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37:狩人

 功名心。


 直接的であれ、間接的であれ、それは人々に適切な判断からの脱落を迫る。

 自分の力を誇示したい、自分の存在感を高めたいという欲望が、人を失敗へと誘っていく。


 女神アクシルに渾身の一撃を叩き込んだ、魔王アベル。

 まるで砲弾の雨でも降ったかのような土煙の中で、彼は右手に残る感触を確かに感じていた。


 天高く舞った女神の左腕。

 土煙の外まで飛んでいったそれが、血飛沫を撒き散らしながら地面に落ちた。

 

 静寂。

 

 視界を遮る土煙の内部で聞こえるのは、荒い自分の息遣いと心臓の鼓動だけ。

 ……明らかに不自然だ。

 

 女神を殺すことに成功したのか、それとも敵はまだ健在なのか。

 アベルの判断が前者へと傾く。


 これまで見てきたヒステリックな女が、果たしてこの局面で大人しくしているものなのかどうか。

 それが有り得るとすれば、それはつまり女神アクシルが死んだ時だけではないのか?


(どちらだ? 殺れたのか? まだなのか?)


 体が重い。


 万全の状態であるなら、一度土煙の外に出て様子を見ることもできるというのに、今のアベルにはもうそれをするだけの余裕が無かった。

 少し休めば可能だろうが、しかしそれよりも土煙が晴れる方が早いだろう。


 希望的観測が魔王を誘惑する。

 土煙が晴れるまで、あと残り数十秒もないというのに、まるで世界の全てが女神の意志を受けて動いているかのように、彼を楽観的な方向へと誘導しようとしていた。


(どっちだ?!)


 視界を覆っていた土煙が途切れ始めたのを確認したアベルは、アクシルが倒れているであろう場所を注視した。

 そこに女神が倒れていれば、それで終わりだ。


「……いないっ?!」


 先程、アベルが全力の一撃を振り下ろした場所。

 衝撃で周囲よりも少し窪んだ地面には、腕を吹き飛ばされたはずのアクシルの姿は無かった。


 ――ドスッ!

 

「――!」


 背中から腹部を貫く衝撃。

 アベルは視界の下側で、自分の胴体から女の腕が生えたのを見た。


「やって……、くれるじゃない……!」


「ぐっ……!」


 痛みの直後に真後ろから聞こえたアクシルの声で、魔王は現在の状況を理解した。

 つまり敵はまだ健在ということだ。 


(殺せなかったか……)


 彼女が生きていたことに関して驚きはない。

 少なくとも可能性の一つとして考えてはいた。

 

 しかし腹部を背後から貫いたということは――。

 つまり彼女は動き回れるだけの力を、まだ十分に残していることになる。

 

「ふんっ!」 


 アクシルは腕を引き抜くのと同じ動作で、そのままアベルを遠くに投げ捨てた。

 常人の肉眼では線として捉えるのも容易ではない速度で、魔王と女神の距離が開く。


 ――ドォン!


 衝撃。

 音の波が大きな残響となって広がった。


(駄目……、か……)


 澱んだ空がアベルの視界を満たす。

 体中の力と共に、意識も薄れていく。

 

 別に地面に対して垂直に叩きつけられたわけでもないというのに、それでも手負いの魔王の意識を奪い去るには十分な威力だった。

 腹部に拳大の穴を開けられた状態で、おまけに女神のほぼ全力に近い力で投げられたわけだから、これに耐えきれないことを責められる立場にいる者など、少なくともこの世界には存在しない。


 まだ機能を失っていない聖鎧が出血を抑制してくれているとはいえ、腹部からの出血を放置すれば遠くない内に死を迎えることだろう。

 それを頭ではわかっているというのに、アベルはそれ以上の行動を取ることが出来ずに意識を失った。


「はぁっ! はぁっ!」


 不完全ながらも魔王アベルの排除に成功したアクシル。

 しかし彼女も大きな傷を負っていた。


 肩を大きく上下させ、深く呼吸する。


 アベルの剣が直撃した左腕は肩の付近から先が無くなっており、断面からは赤い血が流れ出していた。

 傷は左脇腹まで及んでおり、削られたような断面からは肋骨が何本も姿を見せている。


 残った右手で傷口を触ると、ねっとりした血肉の感触が伝わってきた。

 その事実が彼女の神経を逆立てる。


「下等な人間が……っ!」


 神である彼女にとっては、致命傷と言える段階まではまだ少し余裕がある。 

 しかし遥かに格下であるはずの人間達によってここまで追い込まれたことで、彼女のプライドとも言うべきものは、十分と言って差し支えない程の傷を負っていた。


 勇者ヒロトがそうであったのと同じように、女神アクシルもまた、自分自身を絶対的な存在だと思いこんでいたのは否めない。

 さしずめ、物語の登場人物を相手に管を巻く読者のようなものか。


 自分だけは遥か高みにいる気分になって、しかしいざ同じ状況に置かれてみれば、やはり同様に無様を晒す。

 しかし幸か不幸か、ヒロトとは違い、アクシルはそれを理解できる程度には賢かった。


 ヒュン! ドッ!


「……あぁん?」


 屈辱に唇を噛み締めた彼女の不機嫌を煽るように、再び飛来した氷柱。

 白い法衣を真っ赤に染め上げて、アベルと同程度に……、いや、それ以上に満身創痍となった教皇グレゴリーが再び魔法を放ち始めた。


 アクシルの視力は並の人間を遥かに上回る。

 かなりの距離があるここからでも、あの老体が今どんな状態であるのかは容易に確認できた。


 目を大きく見開き、右手で心臓の辺りを握りしめている。

 苦しい状況であるにもかかわらず汗が一切出ていないのは、既に肉体的な限界点を超えたからか。


 だとすれば、このまま何もせずに放置しておいても死ぬだろう。

 老いた人間の体で負荷の大きい魔法をこれだけ乱打すれば、当然の帰結だ。 


「ふんっ!」 


 女神は高速で飛んできた氷柱の一つを、右手で掴んで握り潰した。

 向こう側から教皇の驚きと焦りが伝わって来る。


 ……別に不思議な事ではない。


 これまでアクシルがグレゴリーの魔法に対応できていなかったのは、あくまでも視界の外にアベルが控えていたからだ。

 牽制としての役割を果たしていた魔王の存在が消えた今、彼女は同じ方向から一つ覚えのように飛んでくる魔法への対処に集中することが出来る。


 飛んでくる魔法の速度は変わらないが、しかしその軌道がほぼ直線である以上、警戒すべき範囲は限定的だ。

 残った右腕を使い、氷柱を片っ端から叩き落としていく。 


 ボッ――、バァンッ!


「……ちっ!」


 アクシルは再び不機嫌さに顔を引き攣らせた。

 氷柱だけでは効果がないと判断した教皇が、爆裂弾の魔法を混ぜ始めたからだ。


 どうやら氷による物理的な打撃では効果がないと踏んで、今度は火と熱で焼こうと考えたらしい。

 しかし仮にも神である彼女の肌を焼くには火力が足りない。 


(ふん、所詮は人間ね)


 人の性根というものは、そう簡単に変わったりはしない。

 そして、だからこそ善性と実績は尊ばれる。


 これまでの人生を善くあろうとしてきた者は信頼され、それをしなかった者は疑われる。

 善悪という究極的なエゴイズムに向き合おうともしなければ、尚更だ。


 アクシルは失敗から学んだ気になって、しかしそれでも人間を見下すことを止められなかった。

 いや、止めようとしなかったと言う方が正確か。

 自分自身の行動はかくあるべしなどとは、彼女は微塵も考えていなかった。


 自戒とか、自省とかそんなものとは一切無縁。

 自分の至らない点を気にするぐらいなら、他人の至らない点を見つけて貶める方が遥かに”善い”。


 だってそうだろう?

 自分自身を肯定するのだから。


 自分は自分のままで、自分らしく、あるがままに。

 ほら、とても素晴らしいことではないか。


 バンバンとやかましい爆音。 

 そして先程よりは減ったとはいえ、依然として飛んでくる氷柱をかわし、叩き落とし、そしてアクシルは振りかぶった。


 女神の右手が青白い光を放つ。

 先程、王都の一部を吹き飛ばした神の光が、別の世界の文化に乗っ取るならばメギドの光とも呼ぶべき神の正義が、教皇グレゴリーという、たった一人の人間に対して牙を剥いた。


 これまでの鬱憤を晴らすかのように……、いや、実際にアクシルのストレスを解消することを第一の目的として、光の奔流が老体へと殺到する。

 このまま持久戦に持ち込んでおけば良かったというのに、彼女は敢えてこの方法を選んだ。


 ……もちろん彼女自身の満足感のために。


「台下をお守りするんだっ!」


 シュイン――、ドンッッッッッ!!!!!


 大気を叩き、地面を揺らす衝撃。


 碌に教皇を援護することもできず、せめて自分達の体を肉の盾として使おうと試みた数人の僧兵達。

 しかしその想いも虚しく、彼らもまたグレゴリーと共に光に飲み込まれた。

 

「……はぁ?」


 アクシルの視力は並の人間を遥かに上回る。

 故に彼女は見た。


 青白い正義の光に包まれる直前のグレゴリーの口元が、確かに笑っていたのを。

 敗北は明らかだというのに、しかし妙に勝ち誇ったような表情だった。


「なんだってのよ」


 きっと現実を受け入れることが出来ず、気が触れたのだろうと彼女は判断した。


 先行して一瞬だけ訪れた静寂。

 いずれにせよ、これでいよいよ終わりだ。


 功名心。


 直接的であれ、間接的であれ、それは人々に適切な判断からの脱落を迫る。

 自分の力を誇示したい、自分の存在感を高めたいという欲望が、人を失敗へと誘っていく。


 理に適った選択よりも、感情論を優先する。

 そんな性根が判断を曇らせた結果、つまりはこれが必然だったというだけの話に過ぎない。


「ふん……、何にしてもこれで――」


 ――ドスッ!


「……?」


 安心しきったアクシルの胴体を、横から鋭い衝撃が貫いた。


 ――そう、持久戦に持ち込んでおけば良かったのだ。


 自分の方が上であることを示したいとか、溜まった鬱憤を吐き出したいとか、そういう感情は全て捨てて、隙を見せないように注意しながら勝利にのみ徹すれば良かったのだ。

 彼女が爽快感などという小事に拘らなければ、間違いなくこうはなっていなかっただろう。


 ――教皇グレゴリーによって、”致命的な隙を作らされる”などということには!


「ああ……、これで終わりだ」


 背後から響いたその言葉を聞いた瞬間、アクシルはあの老人がどうして最後に笑っていたのかを悟った。

 ある種のゲームでいう”詰み”の状態。


 つまりは見事に誘い出されたということだ。

 グレゴリーは”自分の目的が果たされたことを確認してから”逝ったのだ。


 女神の背後で魔王とは別の、もう一対の反逆の赤い瞳が輝く。

 

 勇者カイン。

 国王カイン。

 アベルの双子の兄カイン。


 自陣営の利益のためならば世界を滅ぼすことすらも躊躇わなくなった男が今、ついに女神の心臓へと剣を突き立てた。


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