閑話 執政官と王太子
僕が一週間ぶりにその執務室を訪れたとき、そこは常ならぬ喧騒の中にあった。
「いったい、何がどうなっているのか説明してくれないか」
この部屋の主が、柔らかな笑みを浮かべてぐるりと皆を見回していた。
笑ってはいたけれど、その眼差しは絶対零度の刃を纏っている。
そんな表情をみるたびに、お優しい王太子殿下という評判にケチをつけたくなるのはきっと僕だけではあるまい。
(いったい誰がこいつを優しく慈悲深いだなんて言ったのか……)
ダーディエ王家特有の銀髪と冷ややかな蒼銀の瞳を持つ青年は、目の前で更に笑みを重ねる。
我が主にして王太子 ナディル=エセルバート=ディア=ディール=ヴィル=ダーディエ。
その容貌は、大変に麗しい。
王家の人々というのは美形の血を代々重ねてきているせいか、大変に美しい容姿を持つ。その中でもこいつはとびっきりだ。
「レイ」
ナディルの唇が僕の名を刻む。
レイモンド=ウェルス=イル=ラーダ=リストレーデというのが僕のフルネームだ。
身分としては王太子殿下たるナディルの執政官の一人。
名を呼ばれた瞬間、切りつけられたような痛みを覚えるのは、僕が彼の求める答えをもたないからだ。
「申し訳ありません、殿下。この一週間、予算編成の調整で篭りっきりだったので、何がどうなっているか僕にもわかりません」
「……まだ終わっていなかったのか?」
冷ややかさが二割ほど増量した。
「ちょっと合わない数字がありまして」
プラス三割増量。あわせると1.5倍。これ以上、増量するとヤバいので僕は引き攣り笑いを浮かべて言った。
「大丈夫です。原因は突き止めたので」
「……それで?」
どうするつもりなのか、と言外に問われる。
「あー、返済プラス慰謝料吐き出させて、弱みを握ったとこで馬車馬のようにコキ使おうと思っているので殿下は見ないフリをしていていただけますでしょうか」
僕の言葉に他の同僚たちがドン退いた表情を浮かべているけれど、そんなにおかしいことだろうか?
「……わかった」
ナディルはほんの少しだけ考え込んだが、すぐに頷いた。
たぶん、誰が予算をチョロまかしていたのか思い当たったのだろうし、僕の案にも賛成ということだろう。
処分するのは簡単だが、悪いことをするやつに限って有能なのが始末に終えない。
僕は再利用推奨派なので、一回は大目にみる決断を下すことが多い。
「ところで、いったい何があったんですか?」
僕の問いに、その場はシンと静まり返った。
「え?」
そのどこか緊迫した空気に、問うたこちらのほうが戸惑った。
だが、誰もがどう答えて言いかわからない様子のまま固まっている。
口を開いたのは、ナディルだった。
「妃が、襲われたらしい」
「は?」
思わず唖然とした。
王太子妃は、エルゼヴェルト公爵姫アルティリエ殿下だ。
主に、その生まれと血筋により、誰よりも篤い守護を受けている国家の要人の一人だ。
生まれたときから、王家の預かりとなることが決められ、公爵令嬢でありながら姫殿下の敬称で呼ばれ、一歳になる前にナディルの妻となった。
現在十二歳。
人形姫の異名で呼ばれるほど無口で物静かな姫君だ。
無口とはだいぶ遠慮した言い方で、はっきり言えばちょっと言語障害を疑いたくなるくらいにしゃべらない。
まあ、おしゃべりでうるさいくらいなら、しゃべらないほうがよいとナディルは思っていそうだ。
「城の三階から湖に突き落とされたそうで、しばらく意識不明だったそうだ」
「当たり前だろう。冬だぞ!あのあたりはそろそろ湖に氷の張るころだ」
「ああ。幸いなことに、酔狂なあの家の子供がボート遊びをするため周辺の氷をあらかじめ割ってあったそうだ」
子供とは言うが、年齢は僕らと大差なかったはずだ。
「だから、ケガらしいケガはなかったようだ」
ナディルは静かな口調で言ったが、僕の背筋を冷たい汗が流れた。
澄ました顔をしているが、ナディルも相当焦ったに違いないし、苛立ってもいる。
(その証拠に、さっきからずっと手を握り締めている)
表情には余裕はあるが、たぶん、それは取り繕うのがうまいだけだ。
この国で最も失えない人間は、国王陛下でもナディルでもない。
王太子妃であり、エルゼヴェルト公爵家の唯一の嫡子であるアルティリエ殿下だ。
王になれる直系の血は他にもあるが、エルゼヴェルトの正統の血を正しく引くのは彼女しかいないのだ。
「……なんで?」
「なぜとは、こっちが聞きたい。影供も含めれば、50人以上つけたのだぞ?それでも裏をかかれた」
表だっての護衛だってシュターゼン伯爵以下、腕の立つものを厳選していたのだ。
「……っていうか、生きているんだな?」
「ああ。……目が覚めたという知らせも来たのだが、どうもはっきりしない。情報が錯綜していて埒があかないのでフィルをエルゼヴェルトにやった」
フィル=リン……フルネームが覚えられないほどに長い同僚の一人だ。感覚としては同僚と言うよりは幼馴染という感覚のほうが強い。
身分にさほど重きをおいていなかった幼少時の学友たちの中で、今も残っているのは僕とフィル=リンと、リウス子爵セレニウス=ファドルだけだ。
当初、ナディルには王太子になる未来などなかった。王太子どころか、王子と呼ばれる未来もなかったのだ。
ナディルはただの王族公爵として、王族の末席に座り、大学に籍をおいて好きな研究を思う存分するはずだった。
(けれど、運命はナディルを放っておかなかった)
まず、ナディルの父君である陛下が立太子し、ナディルが嫡長子の第一王子と定められ、陛下が即位するのと同時にナディルは立太子した。
王太子殿下の側近には、王族公爵の側近などとは比べ物にならない高い能力が求められる。
僕らはそのボーダーをかろうじてクリアしたからこそ、ここにいることが許されている。
だから僕は、フィルとセレニウスには、他の側近たちとは違うほのかな絆というか情みたいなものがある。
たぶん、あの二人もそうだろう。他の皆にはわからない苦労と幾つかの思い出が僕らを結び付けている。
そして、その絆の輪にはもちろん、ナディルも入っていた。
もう面と向かって名を呼ぶことはないけれど、心の中ではいつもナディルというその名で呼んでいるのは、たぶん、その名残だった。
『王家の血が生んだ最高の天才』
幼少時から、ナディルはずっとそう言われ続けてきた。
そして、この大変外面がよい男には、有形無形にかけられるさまざまな人々の期待を裏切らないだけの能力があったのだ。
優しく慈悲深く、聡明で武にも優れ……と、およそ考えうる限りの最高の褒め言葉をあふれんばかりに捧げられ、それを裏切ったことがない完全無欠の王太子殿下。
政務を嫌う国王陛下の代理として、この国を実質治めているに等しいわが国の最高権力者であるが、たった一つの弱みが妃殿下だ。
良好な関係とは言いがたいが、さりとて、険悪というわけでもない。いかんせん、年齢が違いすぎるためにこれといって何があるというわけでもないというのが今の王太子夫妻の関係だ。
政略結婚というのは多少の無理があっても成立するものだが、まだたった十二歳の少女を妻に思えというのが無理がある。ナディルは幼女趣味でも何でもないのだ。
(なんたってナディルが忙しすぎるんだよな)
そのために互いに歩み寄るための時間もとれていないのが現状だ。このままではいけないと思いつつ、ついついおざなりにしていた矢先の、今である。
「……もし、この王都に帰還するようだという連絡が本当なら行き違う可能性があるな」
セレニウスが影供からのものらしいメモ片を手に眉を顰める。
妃殿下の一行が帰還するなら公用路を使うだろうが、フィルはきっと最も早い道を行くだろう。諸事情により、僕らは地図に載っていない間道を熟知している。もちろん、フィルもだ。
「フィルが行き違っても別に構わない。どうせ、エルゼヴェルトで今回の件を調べなければいけないんだ。それはそれでちょうどいい」
フィル=リンが間違っても手ぶらで帰ってきませんように、と僕は軽く祈っておいた。フィルのことだから大丈夫だとは思うのだが、あいつは時々ひどいポカをやるので気を抜けない。
「姫君が無事なのは確かなのでしょうか?誤報ということはないですよね?」
メモ片やら文やら公用の急報やらを一つ一つ丁寧に読み、セレニウスと共につきあわせながら、王太子の筆頭秘書官であるラーダ子爵カトラス=ジェルディアが不安げな表情でこぼす。
「まあ、複数から同じ連絡が入っているからおそらくは間違いではあるまい。ただな……」
珍しくナディルの歯切れがわるい。
「ケガでもしたのか?容態は?」
「幸いにもケガらしいケガはないようだが……記憶がないらしい。これも不確定情報だが」
「……へえ」
「とりあえず、戻ったら、当分、宮から出す気はない」
ナディルはきっぱりと言う。
当初、本宮の奥宮で暮らしていた妃殿下だったが、去年だったか一昨年だったかにナディルの住む西宮にひきとられた。
こうやってはっきりと言うからには、妃殿下は当分軟禁状態に違いない。
「一応、医師の手配をしておこう」
セレニウスの表情は険しい。ナディル本人よりもよほど妃殿下を案じているかもしれない。
「いや、それはこちらで手配した」
「宮廷医師か?」
「いや。大学の方から手を回した」
歴史と法学の分野では卒業したがナディルは未だに大学に籍を置いたままだ。
入学時から天才と名高く、幾つかの分野で他者の追随を許さぬ結果を出していて教授陣から一目も二目も置かれているため、いろいろと顔がきく。
「宮廷医師でないと、診察させるまでが大変だぞ?」
「アレらは年寄りぞろいだから、診察に不安がある。……手間なのは今回だけだ。今回の功績をもって、妃と私の専属医として宮廷医師に任ずる予定だ」
宮廷医師というのは、医師としての名声があるだけではなれない。
ある意味、王族の生死に関わることもあるために、技術はもとより、信頼できるか否かが問題になる。
自身の身分や履歴はおろか、三代まで遡ってありとあらゆることを調査されるそうで、ここ何代かは幾つかの家系が独占する特別な職能となりつつある。
「本宮から文句がでるぞ」
「構わない」
きっとこれを機に宮廷医師の人事を一新するつもりなのだろう。
(まあ、本宮の医師たちが信頼できるかっていうと怪しいからな)
この王宮では時折、毒の絡んだ事件がおこる。
そして、妃殿下の周囲には毒で亡くなった者が何名かいる。
「記憶が戻ればそれを功績にすればいいが、まあ、無理だろうから、そのあたりは後で考えるさ」
「……何諦めてんの?」
思わず素で突っ込んでしまった。
「別に諦めてなどいないが?」
「いやいやいや、記憶喪失そのまま放置?」
「……あれは、忘れたかったんだろう。ならば、忘れさせてやるのも優しさのうちだ」
妃殿下がこれまでを忘れたかったから、忘れてしまったのだと言わんばかりのナディルに再び突っ込んだ。
「けど、記憶がないんだぞ?何かいろいろあるだろう?おまえのことも覚えてないかもしれないんだぞ?」
「記憶があろうがなかろうが、あまり関係が変わるとは思えないが?」
一瞬、言葉につまった。正直、その通りだと思わず賛同しかけた。
「……過去をなかったことにはできないだろう、ナディル」
「当然だ。……でもね、レイ、あの子は私の妃であることからは何をどうしても逃げられない。ならば、忘れたいことくらい忘れさせたままでいさせてやればいいと思うのだ」
「お優しいことで」
「……本当に優しいのなら、遊びたい盛りの十二歳の少女を籠の鳥にはしないよ」
ナディルは苦笑した。
「……とりあえず、今回、一行に付き添わせたサリア子爵は次からはずす。まともに報告も送ってこないんじゃあつきそわせた意味がない」
「確かに」
サリア子爵は、今回の妃殿下が葬礼に参加するための一行に、道中差配としてナディルが派遣した文官の一人だ。
何をしているのか知らないが、こんなにもやきもきさせられるのだから、あまり役立っているとは言えない。
「まあ、王都に戻る日時くらいは知らせてくるだろう。道中差配なんだから」
「そうだな」
妃殿下が王都に戻られるのにあわせて手配しなければいけないことを、僕は頭の片隅に書き記す。
僕は元より、さすがのナディルも、よもや派遣したサリア子爵があまりにも役にたっていなくて道中差配をするどころかそれ以前の問題で、あちらの侍女たちに名前すら覚えてもらえず空気と化していたことなど知る由もなかった。




