8:雑草の根
カインを勇者にするという神託が下った翌日の昼下がり。
宰相エルガと財務大臣トリエールは、昨日と同じ部屋で再び頭を抱えていた。
向かい合った二人の間にあるテーブルには、午前中に王宮を訪れた教皇から渡された封書が開かれている。
「神託で新たな勇者が示されたのはいいが……」
宰相は神妙な面持ちで腕を組んだ。
その視線はテーブルの上の封書に注がれたままだ。
「ええ、しかしそれが……、まさか前の国王だとは……」
財務大臣も釣られるようにして溜息をつく。
教皇が口頭だけでは心許ないので念の為に、と持ってきた封書の中身。
そこには間違いなく、前国王カインの名が書かれていた。
流石にこれは予想外もいいところである。
大逆転。
これまで勇者ヒロトという勝ち馬に乗ろうと前国王カインを否定してきた者達にとっては、最悪の展開と言っていい。
「新たな勇者カインに聖剣を与え、魔王を打ち倒せ……、ですか。ということは陛下は……」
五体不満足となったヒロトは、寝室に寝かされたままだ。
単独では生活の一切がままならず、侍女や正妃アシェリアの介護を受けている。
こんな状態では、魔王どころか魔族の一人とすら戦うことは出来まい。
宰相はヒロトが勇者としての資格を失ったのだと考えていた。
「用済み、ということになるのでしょうな。あの体では日常生活すら満足にこなせはしないでしょうし。……我々もこの辺りが引き際かもしれません」
財務大臣もそれに同意する。
表現の問題はともかくとして、女神が勇者ヒロトを見捨てたのだという方向性にまず間違いはないはずだ。
二人はこの困難をどのようにして乗り越えようかと考え始めた。
もちろんヒロトは抜きで、だ。
別に彼の支持者は勇者という存在を盲信している人間だけではない。
単に甘い汁を吸おうと近寄って来た者も多いのである。
ではこの二人はいったいどちらなのか。
まさか独善的で完成度の低い思想を、崇高な理念という言葉に置き換える行為自体に興味など持つはずもなく、ある程度の知能を持つ神官が例外無くそうであるように、彼らもまた後者なのである。
「幸いにして、我々は直接クーデターに関わったわけではない。禊の役目は古き勇者と……、あとは騎士団長辺りにでも果たしてもらうとしましょう」
宰相は既にヒロトが完全に役目を終えたのだとみなした。
役割を終えた役者は退場せねばならない。
その点では騎士団長も同じだ。
十年前は別々の組織であった騎士団と近衛隊。
しかし現在は近衛隊が騎士団に統合され、騎士団長が事実上の軍事部門最高位の役職となっていた。
そしてその地位にいるのは、クーデター当時の時点で既に騎士団長だったアーカムだ。
言うなれば、彼はカインを国王の地位から引きずり出した主犯格の一人であり、復権が決まったカインの怒りの矛先を受け止めるにふさわしい人材なのである。
「カインを国王にしろとは書いてありませんが、平民のヒロトが勇者の栄光で玉座を手に入れた以上、元々国王だったカインがその地位に戻るのは確実。とくれば罰せられる簒奪者達と、この十年間、恥を耐え忍んだ我々、というシナリオでいかがですかな?」
「いいですね。それで行きましょう」
宰相の提案に対し、財務大臣はあっさりと乗った。
勝ち馬に乗るのはどの陣営か。
彼らの関心は既にそこへと移っている。
仮にも勇者ヒロトを一方的に倒した魔王という存在の脅威は、未だ純然と残っているというのに。
遠くの物は小さく見え、近くの物は大きく見える。
王宮に身を置き、魔王の姿を直接見たことがない彼らは、新たな勇者カインをぶつけるだけでその問題が解決すると思っていた。
「カインがいるのは東の辺境でしたか。そうすると、迎えに行く者を選定せねばなりませんな。その間に仕込みもせねば」
顎を撫でながら、早速、今後の具体的な青写真を考え始めた財務大臣。
彼は、考え始めた直後にあることに気がついた。
「教会と反国王派はどうしましょう? 反国王派は排除できても、教会を出し抜いてというわけには行きませんぞ?」
「……教会とは今回も手を組むしか無いでしょうな。また布施を要求されるでしょうが」
「反国王派は? ”今までヒロトに反抗的だったのはカインを信じていたからだ”と言われてしまえば、大義名分をあちらに持っていかれることになる」
宰相や財務大臣達を中心とする国王派。
教皇を頂点とする教会系勢力。
そしてこの十年間冷遇されてきた反国王派。
敵の敵は味方。
反国王派というわかりやすい名称も相まって、復権したカインに取り入る難易度は、彼らがおそらく最も低い。
現在は彼らを国の中枢から完全に排除しているので、情報面ではこちらが優位に立っているが、しかしカインの心象次第では容易く逆転が可能だ。
「我々も監視の目を警戒して表立った動きが出来なかったのだと言い張りましょうか。カインは性根がお人好しだと聞きますし、それで最悪でもイーブンには持ち込めるのではないかと」
宰相エルガと財務大臣トリエール。
彼らは肝心なことを見落としていた。
人は時間と共に変わる。
玉座から蹴落とされ、真の忠臣を目の前で処刑され、そして復讐の機会を十年待ち続けた男の性根が、まさか以前と同じはずはないのである。
★
神託から一週間ほどが経った頃。
カインは未だ罪飼いの一族の監視下にいた。
この十年と同じ生活。
表面上はそれをまだ続けていたのである。
もちろん、手に入れた勇者の力を使えばここから出ることは容易だ。
堀を乗り越えていってもいいし、見張りの兵達を皆殺しにしてもいい。
しかしカインはその選択肢を選ぶこと無く、時が来るのを待っていた。
一応、”こっそりと外に出て少々の活動はしている”が、監視に気付かれる前に戻るようにしている。
今まで通りに畑を耕し、今まで通りに食料の調達に時間を費やす。
世間から隔離されたこの空間で十年を過ごした彼は、世界が現在どういう状況であるのかをまだ把握していない。
しかし政治的な影響力を手に入れるためには、ここでその時を待つべきだと判断したのである。
勇者の福音という、個人レベルでの武力は手に入れた。
しかし本当に必要なものはそれではない。
密かに確保した戦力を動かして大きな戦果を上げるためには、やはり自分自身を餌にして敵を集めなければならない。
カインは魔王討伐になど向かう素振りを一切見せないまま、待ち続けた。
先に表立って動いた方が不利になる。
それは果たして王族として受け継いだ才能なのか。
カインの並外れた嗅覚が、この状況から勝機の匂いを正確に嗅ぎ分けていた。
普段は遠くから監視をしているだけの兵士が近づいて話しかけて来たのは、そんな時である。
「か、カイン殿」
こうして誰かに話しかけられるのは何年ぶりだろうか?
もちろん女神からは先日話しかけれてはいるのだが、普通の人間から、という意味では本当に久し振りだ。
(やけに焦っているな。……来たか?)
普段は汚物か害虫を見るような視線を向けて来るだけの男の声が、やけに上擦っている。
それは焦りか、あるいは恐れか。
今までとは違い、明らかにカインを自分よりも格上の人間と認識していることだけは疑いようが無い。
「……何か用か?」
カインは本音を感づかれないように注意しながら、この十年と変わり無く見えるように意識して答えた。
足元をすくわれるような可能性は僅かでも削り落とさなければならない。
「こ、これまでのお勤め、ご苦労様でした。お迎えが来ています。私と一緒に塀の外までお越しください」
確信。
相手の使い慣れていない敬語を聞いた時、カインは段階が次に進んだことを確信した。
監視兵と共に塀の外に向かう。
「お待ちしておりました、新たな勇者カイン様」
「……何の話だ?」
代表と見られる神官に対してカインはとぼけつつ、罪飼いの一族を従えて自分を出迎えた数十人の団体を冷静に観察した。
彼らの服装を見る限り、どうやら、大きく分けて二つの勢力の人間で構成されているらしい。
一方は教会系、もう一方は貴族系だ。
おそらく前者は教会系の中でも主流派である教皇派、後者は国王ヒロト派だろう。
(”殿”ではなく”様”と来たか)
勇者というのは人間社会における地位ではないので、平民となったカインに対しては殿をつけるのが、この世界の文化では正しい。
その辺の区別も理解しようとしない無学な大衆ならばともかくとして、彼らぐらいの地位にある者達であれば、まず間違えることはないだろう。
となると、これは政治的な思惑を反映しての発言だと判断するべきだ。
(ふん、早速取り入る腹だな)
そもそも、だ。
勇者ヒロトに自分で王の地位を手に入れるような考えが出来るとは思えない。
現在はどうか知らないが、少なくとも十年前のあれは勇者の力以外に何の取り柄も無かったのだから。
となると、背後で誰かが焚き付けていたのは明白。
そう、例えば目の前の彼らのような。
「新たな魔王が出現し、女神様の神託によってカイン様が新たな勇者に選ばれました。つきましては然るべき処遇の後、我らと共に新たな脅威に立ち向かって頂きたく」
自分の頭で考えようとしないものには全く気が付かれないであろう、様々な思惑が滲み出た神官の言葉。
流石に長年に渡って大衆を動かし続けてきた者達だ。
ヒロトぐらいであれば日常会話を繰り返しているだけでも取り込めるだろう。
「俺が勇者? 証拠はあるのか? 俺自身には特に何の変化もないが」
もちろん嘘だ。
女神と夢で話して以降、カインの体には極めて大きな変化が現れている。
しかしここで手の内を見せてやる義務も義理もない。
「聖剣を持ってきております。これを抜いて頂ければ」
貴族側の代表格と思われる男の合図で、後ろにいた者が聖剣をカインに差し出した。
魔王軍の使者が、両手両足を失った勇者ヒロトと一緒に王宮まで届けた物である。
「聖剣……。ヒロトがよく許したな?」
カインは、ヒロトが今どこでどういう状況下に置かれているのかを把握していない。
それ故に探りのつもりで言ったのだが、しかしこの様子では彼が既に冷遇され始めているであろうことは想像に難くないだろう。
「ヒロト殿は先日新たな魔王と戦い、深手を負って寝たきりの体となりました」
ヒロト”殿”。
その呼び方の意味は非常に大きい。
なぜなら、理由はどうあれ現在の国王はヒロトだからである。
ここは本来であれば”陛下”と呼ぶべき場面だ。
それを敢えて名前で、しかも先程カインに”様”をつけたのに対して、ヒロトには”殿”をつけたわけだ。
本来であれば逆になるというのに。
そしてそれが意味するのはつまり……。
「ほう、”陛下”が寝たきりか。それは大事だ」
カインは敢えてその部分を強調してみた。
もちろん彼らの反応を見るためと、今後の話を有利に進めるためにである。
「……簒奪王ヒロトの時代は終わりました。女神様がカイン様を勇者に選ばれたのを契機に、人々は真実を知ったのです」
「真実? なんだそれは?」
白々しい。
カインには相手が何を言おうとしてるのかが、すぐにわかった。
それにしても簒奪王とは……。
しかし今はそれに触れるべき時ではない。
「十年前、ヒロト達が我らを騙し、不当に王の地位を得たという事実を、我々もようやく理解したのですよ」
「左様。きっと、これを機に物事をあるべき姿に戻せという女神様の思し召しに違いありません」
貴族の男が神官の方に視線を向けると、彼らもまたそれを肯定して頷いた。
顔色一つ変えない即答。
そしてこの淀みない三文芝居。
なるほど、演劇が高位の者達の嗜みとして選ばれている理由がよくわかる。
つまりはこのやり取りも予め予想して打ち合わせていたわけだ。
(そもそも迎えにこの人数をよこす時点でおかしいか)
カインは一団を改めて見渡した。
見知った顔は一人もいない。
(当たり前だな……)
彼らはもう死んだ。
もしも生きていたのだとしたら、この行動がカインの不興を買うだけだとすぐに気がついただろう。
受け取った聖剣を抜いたカイン。
本音を言えば、この場にいる者達をこの剣で皆殺しにしたい。
が、しかしそれでは駄目だ。
雑草を抜くにも丁度いい力加減というものがある。
勢いをつけて力任せに抜こうとすれば、葉や茎のところで千切れてしまい、根を引き抜くことが出来ない。
ゆっくりと、そして注意深く力を込めなければならないのだ。
(この世界に深く根を張った雑草を……、根こそぎ引き抜くためにはな)
怒りの赤。
失望の青。
それらが混じれば狂気の紫となる。
カインがゆっくりと引き抜いた聖剣。
その刃は悪意の黒いオーラを纏い、そして僅かに紫の輝きを放っていた。




