記憶裁判
次男は平凡な小学生である。趣味といえばゲームくらいで、守りたい恋人も超えられたくない特技もまだない。そして自分が「普通」であることには、他の多くの子どもたちと同じように敏感であった。だから下校中に向こうから祖母が歩いてきたとき、次男は思わず目を背けたのである。次男は平凡な小学生である。次男は水面下ですでに進行している計画についてまだ知らない。だが最近の家族の歪みについてはなんとなく把握していた。しかし次男はまだそれを言語化できないから、二人の友人に対して自分が昨日お気に入りのゲームでどれだけひどい負け方をしたかについて話し続けていた。しかし祖母はもう次男の目の前まで来ていたのである。
「すまないね君たち、道を尋ねたいんだけれども」
祖母は友人のうちの一人に話しかけていた。
「はあ、道かいお婆さん。いったいどこに行きたいの?」
「いや、桐谷駅ですよ。このあたりにあるはずなのだけれども、どうしても見つからなくてね」
「そんな駅はこのあたりにはないよ。向こうの通りを右に曲がってしばらく行けば鳥川駅があるけど」
「いやいや、鳥川は遠いじゃないか。私は桐谷駅に行きたいんだよ」
「知らねーよそんな駅。お婆さん記憶は確かかい、確かにこのあたりの地名は桐谷だが、桐谷駅なんてものはどこにもないぜ」
「何よ、私がボケてるっていうのかい、失礼ね」
「失礼もなにも、ない駅をあるって言ってんだから、ボケてるにちがいないよ。家に帰ってお爺さんに聞いてみるといい」
「家に帰るには桐谷駅に行かなきゃならないんだけどねえ……まあいいや、ありがとさん」
祖母は会話を終えて、次男たちと反対方向に歩いていった。
「やれやれ、何だったんだあの婆さんは。桐谷駅なんてものはどこにもないのに」
「怖いなあ。俺、あの婆さんは妖怪かと思ったよ。腰が曲がってるし不気味だよな。追い払ってくれて安心したぜ」
友人たちは不思議なものを見たように祖母について話していたが、次男は角を曲がったあたりで「いけね! 僕、学校に国語の教科書忘れてきた!」とおもむろに大声を上げた。
「それは大変だ、音読の宿題があるじゃないか」
「急いで取りに帰れ、それ、ダッシュだ」
友人たちがすっかり騙されたのを確認すると、次男は「ごめんな! 先帰っといて!」と言い残して反対方向に走り出し、そしていまだに同じあたりをうろうろしている祖母に駆け寄った。
「お婆ちゃん何をしているんだい、家に帰らないといけないじゃないか」
「ん、さっきの少年と違う顔だね。そうはいっても、家に帰るには桐谷駅に行かなくちゃいけないんだよ。君は桐谷駅の場所が分かるかい」
「お婆ちゃん、桐谷駅の路線は二十年前に廃線になったんだよ。あとお婆ちゃんの家は角を曲がってしばらく行ったところで、僕はお婆ちゃんの孫だよ」
「そんなはずはないよ。私の孫はまだ小学校にも上がっていないはずだよ、こんなに大きいわけがない。それに私の家は桐谷駅から電車でしばらく行ったところにあるんだよ。早く帰らないと爺さんが待っているよ、買い物もしてきたんだ」
「お婆ちゃん、お爺ちゃんは五年前に死んだよ。それに買い物といっても、そんなにトマトをたくさん買ってどうするつもりだい」
「爺さんはトマトが好物なんだよ、ほっといてくれ」
「だからお爺ちゃんは死んでいるし、いくらなんでもトマトが多すぎるよ。ねえお婆ちゃん、いい加減に思い出してくれよ。さっきお婆ちゃんが僕の友達に話しかけたとき、心臓が止まるかと思ったんだぜ。こんなにボケたのが僕のお婆ちゃんだとあいつらに知られたら、僕学校でいじめられるよ」
「まったく、アンタも私をボケてるというのかい。失礼にも程がある、親の顔が見たいものだ」
「お婆ちゃん、僕の親はお婆ちゃんの息子なんだよ!」
そこにこれも下校中の長男がたまたま通りかかった。
「おっと、婆さんと次男じゃないか。ここで一緒にいるとは珍しい、いったいどうしたんだ?」
「実は、かくかくしかじかで」
これ幸いと次男は長男に状況を説明した。
「なに、ついにそうなったか。これは『計画』を実行に移すときだな。まあ任せておけ。おうい婆さん、俺だよ、長男だ」
「長男!? 長男なのかい? 長男はもう中学生になったのかい?」
「ああ、俺は14歳だよ」
「……そうかい、そうかい。……大きくなっているけど、確かに長男だよ。私が悪かったよ、私がボケていた。さて、家まで案内してくれるかい?」
☆
夜、食卓に祖母、父、母、長男、次男、長女が座っている。母はなるべく平静を装おうとしているが、実際はにやけそうになるのを必死で堪えている。しかしここは父から始めねばならない。
「母さん、最近家が窮屈だと思わないかい?」
父はなるべく穏便に済ませたいのである。
「長男の身長はついに170 cmを超えたし、長女もこの春に小学校に入った。もうそろそろ次男と長女に自分の部屋を与えないといけない。母さん、このあたりはいろいろ騒音がひどいだろう。そろそろ隣町の山の上にある老人ホームに入って、ゆっくりするのもどうかと思ったのだけどね」
しかしこの家は別に騒音で困っているわけではない。むしろ二十年前に路線が廃線になったような田舎であり、むしろ祖母が以前祖父と住んでいた家の方がうるさいくらいである。とはいえここは祖母を追い出すためになんでもいいから理由を付けなければならない。
「なんだい、ついに私を追い出そうというのかい。そうはさせないよ、あんた私に今まで受けた恩を反故にする気かい。私はあんたがオムツも取れない頃から世話してきたんだからね」
「おっと婆さん、それは昨日漏らした人が言う台詞かな?」
長男がすかさず指摘を入れた。
「漏らした? 私がそんなことするわけないじゃないか! 長男、嘘をつくのは良くないよ」
長男と母は目を見合わせて苦笑した。昨日の夕方に小を漏らして途方に暮れている祖母を廊下で発見したのは長男であり、その後始末をしたのは母である。
「さて母さん、認めたくはないだろうが、すでに母さんは昨日のことすらまともに覚えていられない状態になっているんだ。長男はもうすぐ受験で、長女もまだまだ手がかかる。私と母もそれぞれ仕事が忙しい。悪いけれども、母さんの面倒を見るのは荷が重くなってきているんだ。ここは孫たちのためにも、なんとか入ってくれないかい?」
祖母は助けを求めるように周囲を見回したが、父、母、長男は冷たい表情を崩さなかった。
「ああ次男、父たちはひどいと思わない? あれだけ長年尽くしてきたというのに、その恩を忘れて私をどこかの山奥に押し込もうとするなんて。次男、次男だけはお婆さんの味方よね?」
ところが祖母が懇願するように顔を向けた次男もまた、父たちと同じ表情であった。もしくはむしろ失望と憎しみを浮かべていた。
「残念だけどお婆ちゃん、これは自業自得だよ。お婆ちゃんは自分がどれだけボケているかについて全然わかっていないんだから。今日の夕方にはまるで僕が赤の他人であるかのように振る舞って、潰れた駅や死んだ人のことまで忘れてしまっていたわけでしょ。僕は確かにお婆ちゃんが大好きだったけれども、僕をすら忘れてしまう、僕に迷惑をかけるお婆ちゃんは嫌いだよ」
母はこれまで祖母にべったりであった次男が態度を豹変させている様子に思わず笑いだしそうになりながらも、立場上それを留めていた。もともと祖母の認知能力の低下は数年前から(特に祖父が死んでからは)始まっていて、さらには祖母が祖父と長年住んでいた家を引き払ってこの家に移ってきたのは、祖母の物忘れがひどくなって買い物すらままならなくなってきたからであった。それでも祖母の衰えはますます著しく、長女が小学校に入ってそろそろフルタイムに復帰しようとしていた母にとっては、無駄な介護対象はさっさと追い出してしまいたいのである。母は父、長男と協力して祖母の診断書の確保や老人ホームの下見を進めてきた(なお祖母は自身が病院でアルツハイマー病と診断されたことをすっかり忘れている)。だが祖母をいまだに尊敬すべきお婆ちゃんと慕っている次男は計画の邪魔だったのである。ところが祖母はついに自滅し、みずから次男に嫌われてしまったのである。母はついに我慢できなくなり、これもまた祖母を純粋に慕っている長女が絡んでくる前に決着をつけようと口を開いた。
「まあまあ次男、そんなにはっきりとものを言うんじゃありません。お婆ちゃんが悲しむでしょうが……とはいえお義母さん、勝手に家を抜け出して街を徘徊するというのは、客観的にも要介護度が上がるには——つまり老人ホームに入ることが望ましいと定義されるには——妥当な証拠なのですよ。私もお義母さんとずっと一緒に暮らしたいのですけど、この現代社会ではそれはだんだん厳しくなってくるわけで」
「な、なんだい理屈ぶって! とにかく私が嫌だといったら出て行かないよ、現代社会では人権侵害は許されないのではなかったのかい、この鬼嫁め!」
もはやあらゆる退路を失った祖母はできる限りの罵倒を駆使して最後の抵抗を試みたが、しかしその希望を絶ったのは父であった。
「母さん、それはそうだが、そもそも人権というのは正常な判断能力がある人間に適用されるものだ。昨日のことすら覚えていない人が、果たして『正常な人間』といえるだろうか?」
「…………!」
祖母には抵抗する術は残されていなかった。この一連の追放劇は前々から計画されていたもので、父たちはその最後の1ピースを待っていただけであった。祖母はこれまでは少なくともある程度見慣れた風景であった夕食の席が、敵に捕縛され尋問される牢獄のように感じられた。そして強制的に生涯の収容所へと送られるのだ。
「ええと、それで、お婆ちゃんはどうなるの? もう会えなくなってしまうの?」
ここでこれまで黙っていた長女が初めて発言したので、母は最大の難所が来たと一瞬表情を引き締めたが、しかしすぐにいかにも愛情深い笑顔に戻って答えた。
「お婆ちゃんは隣町の山の上の綺麗な場所に行くだけよ。そこにはお婆ちゃんだけが暮らしている、すべてのお婆ちゃんの楽園があるの。長女やお母さんたちももちろんときどきそこに行って、お婆ちゃんに会うことができるのよ。何も心配することはないわ」
「ふーん」
長女はこれだけの説明で完全に納得して食事を再開してしまい、そしてこれによって祖母の勝機は完全に失われた。
(老人ホームは老い先短いとされた老人だけが暮らしている、すべての老人のゆるやかな虐殺施設だというのに!)
しかし祖母のこの内心の叫びも、すでに口に出す意味を為していなかった。そして父は誰も喋らなくなったことを確認すると、厳かに宣言した。
「では、結論は出たということでよいね。週末には母さんも入れて例の老人ホームを見に行くことにしよう」
「それがいいわね。長男、週末は部活の試合とかないの?」
「ないよ、週末はいつでもいい。次男と長女も特に予定ないよな?」
「ないよ」
「ないー」
「よし、じゃあ父さんは土曜日の午後に行くと老人ホームのスタッフさんに言っておくよ。……ところで長男、来月の大会でレギュラーには入れそうなのかい?」
父は結論を出し、そして話題は全く祖母に関係ないことへと移った。記憶裁判は閉廷し、被告は敗訴したのである。
☆
夕食から数時間が経ち、祖母が風呂から出ると、もうリビングは静まり返っていた。父は明日は出張で早く出かけるので寝ないとと言ってさっさと寝室に入ってしまい、子どもたちも自室にこもってゲームで遊び始めた。少し前までは夕食後もリビングに残って祖母に甘えることが多かった長女も、この春に小学校に上がって両親の部屋ではなく兄たちの部屋で寝るようになってからは、兄たちに仲間意識が芽生えたのか兄たちとよく遊ぶようになってしまった。唯一残っている母もまるで祖母がそこにはいないかのように、祖母に背中を向けてスマートフォンで動画を見ている。いや、実のところときどき振り返っている。だがそれは祖母に親しみを感じているわけではなく、あくまですでに一人にしておくには危険すぎるとみなされた祖母の無事を確認しているだけである。それに夕食時のあの様子からすれば、もはやその安全確認も自分が義母殺しと非難されないための保身にすぎないかもしれない。祖母はそんなことばかり覚えている自分が嫌になった。他のさまざまなことは忘れてしまうのに、家族からの辛辣な一言は胸に刺さって離れないのである。祖母はついに息苦しさに耐えられず、自室に戻ることにした。
祖母の自室は一階の、リビングのすぐ隣にある。足腰が弱ってきていた祖母にとっては、階段を上らないでよい嬉しい場所であった。父と母が新婚のときにこの家を買ったときは物置だったが、祖母がこちらに移ってくるときに整理したのである。とはいえ完全に物置でなくなったとは言い難く、今も部屋の隅に段ボール箱が積まれている。祖母はなぜかもう動けないほど疲れていたから、倒れ込むようにベッドに横になった。
どれくらい時間が経っただろうか、祖母が目を覚ますと、そこには暗闇があった。慣れている暗闇だ。漁師であり、夜闇を縫って船を出し魚を採ることを生業としていた祖父は、暗闇が好きだ。新婚のころせめて豆電球でもつけてくれなければ怖いと訴えた祖母に対し、祖父は軟弱者めと相手にしなかった。しかし祖父は病気をして、今は一人で出かけるにもままならない。ところが、おお、祖母は買い物をしていないではないか! 祖父はいつも祖母に好物のトマトを切らさないように頼んでいる。衰えたとはいえども屈強な海の男の面影を残す祖父が豪快にトマトにかぶりつく姿は祖母から見ても思わず見とれるもので、そしてトマトを切らすと祖父は烈火のごとく怒るのだ。いくら夜中であっても、開いている店はある。祖母は立ち上がって部屋の扉を開けようとした。ところが扉はそこにはなく、祖母は前のめりに倒れ、そのときたまたま祖母の手が証明のスイッチに触れ、部屋は明転した。
祖母は明かりのついた部屋を見て、その部屋に一抹の違和感を感じた。そしてさらに部屋を見回して、首を回して自分の方に向いた大きな一つ目に気づいた。そこで祖母はすべてを思い出した。祖父はすでに亡く、祖母は息子である父夫婦に引き取られ、もはやトマトを買いに行く必要はなくなったのであった。しかしあの一つ目は何であろうか? 祖母はその一つ目に覚えがなかった。ところがそのとき、二階の方から警告音が響き、そして慌てて階段を下りてくる足音が聞こえた。
「お義母さん、大丈夫ですか? 急に起き出して、どうかしましたか?」
母が大声で詰問する声で、祖母はその一つ目が監視カメラであったことを理解した。ついに祖母が夜に抜け出して徘徊するのではないかという恐怖に囚われた父と母は、祖母が入浴している間にでも祖母の部屋にカメラを取り付けたのだろう。祖母はもはや家にいながらにして自由のない対象となったのである。「ああ、大丈夫だよ。ちょっとトイレに行きたくなっただけ」と当たり障りのない返答をしつつも、祖母はもはや立ち上がる気も起こらなかった。本来祖母がトイレに行くたびに警報が鳴る監視カメラなら母の睡眠は過度に阻害されそうであるのだが、祖母はそこを指摘するのも億劫であった。祖母はもう一人前の人間ではなく、へまをしないように監視を受けながらゆっくりと死へ向かっていくだけの半透明な存在であるのだ。
祖母はゆっくりとベッドに戻ったが、目は冴えたままであった。もう一度寝るとまたすべてを忘れてしまう気がした。若いときは自分が死ぬ直前まで頭はしっかりしていると信じていて、死の間際には子や孫を呼びつけて遺言のひとつでもするものだと思っていた。だが現実はそうではなく、きっと祖母はだんだん自分が誰であるかもわからなくなって、最後は知らないうちに何も考えられなくなって死んでいくのだ。つまり遺言はなるべく早く済ませなければならない。祖母は父や母、そして三人の孫たちに残す手紙を書こうと、再び電気をつけて棚から便箋と鉛筆を取り出した。誰から始めようかと祖母は少し考えたが、次男にすることにした。次男は良い孫である。父や母や長男は祖母を衰え切った老人としか見ていないが、次男は祖母を尊敬すべきお婆ちゃんと見てくれている。一緒に出掛けたり、他愛のない話が一番しやすいのは次男である。もちろん長女も祖母を尊敬しているが、しかし小さな長女はまだ文字が読めないだろう。祖母は鉛筆を取って書き始めた。「これを読むときには、私はもうこの世にいないでしょう……」とありきたりな文章から始める。次男との思い出はたくさんある。それをいくつか挙げて楽しかったと書いて、それから両親や兄妹を大切にすること、勉強をしっかりすることなどをお願いすればよい。さて、どんな思い出がよいだろうか? やはり一緒に水族館に行ったことだろうか? それともある夏の日に縁側で線香花火をしたことだろうか? ……いや、それは本当に次男との思い出なのか? 長男、もしくは父との思い出ではないのか? 祖母はしだいに記憶が定かではなくなってきた。一度整理しようと、祖母は最初から手紙を読み直そうとした。ところが祖母の字はもはや字ではなかった。最初こそ長年の経験が詰まった美しい文字であったが、数文字たつと急にそれは崩れ、祖母がさっき書いていると信じていた字はあまりにも小さくあらぬ方向にのたうっていて、もはや自分でも何を書いているのか理解できなかった。祖母は鉛筆を取り落とした。部屋には静寂が戻り、誰のものかわからない家族の寝息が二階からかすかに響いていた。




