表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

99/178

99.夏の終わりの甘い囁き


「あははははー! 夕焼けの砂浜を走るのって楽しいですね!」


「ちょ、待ってくれ紫条院さん! その状態で走るのはマズいって!」


 視界の全てが暮れる夕日に照らされている中で、俺はハイになって砂浜を爆走する紫条院さんを追いかけていた。


 少女の走るスピードは決して早くないのだが、酔って疲労感が麻痺しているのか、さっきからペースが衰えず……結果としてバーベキューをやっていた地点からかなり離れてしまっていた。


(酔っていてもあれだけ動ける活力がまさに高校生って感じだな……! だからこそメチャクチャ危なっかしい!)


 行動が予想できない子どもを追う親のハラハラ感を体験しつつ、アルコールによって自由になりすぎている少女を追うべく俺はさらにスピードを上げる。


「あれぇ……? なんだかだんだん足が重く……」


 ようやく体力が尽きたのか、紫条院さんの足が鈍って止まる。

 砂浜に立ち尽くす純白ブラウスの少女に、俺はしめたとばかりに追いついて手を伸ばし――勝手にどこか行ってしまわないように、細い肩をしっかりと掴む。


「はぁ……はぁ……やっと捕まえた……」


「ふふー……捕まえられてしまいましゅた……」


 俺が息を切らして追いかけっこの終わりを告げると、紫条院さんは何故かとても満足気な顔でにへーっと笑顔を浮かべた。

 捕まえられた事に対して酔った思考が不満を見せるかとも思ったが、不思議な事に若干嬉しそうですらある。


「ふぅ、大丈夫か紫条院さん? 気分が悪かったり足が痛かったりしないか?」


 酔った状態でガッツリ走ってしまったので、急速に体調不良になってもおかしくない。俺は飲み会で飲み慣れない新人が顔を真っ青にするのを何度も目の当たりにしてきただけに、その辺が真っ先に心配になる。


「むー……新浜君はいっつもそんなふーです……」


「へ……?」


 振り返って俺と向き直った紫条院さんは、何故かぷーっと頬を膨らませ、目を細めた視線をこちらへ向けてきた。


 な、何だ? 俺は今何かおかしい事を言ったか?


「この場面でぇ……もし相手が美月さんや筆橋さんだったりゃ、新浜君は絶対に『勝手に爆走するなっての!』とか『何で俺は浜辺を走らされているんだよ!?』みたいな事を言ってるはずでしゅ! なのに! どーして私にはそんなに紳士的な言い方なんですかー! なんだかとっても他人行儀ですー!」


「え、ええ!? い、いやだってそれは……」


 プンプンと可愛い怒りを受け止めながら、俺は言葉に詰まる。

 確かに風見原や筆橋相手ならそんな対応になるだろうけど……。


「仲良くなってしばらく経つのに、私だけがいつまでも距離を置かれちゃってます! ひーきです! 壁どころかお城を作っちゃってましゅー!」


 精神年齢が小学生くらいになった紫条院さんが、両腕をブンブンと振りながらハイな様子で不満を叫ぶ。

 そして、予想もしなかった糾弾に俺はただオロオロと狼狽えるしかない。


(た、確かに紫条院さんに接する時は、嫌われたくない一心からどうしてもお姫様に接するみたいな態度にはなっていたけど! むしろ友達になれたのにいつまでも素っ気なさすぎると思われていたのか!?)


 紫条院さんが心のどこかで思っていたらしき本音に、俺はどうしてよいかわからず言葉に詰まった。

 これまでの事で友達と言えるほどに仲良くなれたのに、いつまでも一歩引いた態度をとり続けていて素っ気ないと言われたら、正直何も返せる言葉がない。


「……でも、私も悪いんです……」


「え……」


 そしてそんな俺を見て、未だに夢の中にいるようなトランス状態の紫条院さんは、唐突にテンションを下げてしおらしく反省の言葉を口にした。


「新浜君に文句をつけちゃいましたけどぉ……考えてみたら私も友達として仲良くなるために重要な事をやっていましぇんでしたぁ……。美月さんや舞さんと友達になった時に教わったのに、ダメダメですー……」


「ちょ、し、紫条院さん!? なんでそんなに顔を寄せてくるんだ!?」


 ほやほやと夢を見ているような面持ちのまま、紫条院さんは突然俺の顔に自分の顔を近づけてきた。

 意図がわからずに俺が慌てふためく中、ワンピース少女はピンク色の形のいい唇が俺の左耳へ近づけ、耳打ちをするような体勢になる。


(な、何をしたいんだ!? 酔いで心の動きが無軌道になっているからいつにも増して行動が読めない……!)


 バーベキュー前のシャワーで使ったらしきシャンプーの香りが俺の鼻孔をくすぐり、胸の中がかあっと熱くなる。

 そして、そんな俺の混乱と赤面を知ってか知らずか、紫条院さんはさらに俺の耳へと口を近づけて――


()()()()……」


「っっ!?」


 しっとりとした囁きが、俺の耳朶に染みる。

 たったその一言で耳が甘く痺れて、全身に雷が落ちたような衝撃が走った。


「……心一郎君……心一郎君……」


「ひゅっ……ふわぁっ……!」


 切なげに、耳にかかる吐息と共に囁かれる俺の名前。

 鼓膜に届く情報はただそれだけの事なのに、紫条院さんが口を開くごとに俺の心臓は何度も跳ね上がり、脳の奥まで甘い酩酊が浸透していく。


 今まで、この少女の美しさに圧倒されることも、天真爛漫な笑顔に心奪われることも多々あった。

 だが、この感覚はそのどれとも違う未知の体験を俺にもたらしている。

 まるで甘美で度数の強い酒に溺れていくように、囁きが蜜になって俺の内面の全てを蕩かしていくのだ。


「ふふー……どうでしゅか心一郎君……やっぱり名前呼びこそより親しい友達への第一歩ですよー! どのライトノベルにもそう書いてありましたし!」


 俺の耳から顔を離した紫条院さんが、ぽやぽやとした様子で言う。

 自分が今行った行為に恥ずかしさは感じていないようで、ふわふわした幸せそうな面持ちで無邪気な笑顔を見せる。


 そして、俺はと言えば頭から湯気が出そうな状態であり、顔を真っ赤にして声も出せない。紫条院さんの吐息と名前呼びという未知の美酒に腰砕けになっており、甘い酩酊感がまだ全身に色濃く残っていた。


(な、なんつうヤバさだ……脳に直接蜂蜜をかけられているみたいに思考が蕩けたぞ……!)


 一応、紫条院さんが先日ウチで泊まった時にも、母さんと話す時は『心一郎君』と呼んではいた。だがあれはあくまで新浜家において呼び分けのために口にしたことであり、親愛のステップを踏むために囁かれたこの状況とは、その破壊力も意味もまるで異なる。


「さあ、それじゃ今度は新浜君の番ですよー!」


「えっ!?」


 ニコニコの笑顔とキラキラした瞳で、紫条院さんは俺を見つめていた。

 その無邪気な視線が求めているものは当然ながら察しがついたし、このワクワクした面持ちの少女の期待に応えない限り、この場は収まらないことも理解していた。


 だが――


(い、いくら何でも心の準備が出来てないって! 全く自慢にならないけど、家族以外の女性を名字以外で呼ぶなんて、前世ではただの一度もなかった事なんだぞ!?)


 それが正直な想いではあったが――だが同時に何らかの試練とは、時を選ばずにやってくるという事は前世で骨身に染みていた。


 突如襲来するデスマーチ、前触れのないパソコンの全データ消失、営業が勝手に取ってきた物理的に無理なスケジュールの納期案件……いつだって状況は俺の心の準備なんて待っちゃくれないものなのだ。


「あ、その、ええと……は、は……」


 何かの勢いで言えればもう少し難易度が低かったのだろうが、こうして意中の少女から期待に満ちた瞳で見られている中では、羞恥心が口を固くする。


 けれど――これは遅かれ早かれ俺にとって必要な事だという事は間違いなかった。

 これからも目の前の少女と絆を深めて行きたいと願うならば、俺は今日もまた一つ殻を破らなければいけない。

 

 そうやって少しずつ前に進んでいく事こそが、前世の俺に出来なかった一番重要なことなのだと、俺はもう知っているのだから。


「……()()……」


「ひゃっ……!?」


 麗しのお姫様を呼び捨てにするような謎の罪悪感と共に、俺は震えながらその三文字を口にする。頭のてっぺんまで羞恥の熱に染まるが、同時に何かを明確に踏み出せたという、自分を誇るような感覚もあった。


「……って、大丈夫か? なんか一気に酔いが回ってないか?」


 ふと渚に立つ美少女の顔を見ると、強いインパクトを受けたように目が開き、何故か樽酒を飲み干したかのように真っ赤になっていた。

 これは……浜辺を走って酔いが相当に回ってしまったのか?

 

「ふ、ふふふふ……ちょ、ちょっと……いえ、かなり心が大騒ぎしている気もしますが平気です……! このふわふわした気分が晴れたらベッドの上でのたうち回りそうな予感も多分錯覚ですから! 大丈夫と言ったら大丈夫なんです……!」


 全然大丈夫じゃない事を言いつつ、心に荒波が押し寄せた時に俺がそうするように、紫条院さんは胸に手を当てて呼吸を整えていた。

 少なくとも、傍目には全然平静には見えない。


 まあ、それはともかく――


「ええと……今まで遠慮しすぎて友達っぽくない対応になっていたんなら、その……悪かった」


「え……」


 客観的に考えてみれば、風見原や筆橋には男友達と接するようにざっくばらんに話しているのに、紫条院さんだけを恭しく扱っていた状況は、確かに他人行儀と言われても仕方がないだろう。


 逆に、紫条院さんが他の友達と普段のお嬢様口調を取っ払って気安く喋っていたら、俺も疎外感や寂しさを感じるかもしれない。


「いきなりは無理だけど……これからはもうちょっと気安く喋るように努力するよ。だからその……機嫌を直して欲しいんだが……」


「ふふふー……機嫌なんてここ最近はいつも最高ですよー……でも……」


 ふらふらした様子の紫条院さんにどれほど届くのかは不明だが、俺は思うままに言葉を投げかける。そして、それに対して紫条院さんは、にへーっと普段よりもさらに砕けた笑みを見せる。


「でも……たまにはさっきみたいに気を許して名前を呼んでくれると嬉しいです。……ね? 『心一郎』君……」


「あ、う……し、紫条院さ……あ、いや……『春華』」


「ふふー……いいものですねこれ……」


 嬉しさを噛みしめるような笑顔で呟きながら、紫条院さんが俺に歩み寄る。

 暮れなずむ夕焼けの中で、意中の少女のふわふわとした笑みはなお眩しい。


「新浜君と話すようになってから……いつも楽しくて……怖いことがどんどん少なくなっていって……」


 とろんとした瞳が揺れて、紫条院さんの身体が傾ぐ。

 今日一日遊び倒した疲労と酩酊によって、少女の身体をふらつかせて前のめりに体勢が崩れる。


(っと、危ない……!)


 しなだれかかるように俺へと倒れ込む紫条院さんを、俺は肩を掴んで受け止める。

 少女はもはや本当に意識がぼんやりとしているようで、立っていられなくなった自分の状態を鑑みることなく、夢見るような面持ちで意識の薄い言葉を紡ぐ。


「いつだって……新浜君は……『嬉しい』をいっぱいくれて……」


 潮騒が響く中、意識を手放しつつある紫条院さんは無邪気に微笑んだ。

 夕焼けによって紅蓮が満たされた世界で、俺はその純真な言葉と感情の表われに目を奪われる。


「……一緒にいられて……とても……幸せです……」


 その言葉を最後に、支えている紫条院さんの身体が完全に脱力して静かな寝息を立て始める。だが、前世で酔い潰れた人間を何人も介抱してきた俺にとってそれは予想の範疇であり、地面に崩れ落ちる前にその身体を支えてゆっくりと浜辺に寝かせる。


(ああもう……なんて無防備な寝顔だ……)


 またしても少女の背や肩に手を回してしまった感触と事実に頬を染めつつ、俺は自分のパーカーを脱いで紫条院さんの髪と砂の間にそれを敷いた。

 

 体力を全部使い果たして眠りに落ちた少女は、心行くまで遊び尽くした子どもそのままの、満ち足りた様子の微笑みを浮かべていた。


「……いい夏だったな紫条院さん」


 さきほど初めて名前を呼んだばかりだったが、クセと気恥ずかしさからいつも通りの呼び方を口にする。


 前世では想像することすらできなかった海行きは、かつて得られなかった眩しい青春の思い出を俺にもたらしてくれた。

 勇気出して誘ってみて、少しでも前に進もうとして、本当に良かったと心から思う。


 まあ、それはいいのだが……。


「…………あれ? もしかしてこの状況って……」


 皆の所へ戻ろうとして、ふと気付く。

 

 すうすうと寝息を立てる紫条院さんは当然ながら動けないし、夏季崎さんも酔っ払い三人の面倒を見ていてあの場から動けないだろう。


 となれば――


「もしかして……俺が紫条院さんをおんぶして運ぶ必要があるのか……!?」


 その事実に気付き、俺は砂浜の上で滑稽なほど慌て――しかしそれ以外の方法はついぞ考えつかず、最後の決心を固めるまでに多大な時間を要したのだった。

【読者の皆様へ】

 「陰リベ」1巻のカバーイラストが公開されました!

 活動報告により詳しい内容を書きましたので、このページの一番下付近にある「作者マイページ」から見てやってください。

 発売日は2月1日になります! よろしくお願いします!

挿絵(By みてみん)

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
[良い点] おやー? 紫条院さんさん、酔って回ってなかった呂律が名前呼びされた所から普通になってるぞぉ? (ニヤニヤ さぁ新浜くん、がんばって紫条院さんをおんぶするんだ! あー、これが私服に着替える…
[一言] 文句無しに優勝 某UCBGMが流れてますわ
[良い点] なんでこれで付き合ってないのか今世紀最大の謎であるw
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ