の献立のために費やした時間や心遣い……決して声高に誇ることのないアルティリエのそのすべて。

 そして、ただ一度きりのほんのわずかな時間の夜会のダンスのためだけに費やされたその努力……それが己のためのものだとわからぬほどナディルはあさはかではないつもりだ。

 ルティアの帰ってくる場所はナディルの腕の中以外にはなく、それは、ナディルにとっても同様だった。 

 それを想ったら不思議と焦る気持ちは消え、笑みさえ浮かべることができた。

(だからといって、犯人を許すつもりはまったくないが……)


「公爵、帰りは西回りで帰ってほしい」

「殿下?」

「案内をつけておく。何かあったら地下へ降りるように」

「……かしこまりました」


 深々と頭を下げた二人に退出を命じて、再び机の前に戻った。 


「……フィル=リン」

 隣室から静かにフィルが出てくる。

「はいよ」

「手筈はいいな」

「おう。ばっちり」

「……ルティアに刃を向けたものは一人も残すな」

「おうって言いたいとこだけど、奴らは、姫さん巻き込んだこと知らないと思うぜ」

「知っていようが、知らなかろうが関係ない。事実がすべてだ」

「へーい。……厳しいこって」

「当然だ。……あれが許しても、私は絶対に許さない」

「りょーかい。……あと、これ」


 小さな紙片を渡される。


「姫さんらしき子供が孤児院に拾われたらしい。いま、確認急がせてる」

「……そうか」


 それを聞いて、いつの間にか握り締めていた拳をゆっくりと開いた。

 無事であればよい、と心の中で祈りを唱え、まだ祈る気持ちのあった己に気づいてナディルは少しだけおかしくなった。



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