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39:青い空

 動かなくなった神。

 人間の王カインは、それを見下ろしながら息を整えた。


(終わった……、のか?)


 五分か、十分か、客観的にはおそらくそれぐらいの時間だっただろう。

 しかし時間の感覚が麻痺している中で、カインは女神アクシルの死を断定するまでやけに長い時間を過ごした気がした。


 神は死んだ。

 そう、死んだのだ。


 その事実を現実として飲み込み、カインはようやく物言わなくなったアクシルから目を逸した。

 周囲を見渡せば、立っているのは結局自分だけだ。


 そう思った直後、静寂の遠くから足音が響いてきていることに気が付いたカイン。

 音の方向を見ると、魔王軍がこちらに全速力で向かってきていた。

 

(……そういえばいたな)


 アベルと共にこの戦場へとやってきた彼らの存在を、正直言ってすっかり忘れていた。

 足手纏いにならないようにと進軍を停止していた魔王軍が、戦いは終わったと理解して、こちらに全速力で向かっているらしい。


「急げ! アベルの奴がどうなった確認しろ!」


「だから魔王様って呼べって!」


「それどころじゃねぇだろ!」


 なるほど、彼らは賢明な判断をしたとカインは思った。

 もしもあの人数が戦いに参加していたのなら、敵の数が多いことで、アクシルは周囲をもっと警戒していたはずだ。


 そうなれば、教皇グレゴリーの命を引き換えにした陽動は失敗していたかもしれない。

 当然、アベルやカインが、アクシルに決定打を叩き込む好機は訪れなかっただろう。


(……ん? アベル? ……そうだ! アベルだ!)


 カインは、女神の攻撃を受けて倒れたままの弟の存在にようやく考えが至った。

 どうやらアクシルとの戦いで思った以上に消耗したらしい。


 大きな傷を負ったわけでも、長時間戦ったわけでもないとはいえ、千載一遇の機会を逃すまいと相当に神経を擦り減らしのも事実だ。 

 思わず走り出しそうになった足を一瞬で止め、代わりにSSランクの勇者の力を使い、アベルの体を探る。


「……ふう」


 アベルの命に別状がないことを知って、思わず安堵の溜息をついたカイン。 


 便利なものだ。

 この力を使えば、普通に確認するよりも早く、そして遠くから様子を確認することが出来る。


 これによって、カインは接近してくる魔王軍の面々に”弟の危機を前に慌てる自分の姿”を見られずに済んだ。

 やはり何と言うかこう……、兄の威厳的な何かは重要だ。


 アベルのことは近づいてくる魔王軍に任せることにして、カインは当初の予定通り、その場から立ち去ることにした。

 二本の剣を収め、魔族達とは反対方向へと歩き出す。


 陣営を問わず人間達は全滅し、教皇も死んだ。

 女神の介入によって予定外の展開にはなったが、しかし最終的な結果は当初の予定からそれほど大きく変わってはいない。


 あとは自分がいなくなれば、それで計画は完了となる。

 カインは、アベルと魔王軍に背を向けて歩き始めた。


 何気なく流れる視線。


「――!」


 次の瞬間、カインは自分がグレゴリーの姿を探していることに気がついた。

 しかし弟とは違い、鎬を削った彼の体は、もうこの戦場のどこにもない。


 いや……。

 それどころか、この世界のどこにも……。

 

 自分達の時代は終わった。

 そう、終わったのだ。


 まだ世界に各地に人間は残っているが、ここから巻き返せるだけの余力は残っていない。

 これからは魔王アベルと魔族の時代になることだろう。


 国王カインと人間の時代が再来することはない。

 カインが歩きながらそんなことを考えた、その直後だ。 


「人間、どもがぁぁぁぁ……」


「――!」


 人間と神は違う。

 例えどれだけ造形が似通っていても、やはり人間と神は違う。

 

 死んだ人間は生き返らない。

 しかし神は――。


 耳に届いた、か細くも怨念めいた声。

 背中に冷や汗を浮かべながら、カインは慌てて女神アクシル死体が転がっているはずの方向を振り返った。


 見れば、死んだはずの……、いや、”死んだ後の”女神が再び起き上がろうとしていた。


 カインの攻撃によって受けた傷により、既に生きた人間とは掛け離れた姿になったアクシル。

 その蠢く赤い血肉の隙間から、彼女の眼球がカインを捉えた。


「嘘だろ……」


 この場に殺到しようとしていた魔王軍の面々も、死を与えられて尚も終わらない存在を前に思わず足を止めた。


 死人が動く。

 常識ではありえない光景。


 だが死が終わりでないというのなら、いったい何を持って終わりが訪れるというのか。

 終わりなき永遠の戦いが続くのだとすれば、有限の存在である人間に勝ち目などないではないか。


 教皇グレゴリーは既に散った。

 魔王アベルもまだ目覚めていない。


 敗北を予感しつつ、勇者カインは再び二本の剣を抜いた。

 ……その時である。

 

 シュィン、ドン!!!!!!!!! 

 

 天頂から、光が落ちた。


「――!」


「今度は何だ!?」


 位置はちょうどアクシルの真上。

 大地を揺らし、土煙を巻き上げ、再び”何か”がこの世界に降り立った。


「ふう。まさか人間がここまで追い込んでくれるとは……、正直言って予想外でした」


 土煙の中から聞こえてきたのは、アクシルではない別の女の声だ。

 風がその正体を知りたいと急かすように大地を薙ぎ、その姿を露わにしていく。


 黒く綺麗な長い髪。


 その女は、この世界では極めて珍しい眼鏡を掛けていた。

 品質に関しても、現在の技術水準では間違いなく製造は不可能だろう。


 新たな脅威の予感。

 しかし女が”掴んでいる者”を見た時、流石のカインも息を呑んだ。


「……」


 これから再戦することになるかと思われた敵、女神アクシル。

 女の手には、その彼女が意識を失った状態で掴まれていた。

 だらりと体をぶら下げ、既に意識を手放している。


 手負いの上に警戒の外からとはいえ、アクシルを一撃で沈黙させたという事実。

 それが終わりかけた戦場に新たな脅威として広がっていく。


(アクシルの敵? こちらの味方か?)


 人は敵の敵を見ると、ついそれを味方と思いたくなる。

 直後、カインは楽観的な発想に流れかけた自分を戒めた。

 物事は二重規範と二律背反とを包括するのが世の常なのだから。

  

「……」


 そんなカインの様子を見て理解したのか、既にアベルに辿り着いていた魔王軍の面々も、覚悟を決めて武器を抜いた。

 相手を刺激しないようにゆっくりと、まだ意識の戻らないアベルの盾になるように陣形を変えていく。

 

「あら、警戒されていますね。ですがご安心を。今この場であなた達をどうこうする気はありません」


 今この場で。

 つまり場所と時間を変えれば、交戦する可能性はあるわけだ。


 相手がまだこちらを侮っている内に仕掛けるべきか?

 カインの中で短気な赤い衝動が揺れる。


「我が名はシュメール。悪しき神アクシルは今ここに打ち倒されました。そしてたった今から、彼女に代わり私がこの世界の神です」


「何?」


 神同士による、この世界の管理者という椅子の取り合い。

 新たな神を名乗った女の言葉に、カインはそんな権力闘争の匂いを嗅ぎ取った。

 そしてアベルの意識が密かに覚醒手前まで浮上したのは、それとほぼ同時だ。 


(この……、声は?) 


 体を動かそうという段階まで、まだ思考が進まない。

 混濁した意識のまま、アベルはシュメールと名乗った女の声を聞いていた。


(誰だ……?)


 ……この声は、前にもどこかで聞いた気がする。

 そうだ、あれは確か幽閉された塔の中でだった。


 自分に言葉と知識、そしてこの力を与えた、謎の女の声。

 アベルはそれと同じ声を、まだ自由に動かない頭でただ聞いていた。


「――あなた達が私の姿を直接見ることはもうないでしょう。またとない機会に感謝することですね。さて、そろそろ時間です。それでは、ごきげんよう」 


 シュゥゥゥゥン……、シュイン!


「――!」


 天頂から光の柱が降り立ち、そしてシュメールを乗せて昇っていった。

 もちろん彼女が掴んだままのアクシルも一緒にだ。


 カインも魔族達も、咄嗟に彼女を呼び止めようとして踏みとどまった。

 驚異が自分の方から去っていってくれるというのだ、十分な戦力もない状態でそんなことをして何の得がある。


 新たな時代の幕開け。

 人はそんな幻想に、いつも騙される。


 だが世界の構造はそう簡単に変わりはしない。

 結局は、椅子に座る者が入れ替わっただけだという現実が、無遠慮に突きつけられただけだ。


 支配者たる神からの解放。

 アクシルの降臨によってそれが大義へとすり替わっていたこの戦いは、ただ自分達が箱庭で飼われる家畜であることを確認するだけの作業へと成り下がって、ここに終結した。


 自分達のしてきたことは一体何だったのか?

 それが決して無意味ではなかったと頭ではわかっていても カイン達はしばらく空を見上げていることしか出来なかった。


「……? あれ……? お、おい! 空が!」


「なんだ? まだなにかあるのかよ?!」

 

 シュメールと名乗った新たな女神が戻っていった空。

 その異変に気が付いた魔王軍から、声が上がり始めた。


「これはいったい……」


「空が……、青くなった……」


 この世界の住人が知る空の色は、常に黄色だった。

 彼らにとってはそれが当たり前であり、疑問を持ったことなど一度もない。


 まるで、全ての始まりからずっと不満を抱えていたかのように濁っていた空。

 その色は黄色に決まっていると、誰もが思っていた。


 しかしそれがこの世界の歴史上で初めて、澄んだ青色へと姿を変えていく。


「すげぇ……」


「綺麗……」


 その光景を見た魔族達から、感嘆の声が次々と漏れ出した。

 カインも魔族も、そしてこの戦場以外にいる人々も、世界の誰もが初めて見る青い空を見上げ、そして目を離すことが出来ない。


「世界は変わった……、のか?」


 そしてカインも思わず呟いていた。


 新たな時代の幕開け。

 頭ではありえないとわかっているというのに、しかし自然とそんな気分にさせてくれる、突き抜けるような青だった。


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