リタはルミナスの地で、母の遺した大きな後ろ盾を得る
ベッティオル皇国の北部に位置するルミナス地方。ボナパルト王国との国境に一番近い辺境の地であるその場所に、アレッサンドロとステファニア、アルフレードとリタを乗せた二台の馬車が到着した。
リタにとって馬車での長距離移動はこれで二度目だ。以前、村からボナパルト王国へ移った際は、お尻の痛みに苦しんだ。しかし、今回は王族所有の馬車を使ったおかげで、そのような苦痛からは解放されていた。比較的快適な道中だったといえる。ただ、それでも馬車から降りた際の解放感は格別だ。リタは誰も見ていない隙を狙っておもいっきり背伸びをしようとした。が、そのタイミングで、ルミナス辺境伯の屋敷から執事らしき人物が出てきた。慌てて背筋を正すリタ。
アレッサンドロが執事となにやらやり取りした後、リタたちは屋敷の中へと通された。中へ入ると二人の男女が出迎えてくれた。男の方はかなりの大柄で、顔に大きな傷跡が残っている歴戦の戦士のような風格を持っている。ステファニアは以前彼のことを鋭い人だと称していた。アルフレードがリタを己の体で隠すように前に立つ。しかし、リタ本人は全く警戒心を抱いていなかった。むしろ目を輝かせて彼を見ていた。
「くまじろう」というリタの呟きを拾ったのはアルフレードだけだっただろう。こんな時でなければアルフレードはリタにツッコミを入れていただろうが、今は誰にも聞かれなかったことを心の中で感謝するしかできない。
男の横に立っているのは、女性にしては背が高い貴婦人。服装はシンプルだがスタイルの良さと顔の派手さのせいか、とても華やかな印象を受ける。淑女然とした笑みは、辺境の地にいるには惜しいほどの華やかさで、都心であれば社交界の華となり得ただろう。
「ようこそいらっしゃいました」
「いや、突然の申し出を受け入れてくれて感謝する」
アレッサンドロの言葉を受け、男は目礼して返す。
無骨だが、儀礼は尽くす老成した騎士のような風格。
しかし、次の瞬間にはそんな空気は霧散していた。
「お会いしたいと先に願ったのはこちらですから、これくらいは……」
とガシガシと後ろ頭をかく男。そんな男の脇腹に肘うちが入る。的確な場所に入ったのか、男が呻く。肘うちを入れたのは女の方。彼女の表情はたおやかな笑顔のままだ。
一連の流れを見ていた者たちは瞬きを繰り返した。
そんな反応を前にしても女は素知らぬ顔で自己紹介を始めた。
「私、ルミナス辺境伯の妻、エレナでございます。こちらがわが夫であり、辺境伯であるレオナルドです」
「よ、よろしくお願いいたします」
再び威厳のある顔に戻ったルミナス辺境伯だが、先ほどの光景を見ていれば見方は変わってくる。
もしや、本当に切れ者なのは……と皆の視線がエレナに向いた。
エレナはにこやかにほほ笑んだままだ。その笑顔からはなにも読めない。
侮れない相手を前にして警戒心を強めるアルフレード。エレナはそんなアルフレードに視線を向けた後、にこりとほほ笑んだ。その視線には子供の成長を見守るような慈愛が潜んでいた。珍しくアルフレードがたじろぐ。
辺境伯夫妻の挨拶の後、ボナパルト側も各々自己紹介をする。リタの順番が回ってきた際、なぜかエレナはリタの顔をまじまじと見ていた。居心地は悪かったがなんとか耐えた。
一通りの挨拶が終わると、エレナはくるりと背中を向けた。
「早速お話を、といいたいところですが……先にこちらへどうぞ」
ついた先は応接間、ではなく日当たりのいい客室。その部屋の中には一組の男女がいた。一人は辺境伯夫妻の一人娘であるヴィオレッタ。そしてもう一人はステファニアの兄であり、リタの腹違いの兄でもあるクラウディオだ。
ステファニアは声をかけようとした。しかし、それよりも先にヴィオレッタの声が響く。
「また野菜ばっかり残して! ちゃんと全部食べなさい!」
「うるせぇ! 別に野菜なんてくわなくてもいいんだよ! 肉だけ食ってりゃこんな傷すぐ治るっ」
「ああん?!」
「ぐあっ!」
「傷押しただけでまだこんなうめき声上げるくせによく言うわね! いいから食べなさい!」
「いらねむぐっ!」
エレナによく似たスタイル抜群の美女が、野菜をたくさん乗せたスプーンをクラウディオの口に容赦なくつっこむ。抵抗されないためにか空いた手でクラウディオの体を押さえ込んでいる。そういえば彼女は騎士でもあったという事実をこの場にいた全員が思い出す。それにしても、と皆驚いてはいるが、中でも衝撃を受けていたのはステファニアだ。
「クラウディオ兄様のあんな姿初めてみた」
顔を真っ赤にし、文句を言いつつも、口に突っ込まれた野菜を食べている。その様子はどこか嬉しそうにも見える。
「戦うことにしか興味がなかった兄が?」「お世継ぎ問題でも期待できないと皆に言わしめた兄が?」
と目を白黒させているステファニア。
リタはそんなステファニアが心配になり、腕を引いた。
「大丈夫? お姉様」
「え、ええ」
ステファニアは姿勢を正し、改めて咳ばらいをする。その声で二人はようやく顔をステファニアたちの方へと向けた。人がいることには気づいていたのだろう。二人に驚いた様子はない。が、クラウディオはステファニアを目にとめた途端、慌ててヴィオレッタを押しのけようとした。しかし、その前にヴィオレッタは軽い身のこなしでどいてしまう。
ヴィオレッタは服装を正した後、騎士のように一礼する。
「貴き方たちの前で失礼いたしました」
「いえ、かまいません。むしろ兄が大変ご迷惑をかけているようで……」
「お、俺は別に迷惑なんてかけていないぞっ!」
「先ほどのようなやり取りを見た後では説得力はありませんよ。それに、兄様がここまで元気になったのはヴィオレッタ様の献身的な看病のおかげでは?」
ステファニアに指摘され、クラウディオはぐっと言葉に詰まる。否定しないところを見るに、クラウディオも自覚はしているのだろう。もしかしたら、彼なりに感謝も。
クラウディオがちらちらと先ほどからヴィオレッタを意識している。一方のヴィオレッタは特段気にした様子はないが……ステファニアとしては想像もしていなかった展開を目にして複雑な心境だ。
その後、クラウディオとは一言二言話をしただけで部屋を出た。クラウディオはベッドから降りようとしたが、ヴィオレッタに止められ、その間に皆は部屋を抜け出したのだ。
応接間に移り、改めて辺境伯夫婦と腰を入れて話をすることになった。
リタは室内をきょろきょろ見回す。今まで見てきた応接室の中では狭めだが、不思議と居心地の良さを感じる。室内にある調度品は古びたものが多いが、とても大切に扱われてきたのがわかるものばかりだ。
リタがくつろいでいる間に、主にステファニアを中心に情報のすり合わせが行われた。
辺境伯夫妻も粗方はクラウディオが持っていた紙切れを見て知ってはいた。だが、ステファニアから聞いた話によってさらにその危機感を募らせたようだった。
その反応を見て、ステファニアは彼らに協力を仰ぐ。自分たちが今後なにをしようとしているのか――アドルフォの罪を告発し、失脚させる――を伝えた。その上で、ルミナス辺境伯にはアドルフォ派以外の者たちをまとめあげ、その時に備えておいてほしいと付け加える。
最後まで聞いた後、ルミナス辺境伯は大きな手で額をおさえ、唸り声をあげた。
あまり乗り気ではない反応。だが、それは最初から見越していた。ステファニアはさらに説得を試みる。
「アドルフォ兄様はいずれ他国にも手を伸ばすつもりです。その際、今まで国内で起きていたような事件が今度は国外で起きる可能性が高い。いえ、兄様なら確実に実行するでしょう。そうなる前に止めなければならないのです」
「それは……止めるだけではダメなのか? なにも告発までしなくとも」
「すでに兄様はお母様に毒を盛り、……お父様の命までも奪っています。両親を手にかけるのをためらわない人間をそう簡単に止められるとお思いですか?」
「上皇陛下を? それは事実か?」
ルミナス辺境伯が息を呑む。その隣でエレナも同じような顔をしていた。
「残念ながら証拠はありません。お父様の件については私の憶測です。ですが、アドルフォ兄様がボナパルトにいる間にタイミングよくお父様が亡くなったことや、アドルフォ兄様の反応を見るに間違いないかと」
「だが、それでは……」
「ですが! お母様に毒を盛った証拠と今までアドルフォ兄様が行った犯行の証拠はあります。その証拠を手に入れることができたら告発は間違いなくできるでしょう。……もしかしたら、その中にお父様の件についての証拠品も含まれているかもしれません」
「マルコ兄様の気持ちが変わっていなければ」とステファニアは心の中で続ける。
マルコの気が変わって証拠品が全て処分されていたり、アドルフォに見つかっていた場合は難しいかもしれない。けれど、その可能性はかなり低いだろう。でなければ、あのマルコがわざわざリスクを侵してまで自ら動こうとはしないだろう。
ステファニアとしては今すぐにでも城へと向かいたいところだ。だが、その前に目の前の彼らに協力を仰ぐ必要がある。
明確な証拠があると知ったルミナス辺境伯の気持ちは揺らいでいるようだ。
「なにか引っかかる点がおありですか?」
ダメ押しで尋ねたつもりだが、それでもルミナス辺境伯は答えない。
痺れを切らしたのはエレナが先だった。
「あなた。覚悟を決めては?」
「エレナ……そうは言っても」
「あなたが懸念していることは理解しています。アドルフォ皇帝を捕まえたとして、その後誰が皇帝になるのか……でしょう? あては外れたようですし」
エレナがちらりとステファニアを見やる。ルミナス辺境伯はバツが悪そうに目を泳がせた。
「こ、国民には『精霊に愛された国』としての意識が根付いている。アドルフォ皇帝陛下が『精霊の儀』に失敗しても受け入れられたのは、相応の成果を見せたからだ。そのおかげで民たちの不安が収まった、という一面はある。もし、今アドルフォ皇帝陛下が失脚してしまえば民たちの不安はさらに募るだろう」
「だからといって、現皇帝のやり方には賛成できません。このまま野放しにしておいていい人間でもないでしょう」
「それはわかっているが……」
「わかっていません! かの方は自分に都合の悪い人間を躊躇なく殺すような人間なのですよ。その標的に私たちが、ヴィオレッタがされたらどうするのです?! ヴィオレッタは……私たちがステファニア様につくと信じているから動かずにいるのですよ。もし、この話をしれば……」
「っ! そう、だな……」
エレナの言葉を聞き、ルミナス辺境伯の目に強い意志が宿り始める。
その一連の流れを見ていたリタは思わず拍手をしてしまった。皆の視線がリタに集中する。
リタは「あ」と声を漏らし、頬を赤らめた。
「も、申し訳ありません。つい……」
――ルミナス辺境伯夫人の手腕すごかった。まるでお母さんみたい。言いたいことをビシッと言ってかっこいい。
恥ずかしそうにほほ笑み、首をかしげるリタ。そのしぐさを見て、エレナは固まる。
「ピア」
リタは幻聴が聞こえたのかと思った。
「どうして、お母さんの名前を?」
エレナの目が大きく見開き、震える声で呟く。
「似てるとは思っていたけど、本当にピアの子供なの?」
立ち上がったエレナはリタの前に移動する。アルフレードが咄嗟に庇おうとしたが、リタはその手を押さえた。エレナにリタを害する気はないと直感したから。
「は、はい。あの、母の知り合いですか?」
恐る恐る尋ねるとエレナは懐かしむような顔で「ええ」とほほ笑んだ。
「私とピアは幼馴染なの。互いの両親が仲が良くて、私たちも本当の姉妹のように仲良くしていたのよ」
「お母さんとルミナス辺境伯夫人が……」
「ええ。突然ピアが姿を消すまではね。私になにも言わずにいなくなるなんて、なにか事件に巻き込まれたに違いないと調べたけど、手がかりは一つもみつからなくて。私もピアのご両親もいつかピアと会える日がくると信じて待っていたけれど、そうしているうちにピアのご両親は流行り病にかかって……」
エレナの言葉に、今度はリタが目を見開く。
「亡くなった……んですか?」
「……ええ」
「そう、ですか」
「……残された私たちだけでもピアのことを待っていようと思っていたのだけれど、私はこうして辺境伯に嫁ぐことになり、もう会うことは叶わないと思っていたの。でもまさか、ここでピアの娘と会うことができるなんて! ピアは元気にしているのかしら?」
「あ……いえ、母は私が幼い時に……」
「っ。そう……」
バラ色に染まっていたエレナの頬から色が引いていく。覚悟はしていたのだろう。エレナは涙を堪えるように強く目を閉じた。
そのしぐさを見ていたリタの胸も締め付けられる。
エレナは瞼を開き、リタに微笑みかける。それは先ほどまでの淑女然としたものではなく、親しい者に向ける笑み。
「リタ、って呼ぶのは失礼かしら?」
初対面であり、第二王子妃であるリタへの願い。しかし、リタはすぐさま「いいえ!」と返した。
エレナが嬉しそうにほほ笑む。が、次の瞬間には真顔になった。
「リタ……あの……ぶしつけな質問にはなるのだけど……重要なことだから聞かせてくれるかしら。あなたのお父さんはもしかして……」
リタの顔が強張る。それが答えだった。
「そう。そうなの……なんてことっ」
エレナは顔を押さえて呻く。リタの反応だけで察したのだろう。父親がダニエーレだと。
「それでピアは身を隠したのね?」
「あ、いえ。それは父が母と私の存在を隠すために、表向きには廃村となっている村に押し込んだからで、母の意思ではなかったと思います。母は生前父への恨みつらみを話してましたし」
「は?!」
エレナの目がかっぴらかれる。
「ちょっとまって、廃村? そんなとこにあなたたちを?! ピアに手を出して、子供まで作っておきながら?! あの嫉妬深い本妻から隠すためっていうのは百歩譲って理解するとして、さすがに廃村はないでしょう! 幸せにするどころか……過酷すぎる環境に押しやるなんてっ……ピアが早死にしたのもそのせいじゃない。上皇のことは尊敬していたのにっ。まさかそんなクソ男だったなんてっ!」
明け透けな物言いに一同は目を白黒させる。中でもリタは別の意味で驚いていた。
――間違いなくお母さんと同類だ!
エレナは人目を気にせず続ける。
「私の目も曇っていたようね。リタのおかげで晴れたわ。ありがとうリタ」
「い、いえ」
「上皇はクソ。そして、現皇帝もそれ以上のクソ。よーく理解したわ。よし、すぐにでも皇帝を処しましょう」
「エ、エレナ?!」
慌てて声を上げるルミナス辺境伯だが、エレナの気持ちはすでに固まったらしい。
キッとルミナス辺境伯を睨みつける。
「止めても無駄よ! これは言わば愛する家族の敵討ちなの! 邪魔をするなら離縁してちょうだい。ヴィオレッタは……もう自分の判断で決められる歳なのだから、話してから本人に決めてもらいましょう。あなたにつくか、私につくか」
「待て! わかった。わかったから。私も、君の味方につくから離縁だけは勘弁してくれ!」
必死な形相でルミナス辺境伯がいうと、エレナは真顔でじっと見つめた後、一応は納得したようで彼の隣に腰を下ろした。
ハンカチで汗を拭きながらルミナス辺境伯は改めて口を開く。
「ちなみになんだが、リタ第二王子妃殿下は、次代の皇帝になる気は……」
「ありません」
即答する。
「今も昔もこれからも、私は皇族の一員になるつもりはありませんから」
「リタはすでに私の妻であり、ボナパルト王家の一員だからな」
そう言ってアルフレードが見せつけるようにリタの手を握る。リタはその手をしっかり握り返した。
仲の良い二人を見て、エレナも頷く。
「そうね。リタの生い立ちを考えれば当然の帰結だわ。リタにベッティオル皇国を背負う責任は問えない。……たとえ、あなたが精霊の愛し子であったとしても、ね」
一瞬沈黙が満ちる。ルミナス辺境伯が口を開こうとしたが、すかさずエレナが彼に鋭い視線を向け、黙らせた。この件には絶対口を挟ませないという強い意志を感じる睨みだった。
リタはエレナの一言に救われた気持ちになっていた。
リタとて考えてはいたのだ。その選択肢もあることを。でも、どうしてもその選択だけはしたくなかった。アルフレードとともにボナパルトにいってから、リタには大切なものがたくさん増えた。それらを捨てたくはない。なにより、大切な友人たちを巻き込みたくはない。彼らは初代皇帝との約束から逃げるためにリタの元へやってきた。それなのに、リタが女帝となれば、きっとリタが命じなくても彼らは勝手に力を使おうとするだろう。今でさえそうなのだ。それがリタにはわかっているからこそ、そんな未来は絶対に選びたくなかった。
エレナはリタの事情を知らずとも、リタの意思を尊重してくれた。
母に似た、母の姉ともいえる人が肯定してくれた。そのことが嬉しい。
一方でステファニアやアルフレードは、エレナがリタを精霊の愛し子だと示唆したことで、ルミナス辺境伯の評価は彼女の働きがあったからだと確信した。と同時にそんな彼女が全面的にリタの味方になってくれそうで一安心もした。
不意にリタが口を開く。
「私が女帝となるのは無理ですが、代わりの案を……」
リタの提案は誰も思いつかなかったもの。けれど、皆最後には納得した。
ただ一人、ルミナス辺境伯だけが「いや、それは……」と口ごもってはいたが、それもエレナによってねじ伏せられたのだった。
翌日、提案者であるリタとそのパートナーであるアルフレードはもう少し話を詰めるために残り、ステファニアとアレッサンドロは先に皇城へと向かった。




