16:屠殺場
魔王に向けて、矢と魔法が雨のように降り注ぐ。
目立つのを嫌がってか火矢や火炎魔法のような発光を伴う攻撃こそ含まれていなかったが、しかしだからこそ、純粋な打撃力という観点から見たそれは普通の人間に耐えられるような水準を遥かに超えていた。
鉄の矢が掠め、火花を散らす。
氷の矢がぶつかり砕け散る。
だが――。
「駄目だ! 効いてない!」
狭い道をゆっくりと前進してくる敵に対し、兵達は自分の攻撃が無力であることを理解した。
この世界の歴史において、魔王が政局の具以上の存在になったことはない。
故に彼らは甘く見ていたのだ。
勇者無しでは倒せない敵がいるという事実を。
ドッドッドッドッドッ!
彼らは相手が魔王アベルだと知っているわけではない。
しかし迫ってくる鼓動が、絶対的な強者であることを教えていた。
「あ、あ……」
「に、逃げろ、逃げるんだ……」
その歩みと共に、まるで死へのカウントダウンのように鼓動が近づいてくる。
兵達は怯え、北路を戻ろうとし始めた。
相手は走ってきているわけではない。
その歩みは遅く、逃げ切るのは難しくないだろう。
しかし現実は理想主義の俗物の思い通りには行かない。
ただでさえ狭い道を後続が塞いでいるせいで、後退すらままならなかった。
両脇は切り立っていて、横方向に逃げることも不可能だ。
……いや、不可能かと言えばそうではない。
しかし正面から迫ってくる魔王に対する恐怖が、それを許してはくれなかった。
自陣営の被害はまだ最初に交戦した四人のみ。
だというのに、彼らの先頭集団は、既に戦意を喪失している。
「何をしている!」
指揮官のファルゴは不甲斐ない者達を見て憤った。
この戦いには自分の今後が掛かっているのだ。
王都で戦って壊滅するならまだしも、こんな場所で止まっている場合ではない。
「どけっ!」
彼は自ら戦意を失った味方を斬り捨て、後方の部隊に道を作った。
役立たずに生きる価値はない。
弱者が地に伏せるのは自己責任だ。
「いけっ! 相手は一人だ! 押し潰せ!」
ファルゴは後続に命令を出した。
敵と同様に重鎧で身を固めた男達が、隊列を組んだまま進み出す。
数は力、それを体現するかのように魔王へと走っていく。
魔王にそれを避けるような素振りは一切見られない。
「ふん! 喰らえ!」
先頭の四人が大型の盾ごと魔王に体当たりした。
後ろからも次々と味方が押し寄せ、数百人が一丸となって押し込んでいく。
これが普通の戦いなら、敵陣の大きな穴を開けているに違いない。
だが――。
「す、進まない……!」
両腕を広げて敵の突撃を受け止めた魔王。
彼は鍛えられた数百の力に、たった一人で対抗していた。
「押せ! 押せ!」
男達は力を振り絞った。
しかし返ってくるのは、まるで壁でも押しているかのような感触だけだ。
最初こそ地面に足が少しめり込んだが、しかしそれだけだ。
これだけの人数に押されているというのに、魔王は一歩も後退しない。
……する気配すらない。
ドッドッドッドッドッドッ!
鼓動が響き、兜の奥で赤い瞳が輝いた。
新たな聖鎧に増幅された力で、魔王は一歩前進した。
(……軽い)
魔王アベルは少し驚いた。
正面から押し合っている敵の数は数百人。
正確な人数を数える気はないが、しかし勇者の力で確認する限り、その全力が自分に向けられている。
だというのに、それだけの力を受け止めてもまだ余裕がある。
いや、むしろ余裕しか無い。
速さの面ではそれほどでもないが、とにかく力に関しては驚くべき水準だ。
これならば、万単位の敵と正面から押し合っても引けを取ることはないだろう。
そしてこれは推測だが、おそらく聖鎧自身の防御力も相当に上がっている。
敵の攻撃を受けた時に感じる衝撃が、以前に比べて明らかに少ないからだ。
(シュメールめ……。これはもうポンコツ扱い出来ないな)
アベルは内心で舌を巻いた。
こんな高性能な武具を調達して来れるとなれば、間違いなく有能である。
(帰ったら褒めてやるか)
あの女神はどんな反応を見せるだろうか?
アベルの脳内で想像が膨らんでいく。
『ようやく私のありがたみを理解したようですね! さあ、存分に崇めなさい! 女神様は紅茶とおやつをご所望です!』
「……」
――バキョ!
「ぐはっ!」
魔王は左手で掴んでいた敵の首を、思わず握り潰した。
とりあえず褒めるのは無しだ。
……もちろん紅茶とおやつも。
「お、押される! うおおおお!」
魔王は一気に歩を進めると、数百人の男達を纏めて押し返した。
信じられないという声が月明かりの下で次々と上がる。
当然だろう。
真夜中に突如現れた男が一人、鍛え上げた数百人を正面から止めてみせたのだから。
「な、何をやっているんだお前達!」
ふざけてわざとやっているとしか思えない非現実的な光景。
それを見たファルゴは、怒りを抑えきれなかった。
王都にいる魔王軍と戦って手柄を立てなければならない時だというのに、この無能達は何をやっているのかと。
しかしその考えは直後に吹き飛ばされた。
体勢を立て直そうとした数百人の頭部が、一斉に潰されたからだ。
それが誰の仕業であるかを説明する必要はないだろう。
広域を感知し、敵の急所を念力でピンポイントに握りつぶす。
見えない壁と聖鎧による鉄壁の防御は、生半可な攻撃を一切通さない。
戦術級か、あるいは戦略級か。
絶対的な強者がそこにはいた。
「……」
魔王は無言のまま、血に塗れた左手をファルゴへと向けた。
「うおっ! なんだっ?!」
不可視の力が指揮官を襲う。
抗えない力で掴まれたファルゴは、そのまま馬から引きずり降ろされた。
「うおおおおおおお!」
大地に叩きつけられ、そして首を掴まれたままで魔王のいる方向へと一気に引っ張られていく。
そして――。
ザシュ!
魔王は敵の指揮官をその手で直接掴むこと無く、黒紫のオーラを纏った聖剣で両断した。
断末魔さえ許されない指揮官の死。
人の死がドラマチックではないことを、理想主義の俗物は理解出来るだろうか?
一方的な惨状を見ていた残りの兵達は、前を向いたままで魔王の様子を伺いながら、ゆっくりと後退を始めた。
後方にいた者達はこう思ったのだろう。
敵との間にはまだ距離がある。
他の奴を囮にすれば逃げられるはずだ、と
「……」
しかしそんな微かな希望も、直後に打ち砕かれた。
ゆっくりと下がる途中で、何かに進路を塞がれたのだ。
「な、なんだ?」
視覚的には何もない。
しかし手で触って見ると、そこには確かに壁のようなものが存在していた。
無論、ここに来た時にはこんなものは無かったはずだ。
……彼らは、勇者の力の中に見えない壁を作り出す能力があることを知らない。
しかし、これが魔王によるもので、自分達はおそらく閉じ込められたのだろうという想像に至るのに、時間は掛からなかった。
「あ……、あ……」
「うわあああああああああああああ!」
閉ざされた空間。
そこからは悲鳴の一つすら逃げ出すことが出来ない事を、彼らは知らない。
その後に起こったのは、戦いではなかった。
発狂と絶叫。
聖女と聖獣の栄光を借りて増長した者達に対する鉄槌。
それは魔王による一方的な虐殺……、いや、ただの屠殺だった。




