11 早朝のダウン・アンダー
■8月5日
窓越しに突き刺すような朝日に起こされる。夢なのかを確認するために、念のため横を見る。隣には茜が寝ていた。
はだけたシャツに目が行ったのは少しだけ。「女性の寝顔は見るもんじゃないな」とか失礼な感想が頭に浮かぶ。心の恩人とも言うべき彼女に対して出てくる言葉がこれだから、僕はなんて薄情な奴だろう。自分で言うのもなんだけど。
ソファの下で携帯のランプが光っている。僕は画面を見ないように注意しながら、電源をオフにする。
一瞬、彼女が起きる前に逃げ出そうかと思ったが、そうもできない理由がある。
時計を見ると朝の九時前。茜の家庭についてそんなに詳しいわけじゃないが、少なくともこんな時間に親御さんと鉢合わせるなら、何かしらの言い訳は必要だろう。
観念して茜の肩を揺さぶる。
「茜、起きられる?」
「ん-、ふぁああ。もう朝?」
「もう朝。学校だったら、とっくに遅刻してる程度には」
茜は一旦体を起こしたものの、半開きの眼のままですぐに僕の胸に倒れ込む。両手が背中をはい回り、そのままごしごしと顔を擦り付けてくる。
「あのさ――」
僕が口を開くと同時に、茜はがばっと顔を上げる。目はすでにしっかりと開いていた。どうやら僕に何も喋らせないつもりのようだ。
「ごめんね、寝ちゃってて。大丈夫、お母さんはもう仕事に行ってると思うから、今は誰もいないよ」
要点を得た回答に安堵しつつも、いかにも手慣れた様子の彼女を見ると、いらいらとした理不尽な怒りが胸の奥でくすぶってくる。
「顔、洗うでしょ? シャワー浴びてもいいよ。どうする?」
「いや、顔だけでいいや」
タオルを片手に僕が洗面所から出てくると、茜はトーストと目玉焼きを焼いていた。
「別にいいよ、帰りにコンビニでも寄るから」
「食べといたほうがいいって。どうせ一人になったら、食べる気なくなるんだから」
「いらない」
茜は断る僕に向かい合い、じっと目を見ている。
「食べてくれないかな?」
真剣なような、甘えたような口調。僕はうっかり目をそらしてしまう。
「……食べたら帰るよ」
「うん、わかってる」
茜は二人分のトーストにマーガリンを塗っていく。そこまでしなくてもと思うけれど。
色々とわかっているふうな茜の言葉に、僕は素直に従っている。何もしなくていいのはすごく楽だから。
うすうす思ってはいたけれど、茜は僕よりもずっと大人だ。落ち着いて、先を見て行動できるって意味で。
彼女の後姿には、なぜかマリが重なっている。
僕はどこを見ているんだろう? 今胸にある茜への感情は、たぶん恋愛じゃあないだろう。たぶん、辛くて何かによっかかりたいだけなのだ。僕より強い彼女の傍が、すごく居心地がいい。
……本当に、それだけのことなんだろうか?
茜の家からの帰り道、どうしたって絵里の家の前を通りたくなくて、遠回りしてアパートに戻る。そんな健気な努力にかかわらず、絵里とはアパート前で鉢合わせた。
先に気付いたのは絵里のほう。
「あ、おはよ。何度か電話したんだけどね、出なかったから来ちゃった」
しまったな、あと五分遅ければ出会わなかったかもしれないのに。ドアの前だ、逃げ場はない。こっちは心の準備もできていないっていうのに。
「おはよ。……山田は?」
「え? あのあと、すぐに帰ったよ」
「そっか」
「とりあえず、中、入る?」
「いや、いいや。顔見たから安心したし。それに祐樹、疲れてるでしょ?」
疲れてる、か。絵里がそう言うのなら、そうなんだろうな。無意識に顎に手をやると、ざらざらした無精ひげの感触がある。それに気づいたときはじめて僕は、前科を作ってしまったということを理解した。
動揺を隠そうとして出た言葉は、最悪の一歩手前のチョイスだ。
「なんで山田と付き合おうと思ったの? まだ、会ってそんなに経ってないのに」
「え? うん、なんでだろうね」
茜は天井を見上げるようにして、何か考えている。
やめてくれ、聞きたくなんかない。特に今は。意気地なしと言われてもかまわない。
言葉を聞いてしまったら、次は現実を受け止める番だから。
願い虚しく、絵里は自分の言葉を組み立てる。誠実に。
「なんでかって聞かれると、自分でもわかんない。何となくかな。何か変わらなきゃって思ったのはあるから、そのきっかけになってくれればいいのかな?」
この時ほど、高校の頃の受け身だった自分を呪ったことはない。
絵里が惹かれたのは”今”じゃなくて、”未来”だったのだ。僕は絵里のことを知っていて、絵里も僕のことを知っていて。そんな二人の築く未来なんかグレーゴルの部屋のようなもので、中身がどう変わろうが、想像の悪魔の届く範疇でしかないのだ。
僕は理解しておくべきだったんだ。絵里が、自分の部屋を抜け出してしまっていることに。山田と作る本当の意味での”未来”に憧れていることに。
そして、過去の想いを未だに引きずっているのが自分だけだったということに。
「僕は、」
喉が掠れて、とても一息では言えなかった、声にならなかった。
「僕も、絵里が好きだ」
絵里は優しく微笑んだ。
「ありがとう」
それはどういう意味でのありがとうなのだろう? 当然、聞き返す勇気なんかあるはずもなく。
「じゃ、私、そろそろ帰るね」
結局僕は、絵里を引き留められなかった。
何も変わらないままだった。
絵里が最後まで「絵里」だったから、引き留められなかったんだ。




