15 いつもの朝食
(私に何ができるんだろう)
それをずっと考えていた。
この世界で生きて行くのだと決意した時から、『私で良いのだろうか』という気持ちが心のどこかにあった。
私がここで生きると言うことは、王太子妃という特別な人間として生きていくということだった。
(あちらでの私は、普通の一般人だったから……)
自分がアルティリエであることを疑う気持ちはなくとも、己に対してネガディブな感情を持たずにいることは難しかった。
失われてしまった記憶……十二歳までのアルティリエ・ルティアーヌ。
エルゼヴェルト公爵令嬢として生まれ、王太子妃として育った特別な少女。
(もう一人の私……)
それは己自身なのだと思いながらも、別個の自分のようにも思える矛盾した存在だった。
(もう取り戻すことのできない、私……)
それでも私はここで生きていかなければいけなくて、だったら、何ができるのだろうと考えた。
引きこもりのようなものではあったけれど、王太子妃としての生活に困らないだけの知識は己の中に最初から在った。
(……身体にしみつくほどの努力)
作法も儀礼も舞踏も……それを記憶としては思い出せずとも、身体がちゃんと覚えていたから、それを自分のものとして再び憶えなおすことは難しくはなかった。
でも、それは記憶を取り戻すこととはまったく違っていた。
いろいろ耳障りのいい言い訳もできるけれど、餌付け作戦をはじめたのは、胃袋を握って己の身の安全を図ることが一番の目的だった。つまりは、保身が目的だったのだ。
でも、本当はそれだけじゃない。
(失われた私じゃない、今の私を認めてもらいたいって気持ちがあったから)
失くしてしまったアルティリエにはなかったもので認められることが、新しい自分を受け入れてもらうのと同じことのように思えたのだ。
(殿下の隣に立ちたい。ふさわしくありたい……)
なのに、そう思うたびに失われた自分のことを考えずにはいられなかった。
失われてしまった記憶による喪失感は、ぽっかりと空いたままで埋まることはない。
この喪失感は誰かにわかってもらえるようなものではなく、たぶん、誰とも分け合うことができない────失ったものの代わりがどこにもないからだ。
目を開いて最初に視界に入ったのは、萌え出ずる緑と春の花々だった。やっと見慣れて来たその景色に、ここが自分の寝台なのだと理解した。
(……夢を見ていた?)
何の夢だったのか、覚えていなかった。
(……あ……)
ただ、哀しみの輪郭だけが胸に残っていて、頬が濡れている。
寝台の上に起き上がると、人の気配がした。
「……妃殿下、お目覚めでございますか?」
「アリス?」
「はい」
失礼いたします、と声をかけてから、アリスが入ってくる。
「御熱は下がりましたか?」
「……どうかしら、まだ少しぼーっとしてるけど」
「お医者様を呼んでまいりますね」
「はい」
大げさだと思うのだけれど、でも、仕方がない。
(王太子妃なのだもの)
自分の立場はちゃんとわかっているから、口は閉じておく。
(あれから、どうなったのかしら)
どのくらい時間がたったのかまったくわからなかった。
「失礼いたします。妃殿下、ご気分はいかがですか?」
「リリア。……少しぼーっとしているけど、もう平気」
「ご無理をなさらないでくださいませ。……殿下に抱き上げられてお戻りになられた時は、一瞬、息が止まりました」
「ごめんなさい。退出の時に呼び止められてしまって……」
「事情は存じております」
リリアはエレーヌ様にも困ったものです、とため息を一つつく。
「……どうして公爵妃なの?」
私が迷惑をかけられたと思うのはローデリア侯爵令嬢なのだけれど。
「エレーヌ様が呼び止めなければ、妃殿下の具合があそこまで悪化することもなかったでしょう」
「……そうですね」
もし、最初に呼び止めたのが公爵令嬢だったら、殿下はたぶん足を止めなかった。
公爵夫人だからこそ話に耳を傾けたのだ。
「妃殿下ご自身は悪い御方ではないのですが……」
「そうね。……でも、そのせいで利用されてしまうのね」
「はい。……疑うと言うことをご存知ないのでは、と思うくらいです」
それだけよく利用されていても、それでも気づかないというのが不思議だった。
「それで? 夜会の夜からどのくらい時間がたったのかしら?」
「妃殿下は、丸二日ほど寝込んでおられました。今はあれから三日目の夕刻です。おなかが減ったのではありませんか?」
そう言われると急におなかが減ってくる。
「……そうね。軽食をお願い。急に食べると胃が驚くかもしれないから、消化に良いものを」
「妃殿下のお好きな玉子雑炊をお持ちしましょう」
「ありがとう」
「どうぞ、できあがるまでもう一度お休みください」
「あんまり寝てばかりだと、身体が鈍ってしまうわ」
「まだ、お顔の色がよくありませんから……。おみ足はいかがです? 傷みませんか?」
「今は大丈夫みたい」
そっと毛布の中を覗き込む。
つま先にガーゼがあてられているところを見ると、マメか何かができてしまったのかもしれない。
「眠らなくてもいいので、横になってください」
「……わかりました」
そこまで言われてしまうと、まだ起きて居たいという我儘は言えない。
成人して久しい記憶があるから、子供の駄々こねみたいなことには恥ずかしさを覚えるのだ。
「……ねえ、リリア。夜会の後、どうなったのかわかる?」
「ローデリア侯爵令嬢の処分でございますか?」
「あー、それも含めて諸々」
「とりあえず、ローデリア侯爵令嬢は領地に送られました。今後は自領の教会で修道生活を送ることになるようです」
「……教会に?」
「はい。厳しい戒律で自らをしっかりと律するように、というのが、グラーシェス公爵の命令だそうです。反省するまで出てこれないそうです」
「……反省ね」
ちゃんと反省できればいいけど、と思いながら、再び、私の意識は眠りの渦へと落ちていった。
結局、私が本調子に戻ったのは、夜会のあった夜から十日が過ぎてからだ。
「おはようございます、ナディル様」
「おはよう、ルティア」
十日ぶりの朝食の席だった。もちろん、殿下とお会いするのも十日ぶりになる。
テーブルの上には、バターがふうわりと香るプレーンなオムレツに、最近やっと満足のいく出来になりつつあるさっくさくのクロワッサン、それから、ゆでたてで湯気を立てているソーセージが並ぶ。
(素晴らしいわ)
私が何も言わずとも、温かいものは温かいうちに出す工夫をしているし、そっと触れた皿も温めてあった。
「殿下、お見舞い、ありがとうございました」
「いや……」
何度かお見舞いのお花やカードをもらったのだけれど、ご本人は忙しくてずっと来れなかった。
「ご心配をおかけいたしました」
「もういいのか?」
「はい。お医者様ももう大丈夫だと言ってくださいました」
心配性の過保護人間ばかりなことがわかっているので、お医者様を味方につけておかないとずっと寝台から出してもらえない。
殿下はこつん、と私の額にご自身の額をあてる。
「……確かに熱は下がったようだ」
「はい。正直、寝すぎなくらいです」
驚くほどの近さでナディル殿下の蒼の瞳をのぞいていた。
ドキッと鼓動が一つ大きく高鳴る。
「ならば、良い」
お医者様の報告は殿下のところにも行っているはずなのにと思う反面、こんな他愛のないスキンシップがすごく嬉しかったりする。
「……もう大丈夫なようだから、これから、少し散歩はどうか」
「はい。嬉しいです」
反射的にうなづいた。そして、じんわりと喜びが身体にしみて行く。
(もしかして、これって、デートかな?)
「お仕事は大丈夫ですか?」
「ああ、大丈夫だ。今は特に問題を抱えているわけではないから」
ナディル殿下の表情がとても柔らかいように思えた。
(……何だろう。殿下をまっすぐ見るのが恥ずかしい気がする)
さっきから、胸の鼓動が高鳴りっぱなしで心臓に悪い。
(意識しすぎだよ……)
おかげで、せっかく久しぶりの固形物の朝食だったのに、味がよくわからないまま食べ終わってしまった。




