35:神に挑め
ドッドッドッドッドッドッドッ!
魔王を中心に響き始めた鼓動。
アベルの身につけた聖鎧がその特殊能力を起動し、命を削るような負荷と引き換えに装着者の力を底上げする。
単にこの世界の住人として支配体制を確立するだけならば、全くもって無用の長物としか言いようのない力。
これを用意した者が、いったい何を考え、何を目的としているのか。
それは未だもって定かではない。
……が、しかしだ。
この世界の神という最大の脅威が目の前で牙を剥いたこの現状において、おそらくは人類最強と呼んで差し支えないその力は、間違いなくその役割を果たしていたと言っていいだろう。
赤い瞳が輝く。
魔王のその目は、不機嫌さを隠さない神へと真っ直ぐに向けられていた。
……不機嫌なのはこちらも同じだ。
幽閉から解放されてから、まだ数ヶ月。
物事を知識として知ることは出来たが、しかし実際に経験したのはその内の僅かだけ。
だがなぜだろう?
目の前にいる女が、どういうわけか憎悪の対象であると本能的に理解出来る。
自分に対して”アクシルを名乗った何者か”が与えた知識の中に、目の前の女神に関する情報は一切なかったというのに。
しかしアベルは、とにかく目の前の女が気に入らなかった。
まだ碌に話したこともない兄を吹き飛ばしてくれたというのもあるだろう。
魔族にとっては敵陣営とはいえ、どう見ても罪を背負わせるには不適当な子供達を、躊躇いなく殺したというのもあるかもしれない。
だがアベルはもっと本質的な部分で、――それを果たして”生理的に”と呼ぶべきかどうかともかくとして――、とにかくこのアクシルという女が気に入らなかった。
「何よその目は? 文句でもあるわけ? 下等な人間が!」
兜に隠れてその表情は見えないというのに、アクシルはアベルの感情をほぼ正確に汲み取った。
流石は神だと言うべきか、あるいは女の勘は恐ろしいと言うべきか。
だが、自分の実際の実力が、自己評価を上回るというのは幻想だ。
誰もが自分は特別であるという夢を捨てきれないが故に、本当に特別な存在となる機会を放棄する。
「……あるさ」
女神の問いに、アベルは一言だけ答えた。
別にこの怒りを丁寧に説明してやる気はない。
人は霞だけを口にして生きてなどいけない。
獣を狩り、植物を刈り、他の生命を犠牲にしなければ、生きてはいけない。
意にそぐわず殺すこともあるだろう。
利害が対立し、敵対することもあるだろう。
それはわかる。
理想では現実はどうにもならない。
そのことは百も承知だ。
だが――。
だからといって、世界が”こう”である必要はあったのか?
神は絶対?
神は正義?
神は偉大?
人間に大いなる意志は推し量れない?
……ふざけている。
腐った林檎を放置して、一緒に根本まで腐り切れと言うのか?
相手が神だろうと正義だろうと、それが道徳だろうと倫理だろうと、自分達に一方的な不利益を与え続ける存在を肯定してやる義理がどこにある?
結局は何も変わらないだろう。
この女を殺さない限りは。
右手に握り直した聖剣。
その刃を包み込む黒紫オーラが、次第に赤へと傾いていく。
剣が僅かに震えているのは、恐怖故か、あるいは怒り故か。
――どちらでもいい。
敵は強大。
先程のやり取りでそれはよくわかった。
出し惜しみをしていて勝てるような相手ではない。
自分の命を惜しんでいて勝てるような相手ではない。
もしもここで感情を発露する必要があるというなら――。
――殺せ、神を!
ダンッ!
アベルは”敵”に向かって再び大地を踏み込んだ。
本人と鎧とを合わせて重量級の水準となった質量が加速し、女神へと再び突っ込んでいく。
「はっ! まだ私に楯突こうってわけ? 生意気なのよ!」
バチッ!
剣を持たない左手で念力を使い女神の右手首を潰しに行くも、先程と同様にあっさりと弾かれた。
(だが……!)
攻撃を弾くための一動作を相手に起こさせることが出来る。
傷を与えるには不十分でも、牽制としては効果がありそうだ。
剣と徒手空拳。
リーチに関してはアベルの優位。
逆に腕の届く範囲内に入れば、アクシルに優位性を与えることになる。
「……ふんっ!」
有利な距離を保とうとする魔王の意図に、兜の奥の表情にすら勘付く女神が気付かないはずがない。
彼女は自分の射程圏に敵を捉えようと、小刻みに突かれる聖剣を掻い潜り、距離を詰めようと大地を踏みしめた。
距離を取り直すために後方へと跳ぶアベル。
両者の距離が再び開く。
違和感。
(……ん?)
てっきりアクシルが一気に距離を詰めてくるものだと身構えていた魔王は、相手が追いかけて来ないことに戸惑った。
いや、正確には追いかけては来ているが、その速度が予想よりも遅い。
なにせ、絶対的とも思えた聖鎧に亀裂を作るような攻撃を放つ女である。
その身体能力は当然アベルよりも上のはず。
ならば隣接距離まで一気に詰め寄ることなど容易に出来てもおかしくないはずだ。
(そういえば蹴りも無い……。脚力はそうでもない……、のか?)
考えてみれば、アクシルの攻撃はここまで両腕によるもののみ。
蹴りはここまで一度も放たれていない。
推測が正しいとすれば、アクシルの移動速度は対応できないほど速いわけではないのも納得がいく。
「なに勝ち誇った顔してんのよッ!」
聖剣がギリギリで届く距離まで近づいてきた女神。
彼女の手の平から、青白い光が発生した。
勝機の糸口を見つけて安堵仕掛けたアベルの血の気が引く。
その光が何を意味しているのかは明らかだからだ。
先程、二度に渡って王都を破壊した、神の光。
果たして聖鎧がその直撃に耐えることが出来るのかどうか……。
もちろんそれを試す気はない。
アベルは改めて大地を踏み込むと、今度は一転してアクシルに向かって突っ込んだ。
敵の腕を掻い潜り、まるで強姦でもするかのような勢いで女神に飛びかかる。
好みではない異性に迫るのは、ここまで気が乗らないものなのか。
「――!」
身分や立場の上下を当然のものとして絶対視する者達は、時に自分が見下している相手の反発する理由が、全く理解できないことがある。
自分は神、相手は無能な人間。
意識の深層にまでそれを”刷り込まれていた”アクシルは、絶対的な力を持つ自分とその力を恐れて後退するアベルという構図に捕らわれていたことで、反応が一瞬遅れた。
シュィン――、バンッ!
女神の右手から放たれた閃光が、アベルの聖鎧を掠め、背後の大地を吹き飛ばす。
成功と失敗の距離は紙一重。
アクシルに余計な思い込みがなければ、これで勝負は決まっていたかもしれない。
「うぉぉぉぉぉっ!」
死が怖くないというのは、ただの狂人だ。
勇者とは、そして強者とは、死の恐怖を確かに感じ取りながら、それでも躊躇うこと無く前進する者のことを指す。
自分のすぐ近くを掠めていった死。
再び目の前の女から放たれるであろう死。
魔王アベルは咆哮と共に、女神の真正面という死地へと飛び込んだ。
「この!」
人間の反応速度で認識出来るギリギリの水準で飛んでくる拳。
ヒロトの時は絶対防御を体現していた聖鎧が、華奢な腕によって呆気なく砕かれていく。
(まだだっ! こらえろ!)
勝負事というのは、本質的に勝利と敗北の両方の可能性が内包されている。
どれだけ有利な条件であっても、その未来が勝利しかありえないことなどないし、どれだけ実力に差があっても、その未来に敗北しかありえないということもない。
アベルが念力でアクシルの体を掴もうとした時、なぜ彼女はわざわざそれを弾いた?
……単純な話だ。
その攻撃が有効だからだ。
念力で握られれば、女神と言えども肉も骨も潰される。
だからこそ彼女はわざわざそれを弾いたのではないか?
攻撃面、特に火力に関しては圧倒的な水準を誇るアクシルといえど、防御面ではそこまで頑強ではないということだ。
赤い瞳が光る。
最も勝機があるのはここだ。
ここで引く理由はない!
女神の拳が掠めて、篭手が吹き飛ぶ。
鎧を貫通して脇腹に穴が開く。
念力で首を掴もうとすれば弾かれ、剣を振れば止められる。
アベルは息を吐き出し、両足を食いしばった。
一瞬だ、一瞬だけでいい。
一撃を叩き込むだけの隙さえあれば!
「狙いが見え見えなのよっ! 私がそんなヘマするわけないでしょうがッ!」
アクシルとて、直撃を喰らえば自分の身が危ういことなど百も承知だ。
アベル達は知らなかったが、神としての彼女の耐久力はかなり低い。
そして本人がそれを自覚している以上、簡単に隙を作ってくれるはずもなかった。
千載一遇の好機を待ち望む魔王だったが、しかし世の中は気持ちだけでどうにかなるほど甘くはない。
蓄積するダメージに体が耐えきれず、足が踏ん張りきれなかった。
「貰った!」
(しまっ――)
頭部への直撃コース。
逆に隙を作ってしまったアベルの視界に、女神の掌底が迫る。
このまま撃ち抜かれれば、兜と一緒に、頭蓋も脳髄も纏めて飛び散らせることになるだろう。
本能が死を確信した。
死の間際には過去の記憶が走馬灯のように駆け巡るらしいが、そんなことが起こる気配すらない。
ただのでまかせだったのか、あるいは貰い物の知識では駄目なのか。
いずれにしても、呆気ない終わりである。
アベルとアクシル。
到底わかり合えそうにない両者は、魔王の死が確定したという点において、その意見を一致させた。
……疑義が申し立てられるまでは。
――ミシッ!
「――え?」
アベルの頭部を粉砕しようと、突き出された女神の腕。
それを真横から氷の矢が撃ち抜いた。
耐久力に劣るとはいえ、仮にも神である女神の腕を貫くには至らなかったものの、しかし逆にそれが功を奏し、アベルを狙った攻撃の軌道を逸らすことに成功した。
超高速弾、超精密射撃。
決まったと思った勝負に横槍を入れられたアクシルは、思わず氷の矢が飛んできた方向へと視線を向けた。
(……グレゴリー?!)
目算で一キロ以上離れた向こう。
白い服を自分自身の赤い血で染めて、文字通り満身創痍の教皇グレゴリーが立っていた。




