24:ボスおむつ、立つ
「ウォォォォォォン!」
『聖獣』はカインを踏み潰したままで吠えていた。
その感情は間違いなく怒りだ。
天が震え、青い空に浮かんだ雲が歪んでいく。
”彼女”の主である『聖女』が傷付けられた事に対して、ルシアは怒っていた。
「ア……、アァ、アァァァァァアアァァァァア!」
少し離れた位置には、胸の傷から触手を生やしたリリアナが、狂気の金切り声を上げている。
その振る舞いにはもう微塵の理性も感じ取れない。
しかしその本能は戦うことを忘れていなかったらしく、品の無い足取りで王都へと向かって歩き始めた。
呼応してルシアもまた歩き出す。
どうやら動かなくなったカインに対する興味は既に失ったらしい。
四足獣は飼い主の指し示した獲物を仕留めようと、大地を蹴った。
ドドドドドッ!
地響きと共に巨体が王都へと迫る。
「ちっ! 来るぞ! お前ら避けろ!」
アベルはカインの安否確認を後回しにすることにした。
とにかく今は健在が確認されている味方を守ることが優先だ。
「おいおい……。退避! 退避だ!」
その叫びが全員に届いたかどうかも怪しい中で、カルクは外壁にいた味方に指示を出した。
幸いな事に魔王軍の主力は既に王都の外に展開していて、『聖獣』の進路からも外れている。
「って、アベル! お前はどうするんだ?!」
人間の魔族を両脇に抱えて飛び降りたカルクは、アベルがまだ動いていないことに気がついた。
このままだとルシアが直撃だ。
「俺はあいつを止める!」
「うぇえっ! いやいやちょっと?! 流石にそれは無理でしょアベルさん!」
”おむつ”部隊を率いていたティナも、それは無謀な選択だと一瞬で結論した。
だがアベルにその意見を聞き入れる余裕は無い。
魔王は正面から迫る敵に意識を集中した。
リリアナの移動は人間の歩く速さと変わらないが、ルシアのそれは桁違いだ。
この質量がこの速度で突っ込んできたら、普通の人間や魔族に止めることなど出来ない。
止められる可能性があるとすれば、勇者の力と聖鎧で強化された自分ぐらいのものだろう。
体格差を埋めるために、アベルは見えない壁を目の前に展開した。
先程の戦いでは空気弾でこれを破られているから、直接突っ込んで来る『聖獣』を止めるにはきっと不十分だ。
アベルは聖剣を盾のように横に構えて、両手を壁に触れた。
(この壁はあくまでも力を伝えるための接触面。……止めるのは直接だ!)
人外であることを露呈したリリアナのことも気になるが、目の前に迫った脅威には勝らない。
勇者の力と聖鎧によって二重に強化された力で、アベルはルシアの正面に立ち塞がった。
突っ込む聖獣。
待ち構える魔王。
両者の距離が縮まっていく。
そして――。
……ドンッ!!!!!
「――ぐっ?!」
空気が爆ぜ、アベルを特大の衝撃が襲った。
キィィィィィ――ィィィィンッ!
聖鎧の中でも、彼の関節と接地の強化を担当する箇所が上限一杯まで力を解放し、悲鳴にも似た駆動音を響かせていく。
(くそっ! 駄目か?!)
敵の勢いは殺した、しかし止まらない。
アベルはまるで馬に引きずり回される受刑者のような心地で、そのまま背後の外壁に押し付けられた。
「グルルルルルル!」
それでも『聖獣』は手を緩めない。
圧倒的な力でそのまま押し込んでいく。
「おいおい、嘘だろ?!」
どうせなんだかんだでアベルが止めてくれるだろうと、内心で高を括っていたルッカ。
しかし現実はその想定線をあっさりと下に突き抜けた。
ガァンッッ!!!!
ガラガラと音を立て、外壁がまるで子供の作った砂城のように崩れていく。
「おお! いいぞ!」
「流石は聖獣様だ!」
戦意を喪失し、敵に背を向けて逃げていた聖女軍の人間達は足を止め、反撃の兆しを見て顔色を変えた。
先程までは責任転嫁のことばかり考えていたというのに、一瞬でこの世の勝者気分だ。
だが――。
「ぎゃあああ!」
王都からはかなり距離がある。
『聖獣』の活躍に目を奪われた彼らの背後から悲鳴が上がった。
「今度はなんだ?!」
「魔族かっ?!」
「せ、聖女様?」
「ひっ! 化物!」
魔王軍の奇襲かと思って振り向いた彼らの目に入ったのは、胸から生えた触手を振り回し、味方であるはずの人々を蹂躙する『聖女』リリアナだった。
彼女は瞬きもせずに目を見開き、まるで触手の方が本体であるかのように体を仰け反らせている。
人の皮を脱いだ二本の触手は剣を折り、盾と鎧を貫き、普通の人間に対して身の程を知らしめていた。
「アァァアァァァァァアァアアアアッ!」
人ならざる金切り声がリリアナの口から響き渡る。
それは十分な覚悟無く戦場へと足を踏み入れた者達の足を震えさせ、逃亡の機会を奪い取った。
人は自分の確信が崩れ去った時、同時に指針をも失う。
端的に言って、彼らは混乱したのだ。
自分達は『聖女』についてきたはずだというのに、実際のそれは『聖女らしき別の何か』だった。
自分達には神の正義があったはずなのに、それは否定された。
それとも……。
この内臓のように赤い肉の触手を生やした少女が、神の御使いだと言うのか?
「お、俺は違う……。こうなったのは俺のせいじゃねぇ! お前らがなんとかしろよ!」
「何言ってやがる! 俺が悪いんじゃねぇよ! 関係無いのは俺の方だ!」
「悪いのはあんたらでしょ?! 私達まで巻き込むんじゃないわよ! これだから男は!」
人の本質は危機によって暴かれるというのなら、これが彼らの、あるいは彼女達の本性だということなのだろう。
彼らはとにかくこの人外の相手という厄介な仕事を他の誰かに押し付けて、自分だけは助かろうと思っていた。
平等だの公平だの、そんな言葉を彼らが嬉々として叫んでいたのはいったいいつのことだったのか。
二重規範という傲慢が大罪の一つだとするならば、リリアナの行動は正に『聖女』に相応しい行動なのかもしれない。
容赦無く貫かれ、引き裂かれていく人間達。
だが魔王軍にそれを気にしている余裕は無い。
彼らにとってはとにかくまず『聖獣』だった。
「撃て撃て! アベルを援護するんだ!」
王都の中へと入り込んだ『聖獣』がまだ何かを押すような動作を続けているのを見て、カルクはアベルがまだ健在だと判断した。
しかし状況は悪い。
矢と魔法、それに残った大砲の弾がルシアに集中するが、全て毛皮に防がれてしまった。
「どうするんだよオイ! このままだとホントに負けちまうぞ?!」
歩兵部隊を率いていたルッカも叫んだ。
身軽な亜人達と共に何度かルシアの足を攻撃してみたが、まるで効果がない。
剣が突き刺さらない獣など、これが初めてだ。
「ふぅぅぅぅぅっ!」
瓦礫に埋もれたアベルは、体の力が抜けないようにゆっくりと深呼吸した。
ここで気を抜けば一気に押し込まれるだろう。
喉の奥から鉄の味が湧き出してくるのを感じながら、打開策はないかと頭の中まで全力で回転させる。
(どうする? どうするどうするどうする?!)
この巨大な四足獣さえどうにか出来れば勝てる。
だが肝心のそれがどうにもならない。
遠目に『聖女』の姿を確認していたティナも、とにかく『聖獣』の対処が優先だと判断して王都へと進路を変えていた。
王都の中央付近まで進んだルシアに対し、側面から近づいていく”おむつ”部隊。
しかし彼らは急にその足を止めてしまった。
「ちょっと”おむつ”! どうしたの?!」
わけがわからない。
オムツさえ与えておけば従順な”おむつ”達が、突如として言うことを聞かなくなった。
進めと合図してもその場から動こうとしない。
まさか、敵に怯えて戦意を喪失してしまったのだろうか?
「よりにもよってこんな時に……」
ティナがそう思った直後だ。
”おむつ”達は一斉に同じ方向へと視線を向けた。
アベルの背後、ルシアの進行方向。
何があるのかと、”おむつ”に乗っていたティナ達もまた、同じ方向を見た。
「オォォォォォォォン!」
戦場に聞き慣れぬ雄叫びが響き渡ったのはその時だ。
魔族達はルシアのものかと思ったが、どうやら違う。
「オォォォォン!」
「オォンッ! オォォォォォオン!」
どうやら”おむつ”達だけはその正体を既に理解しているらしく。
同じような声で一斉に鳴き始めた。
「これが……、”おむつ”の鳴き声? 初めて聞いた……」
一般的には鳴かない魔獣として知られている”おむつ”ことダイパーウォンバット。
それがウォンバットというよりはむしろ狼のような声を上げた。
「オォォォォォォォォォォォンッ!」
もう一度、力強い雄たけびが返って来た。
そう、そこにいるのだ、雄叫びの主が。
壊れた王都、その向こう側。
”おむつ”小屋があった方向から、戦場へと響いた咆哮。
”おむつ”達の視線の先には、女神シュメールを乗せた”ボスおむつ”が立っていた。




