リタは生まれ育った村を出る
深い深い青。その色を見るたび、慈愛に満ちた母の瞳を思い出す。
姿は見えなくとも、その存在は感じられる。
湖のほとりに、たたずむリタ。
その両脇には動物、いや精霊たちが並んでいる。右側にぷっぴぃ、ロッソ。左側にネロ、アズーロ、マロン。どのくらいの時間、そうしていただろうか。リタは潤む瞳を一度強く閉じ、そして開いた。
「行ってきます。お母さん」
小さな呟き。けれど、その声はしっかりと精霊たちの耳に届いた。後ろ髪を引かれる思いを振り切り、湖に背を向ける。
「もういいのか?」
「うん。もう十分」
少し離れたところで待っていたアルに、頷き返す。
「なら、行こう」
「うん」
アルを先頭に歩き始める。
荷物は背負いかばん一つ分。体力には自信があるけれど、遠出するのは初めてだから。身軽な方が臨機応変に対応できるだろうと考えてのこと。両腕が空いていれば、今みたいにネロたちを抱きかかえてい移動することもできる。ちなみに、ぷっぴぃはちゃっかり、アルに抱きかかえられている。
――あくまで一時的にアルのところにお世話になるだけ。いずれ帰ってくるつもりだから。
全てを持っていく必要はない。
それに、急な入用ができても、全てアルがなんとかしてくれる!(ここ重要)
「いや~お金をもっているイケメンって最高よね」
少々、性格に難があったとしても目をつぶれる。むしろ、アルの顔は見ているだけで得した気分になれるk
「おい、全部聞こえてるぞ」
「……んんっ」
咳払いでごまかした。
――これからは、なんでも口にする癖、気をつけないと。
歩き始めて数十分。ようやく森を抜け、人道が見えた。思わず足を止める。
「……リタ? どうした?」
リタが止まったことに気づいたのだろう。アルが振り向いて尋ねる。
「あ、いや……その……」
「リタはここから先へ出たことがないから緊張してるのよ」
「ぷ、ぷっぴぃ」
しれっと告げ口したぷっぴぃに睨みを飛ばす。が、効果はないらしい。変わらず、アルの腕の中でご機嫌なぷっぴぃが憎たらしい。
「なるほど……」
アルはぷっぴぃを片腕に抱え直すと、リタの隣に移動し、自由になった片手をリタの肩に回した。
「えっなにっ」
一気に心拍数が上がる。
「行くぞ」
「っ」
アルと触れている部分に全集中していたせいか、いつのまにか森を抜け出していたことに気づかなかった。気づいたのはアルが離れてから。
「な、なんて強引なっ」
心の準備をする暇もなかった。
「時間の無駄だろう」
「くっ」
確かにそのとおりだ。そのとおりだが、ムカつくものはムカつく。
「それで? どうやってボナパルト王国へ行くの? 移動手段は?」
「馬車を利用する」
「馬車……」
「馬車っていうのは」
「そ、それくらい知ってるし」
「……知ってるのか」
アルは顔に『意外だ』という文字を浮かべている。リタは視線を微かに逸らした。
「昔、お母さんに教えてもらったから。……乗ったことはないけど」
「……そうか」
「っていうか、こんなところから馬車に乗れるの?」
どこを見ても、それらしい場所はないが。あるのは道のみ。
「いや。近くの町まで歩く必要がある」
「近くの町までって、どれくらい?」
「さあな。まあ、リタと私の足なら小一時間もあればつくだろう」
「は?! 近くの町なのに?!」
「仕方ないだろう。それだけリタの家が辺鄙なところにあるってことだ」
「……はあ」
早々に後悔し始めているが、とりあえずひたすら歩くしかない。
ありがたいのは、腕の中にいたネロたちが精霊の姿に戻ってついていく、と言ってくれたこと。いきなり姿が消えたのにはびっくりしたけど、すぐに聞きなれた声が聞こえてきたので安心した。
『アタシたちの声が聞こえるのは、仮契約しているリタだけだから。アルにも教えてあげて』
「わかった」
いきなり腕の中から消えたぷっぴぃに驚いているアルに伝える。それを聞いて、アルはホッとしたようだった。そんなアルを見て、なにやらぷっぴぃが騒いでいるが無視する。
手ぶらになったおかげで歩くスピードも速くなる。無心で歩いていると、いきなりアルが足を止めた。
「っ! ちょ、アルどうしたの?」
もう少しでアルの背中にぶつかるところだった。責めるような口調で言ったのだが、どうやらアルには届いていないらしい。なにを見ているんだろう、とアルの視線の先をたどっていくと、前方から馬車が走ってきているのが見えた。
――うわあ。あれが、本物の馬車。
もしかして、あの馬車に声をかけるつもりなのだろうか。
内心ドキドキしながら黙って見ていると、馬車はまるで示し合わせたかのように、アルの目の前で止まった。
「え?」
御者が馬車から降りる。そして、おもむろにアルに抱き着いた。
「ええ?!」
「離れろ。気持ち悪い」
アルの一言で、御者が両手を上げ、素早い動きで離れる。
「申し訳ございません、アル様。一晩お顔を拝見出来なかった反動で、つい」
「つい、じゃない。やめろ」
「お命じとあらば。善処はさせていただきます」
ボーラーハットを目深にかぶっているせいで顔が見えない。が、軽口をたたき合っているのを見るに、どうやらアルの知り合いらしい。
二人の関係性も気になるところだが、今はそれよりも先程の会話の方が気になった。
一晩会えなかった、ということは、少なくとも昨日アルと会っていたということ。おそらく、森に入る前に。しかも、この馬車。導き出される答えは……
「歩く必要なかったんじゃない!」
ここまで歩いた分を返せ! とアルに詰め寄る。が、アルは呆れた顔。
「あるに決まっているだろう。昨日のことをもう忘れたのか? あんなところに馬車を停めたら、遠目からでもバレるだろう」
「あ」
「少しは頭を使え、頭を」
「ぐっ」
会話が途切れたタイミングで、御者が口を開く。
「アル様。こちらの、見目麗しき女性はどちら様でいらっしゃいますか? この私が見とれるほどの御方とは……頭の出来は残念ながらいまいちのようですが」
「彼女、リタが、私がここにきた理由だ」
「この方が」
「ああ」
「あ、頭の出来がいまいち?!」
「本当のことだろう」
「ぬっ……な、なんですか?!」
「いえ、お気になさらず」
と、言いつつ。御者はリタに近づき、上から下までじろじろと見ている。
「そういうのは後にしろ。今は時間が惜しい」
「失礼いたしました。それではリタ様。どうぞ、こちらへ」
御者に手を差し出され、リタは戸惑いつつもその手をとった。初めて乗る馬車。なんとか乗り込み、リュックをおろして人心地つく。アルは向かいに座った。扉が閉まり、しばらくして馬車が動き出す。
リタは小窓から外をのぞこうとした。が、アルから止められる。なぜ、と問いかける前に、自分で気づいた。――危ない危ない。また怒られるところだった。
ベッティオル皇国を出るまでは、気を抜いてはいけないのだ。どこに、皇帝の手の者がいるのかわからないんだから。
――ぷっぴぃ。皆、ついてきてる?
無言なのもつまらないので、心の中で話しかけてみる。
『うん~。今、屋根に乗ってるよ~』
――あ、上にいるんだ。
『そうそう~』
へえ~と天井を見上げていると、アルに声をかけられた。
「立たないように」
「え?」
「今、上を見ていただろう。いろいろ気にはなるだろうが、移動中はあまり立ち上がらない方がいい」
「わかった。っていうか、もともとそのつもりじゃないし。ただ……」
前かがみになって、内緒話をするように口に手を寄せる。アルは耳を近づけてくれた。
「この上にいるんだって」
「……ああ」
『周りは警戒しておいてあげるから安心しなさい』
『任せておけ!』
ネロとロッソの頼もしい言葉に、リタは微かに「ふふっ」と笑った。漏れた吐息がかかったのか、アルがびくっと一瞬だけ動く。
「あ、え、え~と、ネロとロッソが周りを警戒しておいてくれるから安心していいって」
「あ、ああ」
『……ちょっと、なにかあったの?』
「な、なんでもないよ」
『うそ。絶対なんかあったでしょう?! リタ気をつけなさいよ! もし、目の前の獣がリタに手を出そうとしたらすぐに私を呼ぶのよ。いい?!』
「う、うん」
そんなことあるわけないと思いながらも、ひとまず今は素直に返しておく。これ以上話を長引かせる方が悪手だ。
「どうした? 彼らはなんて?」
「な、なにかあったらすぐに呼びなさいって」
「そうか。感謝する、と伝えてくれ」
「う、うん」
リタは笑ってごまかした。
さりげなく元の位置に戻ると、アルも戻る。そこからは無言。
が、早々に耐え切れなくなり、リタは再び口を開いた。
「アル」
「なんだ?」
「御者の人って、アルの仲間なんだよね?」
「ああ、あいつのことか。あいつは……まあ、気にするな」
「いやいや。多分アルに近しい人なんでしょ? これからも接する機会があるなら名前だけでも知っておかないと」
途端にアルの眉間に皺が寄る。
――そんなに嫌なのか。
じっと見つめると、堪忍したかのように口を開いた。
「アイツの名はブルーノ。私の従者だ」
「ブルーノさん」
「あいつに『さん』をつける必要はない」
「そういうわけにはいかないでしょ。私はただの村人」
「リタはただの村人ではない。私の命を救った恩人であり、私が招いた客人でもあるんだからな」
「そんな大袈裟な……」
「陛下にも許可はもらっている」
「え?」
「だから、気にする必要はない」
「はい? いや、というか陛下にも許可をもらっているって?」
「? その言葉のとおりだが」
首をかしげ見つめ合う二人。
「私をボナパルト王国にっていう話は、ベッティオル皇国にきてから思いついたことなんじゃないの?」
あの連中を見て決めたことだったんじゃあ……と訝しげにアルを見やる。
「いや、あの提案はボナパルトを出る前から考えていたものだ。だから、陛下にも話を通しておいた」
「な、なんで?」
「……リタに危険が迫る可能性があると思ったから」
「え?」
「ベッティオルの皇帝は第一皇女をうちに預けた」
「……え?」
一瞬、思考が止まる。
「ちょ、ちょっと待って? そ、それってどういうこ」
『それはどういうことよ?! そんな話聞いてないわよ?!』
「ネ、ネロ今は黙ってて。私が聞くから!」
小声で慌てて制止する。ネロが静かになるのを待ってからアルに続きを促した。
「第三皇子が立太子する話はしただろう」
「うん」
「その話の際、皇帝から一つ提案をされた」
「提案」
「ああ。皇女をボナパルト王国で預かってほしいと。精霊に愛された国で、精霊と契約ができなかったものが立太子する。国が荒れるのは目に見えている。落ち着くまでの間、預かってほしいと」
「……皇帝はそれだけ皇女様を大事に思っているんだね」
胸が微かに痛んだ。が、アルは首をかしげる。
「さあ、それはどうだろうな。皇帝が第一皇女だけをうちに避難させたのは間違いない。皇帝の本心はわからないが……私には娘かわいさにそうしたようには見えなかった。なにか別の思惑がある、そう思えてならない。間違いなく、ベッティオル皇国は荒れるだろう。そうなるように、皇帝が仕向ける可能性もある。そして、その渦中にリタも巻き込まれる可能性も」
「なんで私が……」
「……私が皇帝の前でリタの存在を匂わせてしまったせいだ」
「それは違うでしょ。っていうか、もしかしてそれで責任を感じて私を匿おうなんて考えたってこと?!」
「いや。命の恩人に恩返しをしたいというのが一番だ」
「その言い方だと、多少なりとも責任感じてることになるけど」
「ぐっ」
「アルは、ただヴェルデの名前と見た場所を口にしただけでしょ。そこから私に結び付けたのはあっち。今まで放置していたくせにね。ほんとクソ」
――利用されるのも。殺されるのも。絶対にごめんよ!
「と、とにかく、私は国を出る前からリタが狙われる可能性に気づいていたわけだ。そして、実際にリタを捜す、いかにも怪しいやつらに出くわした」
「つまり、アルは本当に私のためを思って提案してくれたって言いたいんだ?」
「まだ疑っているのか? 前にも言っただろう。私は恩を仇で返すような甲斐性なしではないと」
「いや、だって、アルは約束したお土産持ってきてくれなかったし」
「それは、おまえ。どう考えてもそんな場合じゃないだろう」
呆れたようなアルの視線から逃れるように、フンッと顔を背ける。
「それはそれ、これはこれよ。でも……」
ちらっとアルを見る。
「仕方ないから、今後に期待しておいてあげる」
にんまり笑ったリタに、アルは溜息を吐き出したのだった。




