69.おかえり!トラップできてるよ!
俺は新浜心一郎。
過去に戻って青春をやり直している元社畜の高校二年生だ。
「ああもう、ひっどい雨だなおい……!」
俺は自宅の玄関で傘を閉じつつ、突然の大雨への愚痴をこぼした。
天気予報で快晴から突然天気が崩れるとは聞いていたが、予想より雨量が大分強い。今日は図書館で本を読んでいただけだったんだが……もうちょっと早く帰っておけば良かった。
「うー……傘はさしてたけど結構濡れたな……」
水しぶきを吸って重たくなってしまったズボンや、濡れてひんやりとしたシャツの袖がかなり気持ち悪い。
こりゃ流石に着替えないとなー、などと考えながら玄関の敷居を跨ぐ。
三人家族だが、玄関に並ぶ10個近い靴のほとんどが香奈子と母さんのものだ。
そして俺は二人がどんな靴を持っているかなんて把握しているはずもなく――その中に家族以外のものが紛れ込んでいるなんて、この時はまるで気付かなかった。
(ん……台所から物音がするってことは……香奈子は帰ってきたんだな)
何やらドタバタしていると思ったら、「ギャー!? お、お茶っ葉がめっちゃ湯飲みに入ったー!?」と珍しいことに自分でお茶を淹れようと悪戦苦闘している様子だった。相変わらず家庭的な女子力は低い奴だ。
(女子と言えば……紫条院さんの女子会は昨日だったか。いいなあ、俺も紫条院さんに会いたい……でもそのための口実がなあ……)
メールでのやり取りはしているものの、夏休みであるため最近は直接会っていない。正直、とても彼女の姿が恋しい。
この時代じゃテレビ電話もそう気軽にできるもんじゃないし……。
「……会いたいな……」
呟きながら、俺はごく当たり前に洗面所へ足を向けた。
雨に降られて身体のあちこちが濡れており、服を洗濯機に入れなきゃいけないし、タオルも欲しい。本当に当然の行動だ。
洗面所に明かりが点いているのは気付いていた。
だが香奈子は台所におり、車庫に車が戻っていないので母さんがまだ帰っていないのも明白だ。だから、それを単なる電灯の消し忘れだと思った俺に何の罪があろう?
そうして、俺は洗面所の引き戸を開けた。
何の気負いもなく、思いっきりガラッと。
そして――
「ひゃ……っ!?」
「――――――――」
いるはずのない存在を視認し、聞こえるはずのない声が鼓膜に響く。
それにより俺の頭のヒューズが飛んで、思考が一時シャットダウンした。
二秒後に再起動した脳に浮かんだのは、幻覚、妄想、白昼夢という現実誤認に連なるワードだった。彼女がこんなところにいるわけがなく、これは俺の浅ましい願望が見せる虚像だという平和な結論を見いだそうとしたのだ。
……現実逃避が出来たのはそこまでだ。
無慈悲なことに脳は正気を取り戻し、俺にこれが現実だと告げてくる。
俺の憧れの少女――紫条院春華が素肌を晒した状態で自宅の洗面所に立っているのだと。
(は、え、な、ふぁ……!? な、何だ!? わけがわからんってレベルじゃない……! 何がどうなって……どこがどうバグったらこうなる!?)
いや、だっておかしいだろう。
いつものように家に帰宅したら紫条院さんがウチの洗面所に立っていて、肌着の上に前のボタンが全開になった俺のシャツを着ているのだ。
現実にこんな理屈抜きの超展開があり得るのなら、ある日いきなりターミネーターが居間でお茶を啜ってた、なんてこともアリになってしまう。
「に、ににに、新浜君……!? あ、あ、ああああああ! ち、違うんです! このシャツはやむなくお借りしただけで、私に匂いを楽しむような倒錯的な趣味があるわけじゃ……!」
紫条院さんは口元に近づけていた腕をがばっと下ろし、本来悲鳴を上げるべきだろうに、何故か顔を真っ赤にしつつよくわからない理由で狼狽していた。
「し、信じてください……! このまま特殊な嗜好の女の子だと思われたら生きていけませんー!」
「ちょ、紫条院さん! 前! 前ぇー!」
涙目になって何ごとかを訴え、紫条院さんはどんどん俺に近づいてくる。
だがその格好が前のボタンを留めていないシャツ一枚という有様で、ほぼ下着姿である少女の身体がどんどん俺の視界に迫ってくる。
ピンクのブラに包まれた巨大な二つの果実、普段秘されているスカートの中のショーツ、白く引き締まったウエストと扇情的なおへそ――俺の中にある男子の本能が本来拝むことができないその肢体に釘付けになる。
「か、格好! 自分の格好を思い出してくれ! ほとんど裸だぞ!」
「え……あ、ひゃあああああああ!? す、すいません……!」
ようやく自分の露出度を自覚したようで、紫条院さんは気の毒なほど顔を朱に染めて、手でシャツを閉じてそのまましゃがみこむ。
とりあえず俺の精神的容量がパンクする事態はギリギリ避けられたが――
いや、けど……本当に何なんだこの状況!?
そもそも何で紫条院さんが俺の家にいて半裸になってるんだ!?
「兄貴……」
「か、香奈子!? いや、これは違……っ!」
騒ぎを聞きつけて駆けつけたらしき妹が、ジト目で俺を見ていた。
いや待て……! 確かに紫条院さんの下着姿を見た罪は認めるけど、これで軽蔑するのはちょっと酷いだろ!?
「いや、まあわかってるんだけどね……」
ふーっとため息をついて香奈子が呟く。
「え?」
「フツー雨に降られて帰ってきたら洗面所行くし、ママはたまに新しい靴を買ってくるからママと同じくらいのサイズの紫条院さんの靴に気付けっていうのもちょっとキツいと思う。そもそも、お茶を淹れるのに集中してて、兄貴が帰ってきたことに気づけなかった私が一番悪いし」
「お、おお……!」
ラブコメだと例外なくぶっ飛ばされているシーンで、冷静に考察する妹に俺は感動した。お前がそんなにも理性的にものを考えられるなんて、お兄ちゃんは感動したぞ香奈子……!
「でも――」
「へ?」
え、お前なんで俺の背後に回るの?
「それでも兄貴が紫条院さんの下着姿を見ちゃったケジメはつけないとだし、このすっごいややこしい状況に収まりをつけるには結局ラブコメ漫画のテンプレをするしかないの! というわけでちょっと理不尽だけどおりゃああああああ!」
「がばぁっ!?」
香奈子の助走跳び蹴りが俺の背中に炸裂し、吹っ飛ばされた俺はズシャーっと廊下に突っ伏す。
に、新浜くんー!? と半裸の紫条院さんが心配した声をあげてくれるが、そっちの方に視線を向けちゃいけないのが辛い。
というか……そろそろ誰か状況を説明してくれない……?




