17 差し入れ
二人きりで地下への冒険をした日の午後は、私は建国祭の為のガウンの最終チェックだった。
ダーディニアにおいて、もっとも重要な国家行事は建国祭である。
特に今年の場合は、戴冠式も同時に行われるため、ほとんどの貴族が王都に集まっている。
今年の建国祭で花冠ないし帯剣の儀式を行う者は近年で最も多いらしい。
「お似合いですわ、妃殿下」
「そう? ありがとう。……ここの脇のところ、もうちょっと緩めに縫いなおしてくれるかしら」
「かしこまりました」
「妃殿下、総料理長からメニューが届いております」
「ありがとう、そこにおいて」
ガウンの手直しの間にも、やらなければいけないことが積み重なっていく。
(まあ、私のお仕事なんてまだまだ序の口なんですけど)
ナディル殿下に比べればないにも等しい。
ましてやまだ一週間前でたっぷりと時間があるのだ。
「リリア、殿下のもとに差し入れをお届けしたいの。調整してくれる?」
「かしこまりました」
一礼してさがる後ろ姿を見送りながら、仮縫い中のガウンを脱ぐ。
「ミレディ、朝に作ったマフィンとクッキーを持っていくわ」
「では、籠に詰めてまいりますね」
「ありがとう」
(少しでもお会いできると嬉しいのだけど)
朝食を一緒にとる時間がなければ、差し入れをするし、会いたいと思ったらこうして会いに行く算段ができる。
(ここが前との一番大きな違いだよね)
直接会えないことのほうが多いけれど、私は、自分で差し入れに行けるだけでも充分満足だった。
「妃殿下、ご準備が整いました」
「ありがとう」
私は手巾のかけられた籠を持つ。
ふわりと紅茶の優しい香りが漂ってくる。
(マフィンはブルーベリークリームチーズでクッキーは紅茶です)
本当はもうちょっと甘く作ればよかったかなと思わないでもないけれど、殿下は甘さ控えめの方がお好みだからしょうがない。
「では、行ってくるわね」
「お供いたします」
ミレディが私の後ろに付き従う。
「ありがとう。お願いします」
そして私は通いなれた正宮のナディル殿下の執務室へと足を向けた。
「……妃殿下」
おっとりとしたその声に呼び止められたのは。回廊の途中だった。
(エレーヌ様……)
淡いクリーム色のガウン姿のグラーシェス公爵妃は、私の目の前で正式な礼をとって頭を下げた。正式な礼をとられてしまった以上、無視することはできない。
「どうぞお顔をあげてください。……私に何か?」
(間が悪いなぁ……)
早く殿下に差し入れを渡しに行きたいのに、無視して進むことができない。
「お呼び止めして申し訳ございません」
「いえ……」
(何の用だろう……)
殿下ならともかく、私に用がある場合、警戒心が必要になる。
かつてのような危険はもうないとはいえ、それを差しひいたとしても『私』には狙われる理由がてんこ盛りだ。
(……でも、この方は狙われる方で狙う方じゃないな……)
狙われることはあっても、誰かを消したいとか思うような人間では決してない。
「……少しだけ、お時間いただけますか? ほんの五分ほどでよろしいのです」
妃殿下の美しい顔がほんお少しだけ強張る。
(緊張、してるのかな?)
私たちは連れ立って、回廊から庭へと降りた。
花壇はちょうど早春の花がつぼみをつけている。
(建国祭のころに、ちょうど花が咲くかも……)
そうしたら、建国祭の伝承そのものの風景が見られるかもしれない。
「……先日は、申し訳ございませんでした」
少し躊躇っていた公爵妃が口を開いて、深々と頭を下げる。
「え?」
「私がフェリシアの願いを聞いて呼び止めたばかりに……お加減のよろしくない妃殿下に無理をさせてしまいました」
「あ、いえ……」
(何だろう、何か違う……)
昼餐会や夜会で会った時と、空気が違っていた。
「……結婚して、初めて夫に怒られました」
「え?初めてですか?」
「はい。初めてです」
怒られた、と言っているのに、エレーヌ様はどこか嬉しそうににこやかな笑みを見せる。
「妃殿下はおかしく思われるかもしれませんが、私、怒られたのが少しだけ嬉しかったのです」
「怒られたのが、ですか?」
「はい。……あの方は、いつも何も言ってくださいませんので」
「何も、と言うと?」
「文字通り、『何も』ですわ。無口な方なのです」
(いや、無口って……そういうレベルじゃないような??)
「……態度で示してくださるので、大切にされているのはわかっております。それでも、愚かな私は言葉が欲しかった……」
「……あの、ちょっと待ってください。結婚して五十年くらいでらっしゃいましたよね?」
「はい」
「これまで会話がまったくなかったんですか?」
(それ、ちょっと酷くない??)
「会話というか……話しかければ、ああ、とかうんとか返事はして下さいますけれど……あとは、ああしなさいとか、こうしなさい、という指示をされることもあります」
「……それは、会話ではないのでは?」
(会話は、キャッチボールだと思うんです)
エレーヌ様は、困ったような顔をした。
「……そうかもしれません。たぶん、私がうまく話ができないから会話にならないのだと思います」
どこから見ても上品な老婦人は哀しげに目を伏せた。
「幼い頃から、間が悪い、空気を読めない、といつも言われておりましたの」
(ああ、うん。昔からなんですね……)
「皆にあまりにもそう言われるものですから、私、ずっと人と会話をすることを諦めておりました……笑っていればいいと言われていたのです。美しく笑っていればいい、と。でも結婚しましたら、夫がいつも望みを口にするように、と申すものですから……」
でも、私には願いなどなくて……だから、誰かのためになることを望もうと思ったのです。
(ああ、そうか……)
不意に、私は理解した。
昼餐会の時にフェルディス公爵夫妻に感じた……公爵妃に感じた違和感が何だったのか。
(何か知っているような気がしたんだ……)
知っているようで、でも何かが違う気持ち悪さ……。
(あの時、まるで自分みたいだと思ったんだ)
『人形姫』と呼ばれていた自分のようだと。
「……妃殿下? どうかなさいまして?」
「いいえ。何でもないです」
私はゆるりと首を振る。
「エレーヌ様は。公爵のことがお好きなのですね」
何を言っていいかわからなくて、口にしたのはそんなことだった。
その瞬間、人形めいてみえる老婦人は、頬を染めて俯いた。
まるでうら若き少女のような羞恥いに、私にまでその羞恥いがうつりそうだと思う。
「……年寄りを、からかわないでくださいませ」
「からかってなんかいません。ただ、羨ましく思っただけです」
本当です、と念を押す。
「……秘密にしておいて下さい」
か細い声でエレーヌ様は言う。
「え? 公爵をお好きなことをですか?」
「はい」
こくりとうなづいた。
「……あの方はずっと前の奥様をお好きなのです。前の奥様にできなかったことを、私にして下さった。……大事に大事にしていただきました。それで充分なのです」
私の気持ちは迷惑になるだけですから、と寂しい微笑を見せる。
「そんなことはないと思いますけど」
(というか、公爵はエレーヌ様のことをお好きだと思うんですけど……)
それとも、私には見えていないことがあるんだろうか?
(殿下にお聞きしたら、わかるかな?)
たぶん、殿下とグラーシェス公爵はわりとウマが合っている。
(お父様とは別の意味で似ているんですよね、殿下とグラーシェス公爵)
エルゼヴェルト公爵とは同類嫌悪のような感じで互いに嫌い合っているけれど、グラーシェス公爵とは言葉にせずとも通じているようなところがあった。
たぶん。心に刻んでいるものが……彼らを構成する芯の部分の何かが似ているのだ。
ふと顔をあげれば、話しながら建物から少し離れてしまったらしい。
回廊のふちでお供のミレディが手を振っている。
「エレーヌ様、そろそろ戻りましょう」
「……はい」
大人しやかな老婦人はこくりとうなづいた。
(……あれ? エレーヌ様の侍女はどうしたんだろう)
貴婦人は、決して一人では歩き回ったりしない。どこにいくにも必ず女官が侍女がつく。
疑問に思った瞬間、ヒュッという風切り音を聞いた。




