68話
「「――っ」」「……」
振り向いた白猿に、硬直したままの猫目と氷室が息を呑む。
何故今の間に、少しでも逃げようとしなかったのか、否、できなかったのだ。
猫目の全身には血管が浮き出ており、全力で何かに抵抗しているのが分かる。
先の呪言、『――』は、胡桃に向けて唱えられたものではない。猫目の脚力を警戒して、三人に向けて唱えられたものであったのだ。
白猿は一度目を瞑り、心地良い悲鳴に耳を澄ます。
四匹のゴリラは、自衛隊の隙を縫い、遊ぶ様に避難民を一人ずつ殺していく。
戦える者はわざと殺さず、逃げ惑う様を楽しみながら、着々と仕事を遂行していく。
抵抗出来る者は、もういない。
自分の望んだ空間になったこの場所に、白猿は自然と笑みを零した。
あとは各地に散らせた幹部達に連絡を取り、集合をかければ全て終わる。
ようやくだ。ようやく、自分の、自分だけの国が完成するのだ。
覇道を進む準備が、完了する。
「……猫目さん、氷室さん、私が不甲斐ないばかりに、ごめんなさい」
笑顔を向ける白猿を見て、加藤は全てを諦める。
そんな彼に、二人と二匹は目で訴えた。
「あ、やま、ら、ない、で」
「そ、う、です。あい、て、が、わる、すぎ、た」
「キ、ゥ」「ン、グォ」
「ふふっ、全くです。……ここまで、結構頑張ってきたんですけどね」
加藤は今までの死闘を、楽しそうに振り返る。
コボルトに襲われ、猿に襲われ、ワーウルフに襲われ、何度も何度も死にかけた、苦しくも充実した日々を。
そして最後に、こんな世界になったにも関わらず、水族館に遊びに来た二人を思い出し、笑う。
今思えば、自分がこうして生きているのは、彼等のおかげなのかも知れない。
ただ生を楽しむ為に、ただ欲望のままに、そんな風に生きる彼等を見て、生き足掻く事に大した理由なんていらない事を知った。
大切な者を守る為、害なす者は全て殺す。
自分の心を定めてくれたのは、間違いなくあの二人だ。
彼等は、無事でいて欲しいなぁ。
加藤は自分の心の様に晴れ渡る空を見上げ、クスリと笑う。
「……あぁ、まだ生きたかった」
――強者は死を覚悟し、
――弱者は死を受け入れられず泣き叫ぶ。
――白猿は愉悦に浸り、
――ゴリラは嘲笑に踊る。
――人類の、二度目の敗北。世界がそれを、肯定した。
……ただ、一人を除いて。
「よぉ、久しぶり」
それは漆黒の彼の声でも、真白な少女の声でもなかった。
場違いな程に軽く、飄々としていて、されどドス黒い悪意に塗れた声だった。
いきなり現れた二人に、場の全ての生物が硬直する。
恐怖に毛を逆立たせるゴリラは、彼が無造作に振り撒く魔力に王を幻視した。
それ程までに強大で、計り知れない悪の権化。
あれは、何だ?
「……」
動けないのは、白猿も一緒であった。
しかしそれは恐怖ではなく、驚愕と最大レベルの警戒から。
奴は、この男は、ここ特区内で最も危険視していた敵性生物の内の一人。皇居周辺を支配する、王だ。
何故ここにいる?幹部は何をやっている?転移を逃れた?どうやって?それよりも、何故接近に気づかなかった?何故――
白猿の頭が高速で回転する中、その男、藜は笑う。
「なんだよぉ、無視とか酷くね?」
「ボスが殺意撒き散らすからだろ。周り見てみぃ、全員固まっちまってるわ」
笠羅祇の言葉に、藜は初めて白猿から目を逸らす。まるで、それ以外には興味が無かったと言わんばかりに。
「少ねぇな。大半が飛ばされたとして、何人残ってんだ?」
「百人いねぇんじゃねぇか?」
「……しゃぁね、これからの方針もあるし、救ってやるか」
「それがいい」
藜が避難民から目を逸らした、
瞬間、
「…………え?」
四匹のゴリラが一斉に潰れ、地面の染みとなった。
トマトが潰れた様な跡に、自衛隊含め、全員何が起きたか分からず放心する。
「おら走れ走れ。……たく、あっち任せるぞ」
「あいあい」
藜は白猿に向けて、笠羅祇は集団に向かって歩き始める。
「――ッ、……」
「そんな警戒すんなよ」
後方に大きく退く白猿を見て、藜は笑う。次いで固まる三人を覗き込んだ。
「あ〜、アイツの魔法にやられてんのか。てかアンタ強いな、何モンだ?」
藜は加藤に向けて尋ねる。
「加藤と申します。此方もお尋ねしたいのですが、貴方こそ何モンですか?」
加藤は正直、冷静を保つのがやっとであった。
目の前の男から感じる圧は、常軌を逸している。
それこそ、白猿や、ノエルさんをも超えているかも知れない。もしかしたら、まささんと同等……。
そんな人間がいたことに、驚きを隠せなかった。
「あぁ、アンタが加藤さんか!まさから聞いてるぜ。どうりで強いわけだ。俺は藜というモンだ。よろしく頼むよ」
「え、ええ。……まささんをご存知で?」
「ああ、マブダチよ」
そんな人がいたとは、初めて聞いた。というか藜って、まさかあの藜組の?
「そうか、まさの知り合いとなると、無下には出来ねぇな。今助けてやるから待ってな」
瞬間、三人と二匹の身体を、何かが破れる感覚が襲った。
「どうだ?アイツの攻撃も結局は魔力が元だからな、どうとでもなる」
「しゃ、喋れるニャ」
「え、ええ」
「にゃってお前、くははっ、面白いな!」
「な、なんニャ!笑うニャ!好きでやってるんじゃないニャ!」
「分かったにゃ。いいから早く行くにゃ。あの爺さんが外まで送ってくれるにゃ」
「ヌニャーー」
走り出す猫目の背中で、加藤が慌てて忠告する。
「藜さん!奴の詠唱は長くなればなるほど威力が上がります!気を付けてください!」
「おぉ、そりゃ知らなかったな。ありがとう加藤さん!ゆっくり休んでくれ!」
「は、はい!」
「おい笠羅祇‼︎この三人は丁重に扱え‼︎まさとノエルの客だ‼︎」
「ノエル嬢の……、あい分かった!任せろ‼︎」
絶えず余裕を崩さない彼に、加藤も緊張を解かれてしまう。
そんな中、猫目がボヤく。
「……あの男、ヤバイ気がするニャ。ずっと笑ってるけど、なんか、とても気持ち悪いニャ」
「獣の勘ってやつ?」
「んニャ」
「……確かに、私も少し怖かったですね。だいち君とうみちゃんなんて、固まったまま一言も喋れなくなっちゃってますし。こんなの初めてです」
生物の本能が嫌悪する程の、煮詰められた悪性。獣には、それが分かってしまうのだ。
三人は手を振る藜に見送られ、その場を後にした。
――藜は手を振りながら、白猿に尋ねる。
「……なぁクソ猿、何で転移が使えねぇか不思議だろ?」
「……」
地面に『出口』を書いていた白猿は、心中を当てられ、ピクリと反応する。
白猿は準備を怠らない。白猿は油断しない。故に、彼はこの様な状況も想定していた。
その時に備え、数㎞先に第二陣を待機させていたのだ。その中の数匹に自身の血を渡し、万が一の為に逃げられるようにもしていた。
大群を此方に送り込む転移、此方から自分が逃げる転移、そのどちらもが、何故か反応しないのだ。
藜は杖で肩を叩きながら、その答えを教えてやる。
「七、八百はいたか?そいつら全部染みになってるぞ」
「……」
「一箇所に纏まってたから楽だったよ。一瞬で、グチャ、だ」
ケラケラ笑う藜に、白猿は立ち上がる。
そこに、笠羅祇の声が響いた。
「なぁボス!そろそろ良いかッ?」
「ああっ、構わない!やってくれ!」
「あいよ」
笠羅祇は刀を引き抜き、地面を横一文字に切りつけた。
「――ッ「させねぇよ?」っ⁉︎」
駆け出そうとした白猿の全身が、上方からの見えない力に押さえ付けられる。
瞬間、
「『幽世』」
二人を除いて、世界から色が失われた。
全壊し瓦礫となった校舎も、トレントの林も、立ち並ぶ民家も、目に映る風景は何も変わらない。
只そこに、色が無いだけ。
二人以外の全てが、灰色に染まっているだけ。
「んじゃ後で迎えに来るからよ‼︎死ぬなよー!」
聞こえてくる笠羅祇の声に、藜はへいへいと応える。何故なら此方の声は、もうあちらには届かないのだから。
無理矢理立ち上がり自分を睨む白猿に、藜は胸躍らせた。
――「……え?消え、」
納刀した笠羅祇は、未だ唖然とする人間達に一言。
「そんじゃ行くか。そこの御三方、俺の隣にいな」
黒いコートを靡かせ、さっさと歩きだしてしまう彼に、先程目を覚ました亜門が慌てて尋ねる。
「す、少しいいですか?」
「何だ?……ん?お前さん、あん時の総隊長殿か」
「はい。お久しぶりです」
亜門は一度、藜組の本部に行っているのだ。主に千軸のせいで。
「カハハっ、随分派手にやられたな。どうだ、奴は強かったか?」
歩きながら会話する二人に、避難民もぞろぞろと着いていく。
「……はい。全力であったにも関わらず、一撃でのされました」
悔しがる亜門を見て、猫目におぶられる加藤も加わる。
「亜門さんは凄かったですよ。あの時は満身創痍だったじゃないですか」
「いやいや、それを言ったら、今我々が生きているのは加藤さんのおかげですよ。私は気絶していましたが、白猿と同等に戦っていたらしいじゃないですか」
「ほぉ」
笠羅祇が興味深そうに加藤を見る。
「確かに良い闘気をしているが、……全く威厳が感じられんな」
「身体が動かなくて、いやはやお恥ずかしい」
加藤はすみませんね、と猫目に苦笑する。
「それに、白猿は全然本気では無かったですよ。寧ろ楽しんでいました」
底の知れなすぎる化物に、二人が沈黙する。そして過ぎるのは、そこに一人残った組長だ。
「……その、あの時、白猿と藜殿が消えたのは、一体どういう……」
亜門が疑問を口にする。
笠羅祇が刀を引いた瞬間、遠方にいた二人が突如として消えたのだ。
避難民側からは、そのように見えていた。
「空間を隔離したんだよ」
何でもないように笠羅祇が言う。
「空間を、隔離?」
質問を繰り返される老人の目が、鋭く細められた。
「……皆まで言わせるなよ?俺がそれを話す義理はねぇ。まさと交流があるなら、それが何なのか予想はつくはずだがな」
「……少し深掘りし過ぎました。申し訳ない」
謝罪する亜門に、彼は溜息を吐く。
「そう警戒しなさんな。いずれ国の体制が整えば、嫌でも打ち明けなきゃならん時が来るだろ。……ボスの意向で、俺達はそっちに舵を切るしな」
「舵?」
「こっちの話だ、気にすんな。それに、こんな大勢の前で能力の話をするなんて、ちとデリカシーが足りなくねぇか?」
笠羅祇が笑う。
「重ねて申し訳ない。助けに来てくれた恩人に、悪い事をしてしまった。
……改めて礼を。我々を助けてくださり、有難うございます」
亜門が頭を下げるのに合わせ、全員がそれに倣う。
「助け、ああ、そうだな。助けたな。良いってことよ。人間困った時は助け合いだろ?」
笠羅祇は刀を肩に担ぎながら、ガハガハと笑うのだった。
藜。




