16話「駆け引き」
――アリーゼ・サイド――
午後の授業が始まってからリル様の様子がおかしい。
いつもは私が教壇に立って授業しているのを、教室の後ろにたたずんでニコニコしながら見つめてくるのに。
今日のリル様は窓の外を眺めたり、子供たちの質問に個別に答えたり、本を読んだりしています。
授業中ずっと見つめていられても困るのですが、急に態度を変えられると不安になります。
私何かリル様を不快にさせることをしたでしょうか?
女生徒の勉強を見ていたリル様が、問題が解けた女の子に向かってニッコリとほほ笑みました。
なぜか胸がモヤモヤします、今までリル様の笑顔を至近距離で見られたのは私だけだったのに。
……私ったら何を考えているのでしょう! 相手は子供、しかも教え子なのに、こんな醜い感情をいだくなんて。
「アリーゼ先生が授業中に百面相してる~~!」
男子生徒に指摘され、思わず教科書で顔を隠します。
恥ずかしいです、授業中にリル様のことばかり考えていたなんて……教師失格です。
その後なんとか平静を取り戻し、午後の授業を終えました。
午後の授業が一教科だけで助かりました。
リル様は授業中、全く目を合わせてくれませんでした。
リル様と視線が合わなかっただけで、胸がズキズキと痛むのはなぜでしょう?
☆
「べアノン、迎えに来たわよ!」
「げっ! 姉ちゃん何しに来たんだよ!」
放課後べアノンくんのお姉さんを名乗る、黒髪の若い女の人が訪ねて来ました。
「だから迎えだって言ってるでしょ、それよりリル先生はどこよ? まだいるんでしょ?」
「あっちにいるけど……」
「リル先生、ご無沙汰しております! べアノンの姉のハンナです!」
べアノンくんが指差した方向にリル様がいることを確認したハンナさんは、べアノンくんを押し飛ばしリル様のもとに突進していきました。
「べアノンの姉ちゃんすげぇな」
「どうでもいいけど香水の匂いが強すぎねぇか?」
「化粧も厚いしな」
「服も派手じゃね?」
子供たちが言うとおりハンナさんは胸元が大きく開いた真っ赤な衣服を身に着けていました、教室中にハンナさんの付けているバラの香水の香りが広がります。
「べアノンくんのお姉さんですか、初めましてですよね? ところでボクに何か御用ですか?」
「ハンナと呼んでください、リル先生!」
「べアノンくんのお姉さん、用件がないならお帰りください」
「冷たい、そこが素敵! あの私先生に食べてもらいたくてクッキー焼いてきたんです」
ハンナさんがバッグからリボンのついた袋を取り出しました。
「生徒の保護者からは物を受け取らない決まりですので」
「そんな固いことをおっしゃらずに、一枚だけでも」
「もーらい!」
べアノンくんがハンナさんの持っていた袋を、横から奪っていきます。
「ちょっとべアノン! 何すんのよ!!」
ハンナさんが鬼のような形相でべアノンくんを叱りつけます。
「あら、いやだ私ったらはしたない、おホホホ」
ハンナさんが取り繕うように口に手を当てて笑いました。
「うまっ!」
紙袋からクッキーを一枚取り出して、口に放り込んだべアノンくんが叫びました。
ハンナさんはお料理が上手なんでしょうか? 私は調理場に立ったことすらありません。
「このクッキー、姉ちゃんが作ったんじゃねぇだろ?」
「まじで?! オレにも食わして、ホントだうめぇ!」
オレにも頂戴と言って男の子たちがクッキーの袋に手を伸ばしていきます。
「これ絶対買ったやつだよ、べアノンの姉ちゃん料理下手くそだもん」
クッキーを食べた男の子が感想を漏らします。
「前にべアノンの家に遊びに行ったとき、ケーキを焦がしてオーブンから黒い煙が出てたし」
「スコーンを焦がしてたこともあったよな」
「謎の鍋料理を煮込んでて爆発させたこともあったっけ!」
「余計なこと話すんじゃないよ! クソガキ共!!」
ハンナさんが眉を吊り上げて怒鳴ります。
「べアノンの姉ちゃんが怒った、怖ぇーー! 逃げろーー!!」
ハンナさんに叱られた男の子たちは、蜘蛛の子を散らすように去っていきました。
「ごめんなさい、弟も弟の友達も口が悪くて、でも先程のクッキーは本当に私が作ったんですよ」
ハンナさんは怒っていたときとは表情も声色も変えて、体をくねくねさせながらリル様に笑顔を振りまきます。
「べアノンくんのお姉さん、あなたは弟さんを迎えに来たんですよね、弟さんが帰ったというのに、あなたはここで何をやっているんですか?」
リル様が冷たい視線をハンナさんに向けます。
「えっ? あっ、大丈夫ですよ、わんぱく坊主たちなんてほっといても勝手に家に帰りますから」
「なるほどつまりこういうことですね、あなたは弟の迎えに来たのに、その役目を放棄して教室で油を売っていると」
「そんな、大げさな」
「ボクは己の役割を放棄する人間を死ぬほど軽蔑します」
リル様がギロリと睨むと、ハンナ様は顔を真っ青にして額からダラダラと汗を流しました。
「ごめんなさい、私弟が心配なので帰ります! べアノン待ってーー!」
バタバタと音を立ててハンナさんが教室を出ていきました。あとには鼻をつまみたくなるほどの香水の匂いだけが残りました。
リル様が無表情で教室の窓を開けます。
「私も手伝います」
リル様と手分けをして、教室の窓をすべて開け放ちました。
お昼休みに女の子たちが言っていたのは本当のことだったようです。べアノンくんのお姉さんはリル様が好き。
生徒の未婚のお姉さんや叔母さんの中には、リル様に好意を寄せている人が他にもいる。
ハンナさんのようにプレゼントを持って教室に突撃してくる保護者がまた現れたら……胸の奥がモヤモヤします。
「アリーゼ、今日の夜のことなんだけど」
いつの間にか空気はすっかり入れ替わっていて、リル様が窓を閉める作業をしていました。
私はそんなに長い時間、呆けていたのでしょうか?
今夜もリル様と同じベッドで眠るのでしょうか? 今朝猫耳のリル様にベッドの中で抱きしめられていた事を思い出してしまいました。顔に熱が集まってきます。
「リル様あの……」
「ボクは外に泊まるから、エミリーにもそう伝えておいて」
リル様はそう言うと教室の窓を全部閉めて、教室から出ていきました。
「リル様、私と一度も視線を合わせてくれませんでした」
迫られると恥ずかしいのに、距離を置かれた途端に寂しいと感じる……私はとんでもなく天の邪鬼なのかもしれません。




