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36:叶わぬ望みの果てへ

 ”男”は右目で過去を、左目で未来を見ていた。

 人は死の間際に走馬灯を見るというが、あるいは彼にとってはこれがそうなのかもしれない。


 教皇グレゴリー。

 彼は今、ここを自分自身の死に場所として選んだ。

 

 右目に過去の自分が見える。


 ――不安の無い、人々が共に助け合う世の中にしたい。  

 そんな若き日に手を伸ばした青臭い理想は、他ならぬ民草によって打ち砕かれた。


 失意、そして失望。

 若者達が思い描くほど、人間の本質は美しくもなければ素晴らしくもない。 


 先々代、赤い瞳の王によって見せつけられた世界の現実。

 武力と権力による支配でのみ、平和は実現し得るのだと理解した。


 左目に未来の世界が見える。


 善がなぜ尊ばれるかといえば、それは物事の自然な形が悪だからだ。

 自分こそが世界の中心、自分こそが肯定されるべき、そんな欲望は善となりえない。

 

 綺麗な建前、腐った現実。

 正義と独善が混ざれば、それは究極の悪となる。

 

 そして倫理と道徳の名の下に、加減も容赦もなく不幸が積み上げられるだろう。

 実態無視の空想と妄想を実現させようとすればどうなるか、それを実証することになる。


 いずれにせよ、彼が教皇となって改めて手を伸ばした理想は、再び打ち砕かれた。

 数十年前、彼に現実を突きつけた赤い瞳の国王の、その孫によって。


 グレゴリーは心臓を鷲掴みするような勢いで、右手を胸に押し当てた。 

 この世界の治癒魔法は、重症を即座に癒やすほどの強力な効果を持っていない。

 

 文字通り皮一枚で繋ぎ止められている命。

 左手で攻撃魔法を打ち出した反動で開きそうになる傷を、治癒魔法で無理矢理に抑え込んだ。


 夢は夢、理想は理想。

 もう、彼が思い描いた世界が実現することなどないというのに。


 ……いや、違う。

 

 確かに理想は潰えた。

 だがまだ全てが終わったわけではない。


 人々は、自分の理想が完璧な形で実現しないとわかった瞬間、即座に勝負を諦める。

 しかし望みが叶わなかったとして、それでも望みに近づけることならばまだ可能だ。


 この世界の平均寿命から考えて、自分に残された時間は少ない。

 そもそも、敗者の頂点たる自分を、勝者は生かしておくだろうか?


 ではどうする?

 安穏の老後を過ごしてみるか?


 ……これ以上生きて何の意味がある?

 

「下がって……、いなさい」


 グレゴリーは周囲にいた僧兵達に向けて一言だけ言葉を放つと、静かに息を吸い込んだ。 

 老体であることを抜きにしても、肉体は既に限界点に達している。


 これ以上に何か行動を起こすというのは、つまり死兵になることと完全に同義。

 しかし彼は躊躇うこと無くその道を選んだ。


 処刑か幽閉か、それとも隠居か。

 しかし彼は、未来を少しでも己が理想に近づける可能性に、文字通りの意味で自分の命を賭けた。 


 『0』を『1』に。

 『5』を『10』に。

 『100』には遠く届かなくとも、しかし『100』には少しだけ近づく。


 何もない老後を、ただの腑抜けとして過ごすのか、あるいは残り少ない余生で割に合わない可能性を買うのか。

 ……彼は後者を選んだということだ。


「ごふっ……」


「台下!」


 魔法の反動で裂ける臓器。

 喉の奥から、自分自身の血が湧き出してくる。 

 

 彼はこの時になって初めて、治癒魔法を習得しておいて良かったと感じた。

 実戦では気休め程度の効果とはいえ、この場において心臓の破裂だけは避けられている。


 ……それで十分だ。


 痛みとは、あくまでも生命が危機を察知し、生存の可能性を探るためのもの。

 故に死兵となったグレゴリーにとっては、体を引き裂くような激痛すら、もう何の意味も持たない。


 ただひたすらに、命を削って魔法を撃つ。

 ……それだけだ。


 ヒュヒュヒュヒュヒュヒュンッ!


 グレゴリーから、人間の動体視力ではまず捉えられない速度で氷柱が放たれていく。

 その数を数えている者など、この場には一人もいないだろう。


 ドガガガガガガッ!


 そして幾つもの氷柱が、正確に女神アクシルへと叩き込まれた。


「こんのッ……!」


 彼女自身にとっては不幸なことに、そしてそれ以外の者達にとっては幸いなことに、アクシルは戦神の類ではない。

 普通の人間と同程度しかない彼女の動体視力や反射神経では、グレゴリーが長年に渡って磨き上げてきた魔法を見切って回避することは出来なかった。


 とはいえ神の肌は傷つかない。

 衝撃を与え、その動きを妨害するだけだ。

 

 アクシルは離れたところにいるグレゴリーをなんとかしようと、まずは目の前にいるアベルを蹴り飛ばした。


「ぐっ!」


 ドッドッドッドッドッドッ!


 両者の距離が離れ、その分だけアベルから放たれる鼓動の音が小さくなる。


 そして鬱陶しい教皇を”処分”しようと、彼に向き直った女神。

 その死角からは、魔王の鼓動がまだ聞こえてくる。

  

 格下に対してはプレッシャーを掛けてくれるその音も、同格以上が相手となれば、単に自分の位置を相手に教えるだけの不利な要素でしかない。

 音の大きさに注意すれば、見ていなくともアベルとの間にどれぐらいの距離があるのかは推測できる。


「チッ!」


 光で吹き飛ばしてやろうとしたところに、魔法を受けて体勢を崩したアクシル。

 彼女は不機嫌さを隠すこと無く舌を打った。


 アベルが復帰して再び攻撃を仕掛けて来るまで、多少の猶予はあるだろう。

 だが……。


(あの老いぼれ……!)


 アクシルは瀕死の体で尚も魔法を放ち続ける教皇を睨みつけた。


 生きた年月でいえば、アクシルの方が遥かに年上である。

 しかし肉体とは異なり、精神はただ年を取っただけで成長するものではない。


 いや、あるいは死の瞬間を起点として考えるのであれば、どちらが年上かは明白か。

 彼女は魔王アベルを死角に控えて、端的に言えば焦っていた。


 ……なぜか?

 

 単純な話だ。

 アベルの攻撃が直撃すれば、彼女は死ぬからである。


 Sランク以上の勇者の力。

 それが特別なのは、決して特殊能力が付加されているからではない。

 その力を与えられた者達が、神に危害を加える手段を手に入れることになるからだ。

 

 神々の中では最も防御力の低いアクシルにとって、Sランク以上の勇者は直ちに脅威となる。

 それがSSSランクの、おまけに聖鎧でさらに力を強化された勇者となれば尚更だ。


 ここまでの戦いにおいて何度も弾いてきたアベルの攻撃。

 そこから推測される攻撃力は、アクシルという神を殺すのに十分な水準に達していた。

 

 だというのに――。


「ええい!」


 この世界の住人としては間違いなく最高水準の、魔法による超精密、超高速、そして超連続射撃。

 グレゴリーという男がこの段階に至るまでにどれだけの研鑽を積んだのかは定かではないが、しかしそれはこの状況において、女神の行動を妨害するという最大の役目を果たしていた。


 努力は容易く人を裏切る。

 しかし意志を押し通すにはそれが必要だ。


 さっさとグレゴリーを吹き飛ばしてアベルを迎え撃ちたいアクシル。

 アベルの攻撃が有効であることを理解し、彼が仕掛けるまでアクシルの動きを封じ続けたいグレゴリー。

 

 女と男、神と人。

 倫理も道徳も、仁義も礼儀もない綱引き。


 戦いに規則が必要か?

 生き残るために正義は必須なのか?


 勝手な理屈を押し付けるなとばかりに、氷柱が途切れなく降り注ぐ。


「……そこっ!」


 一瞬だけ生じた、魔法の途切れ目。

 女神はそこを見逃さなかった。

 すかさず光を放つために腕を振ろうと試みる。


(アベルはまだ遠い! 貰った!)


 聞こえてきた鼓動がまだ小さいことから、魔王がまだ離れた位置にいると判断した彼女は、彼に対する防御の用意を一時的に全て放棄した。

 そして――。


 ――ドッ!


(――え?)


 アクシルの想定の範囲を逸脱する、大きな鼓動。

 それが彼女の耳に届いた。


 その音の大きさから考えられる両者の距離は――。


 グレゴリーを吹き飛ばすために腕を振り始めた直後、アクシルは自分のミスを悟った。

 反射的に視線が左側面、つまりアベルのいる方向へと向けられる。

 そこには、既に隣接距離まで近づいていた魔王と、自分に向けて振り込まれる刃があった。


(嵌め……、られた?)


 何が起こったのかを、女神は一瞬で理解した。

 誘い込まれたのだ、つまりは。 


 発せられる鼓動の大きさで距離を判断しようとしたアクシル。

 それに対し、魔王は即座に聖鎧の機能を抑えて音を小さくした。


 狂った女神の判断。

 両者の距離が実際よりも遠いと誤認したことで、彼女はアベルの接近に気が付かなかった。


 それをお膳立てしたのが教皇グレゴリーだ。


 彼は連続攻撃によって女神の視線を自分に引きつけ、魔王が敵に接近するのを助けただけでなく、さらに攻撃を一瞬だけ途切れさせることで女神に攻める好機だと思わせて、隙まで作り出して見せた。


「うぉぉぉぉぉぉぉぉ!」


 アベルが叫ぶ。

 カインとは違い、彼はグレゴリーと直接の面識はない。

 しかし、少なくとも女神打倒の一点において、彼と利害が一致するのだけは確かだ。


 理由はどうあれ、思惑はどうあれ、とにかくこれは千載一遇の好機。

 ここを逃せばおそらく次はないだろう。


 赤い瞳の本能が叫ぶ!


 ――殺せ!

 ――目の前にいる神を!


 魔王は聖鎧の強化を全開にし、全力で剣を振り下ろした。


「こんのぉぉぉぉぉぉっ!」


 不利な体勢からアベルに反撃しようとするアクシル。

 しかしもう間に合わない。

 かわすことも、防御することさえも。


 そして――。


 ――ドンッッッッッッッ!!!!!!!!!!!!!!!!


 乾坤一擲。

 魔王アベルの渾身の一撃が、ついに女神へと叩き込まれた。


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