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狂人理論  作者: 金椎響
第二章 不都合な事実
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墓石《トムストーン》

 それは、とても寒い日のことだった。

 合衆国(ステイツ)の首都ワシントン特別区(DC)からバージニア州へ向けて、一台の車が走る。

 寒さと結露で白く曇った車窓。そこから見えるポトマック川からは、あまりの寒さに白い湯気がぼんやりと立ち込めて、どこか幻想的な雰囲気を醸し出していた。

 後部座席で、ひとりの少女が息を吐く。癖ひとつないストレートの長髪は、黒い喪服とよく調和していた。物憂げな表情で、窓から川の詳細をぼんやりと眺めている。

 川にかかる橋を渡り、やがて車が目的地に辿り着く。

 アーリントン国立墓地。

 総面積六二四エーカー(三平方キロメートル)の広大な芝生の敷地には、三〇〇〇〇一基の戦没者の真っ白な墓石(トムストーン)が整然と並んでいた。

 ここには独立戦争以来、数々の戦争で戦死した人々が、現在進行形で葬られている。

 そして、ノリーンの父が眠る場所でもある。父の墓石を前にして、ノリーンはそっとしゃがみ込むと、手を差し出す。白い墓石の側面を、彼女の細くて長い指が優しく擦る。その感触は固く、ひどく冷たい。


「父さん、許して。どんなに時を重ねても、他に誰か大切な人ができたとしても……」


 ノリーンは断言した。


「わたしはクラリッサを許せない」




 そこで、不意に目が覚めた。

 ノリーンは反射的に、はっと短く息を口から吐き出す。そして、のろのろと座席から身体を起こすと、目を擦る。フロントガラスに映り込む、車両の赤いブレーキランプがやけに眩しく感じられた。


「あっ、ごめん。起こしちゃった?」


 運転席でハンドルを握るチェルシー・クリーヴランドの明瞭な声。彼女もまた、ジョリオンのように自動運転ではなく、自らステアリングを握り、アクセルを踏むことを好んでいた。


「今、どの辺?」

「ようやく道半ば、ってとこかな」


 チェルシーはフロントガラスにいくつか情報を投影させる。

 公式の道路交通情報ではない。有志がネットで公開している、アルテア市警《APD》が緊急時に行う、検問に関する情報だ。オープンソースなのだが、一般人はあまり利用していないある意味不憫なツールでもあった。


「どうしても検問を避けると、迂回路を使う羽目になるんだよね」

「それでいいわ」


 ノリーンに思いつくということは、クラリッサも当然このことに思い至っているはずだ。そうなれば、見かけ上の時間のロスは大して気にならない。三日前、ジョリオンと言い争ったこともあって、今は諜報軍(インテリジェンス)の力を頼りたくはなかった。そう思えばこその回り道だ。


「クーラーボックスに食べ物が入ってるから、何か食べなよ?」

「……チェルシーが運転してるのに?」

「じゃあ、後で一緒に食べよっか?」


 前方の安全を確認して、チェルシーがノリーンに向かって笑いかける。


「……そうしましょう」

「でもさ、なんでハルートじゃなくてあたしなの?」


 何気ない質問だったが、ノリーンは返答に困ってしまう。

 不思議と、クラリッサの顔が脳裏を過る。

 さあ、選択の時間だ、エレナー。そして、ノリーンはツクシが助かる可能性を捨てて、クラリッサに挑戦した。

 哲学問題はシンプルだが、その問題はマーカス・ラトレル二等兵曹のように、現実の選択には不確実性が伴う。そして何よりも重要なのは、身を切るような選択をしたというのに、それ相応の対価が常に得られるとは限らないことだ。

 最初から、クラリッサの件に関してハルートを巻き込まない。そう決心していたからこそハルートにはクラリッサに関する一切のことを語らなかったし、厳しい態度も辞さなかった。

 それなのに、ハルートはノリーンの気持ちを踏み躙るようにやって来た。ジョリオンも、ハルートを支持した。もちろん、ノリーンが見捨てたツクシを助けたことは称賛に値するけれど、手放しでは喜べなかった。

 とはいえ、消去法だったと馬鹿正直にチェルシーに告げるのも憚られた。


「巻き込んでしまって、悪かったって思ってるわ」


 かわりに、ノリーンはそう言って顔を背けた。

 ノリーンのそっぽに向かって、チェルシーはどこか優しい口調で語りかけてくる。


「別に、その点に関しては気にしてないけどね。むしろ、嬉しく思ってるくらい」

「……嬉しく?」

「そう。だって、ノリーンはこういう時に頼れる友達、少ないでしょ?」


 面と向かって訊ねられ、思わずノリーンの顔が曇る。残念ながら、ノリーンに気心の知れた友人という存在はほぼ皆無だ。

 低次元の中身のない会話をして微笑んでいられるほど、ノリーンの対人許容度は深くない。機械弄りやディスプレイの前で数式を扱っている時の方がよほど心が安らぐくらいだ。


「だから、こういう時に声かけてもらえる人は得がたいなって思ってたところ」

「でも、それって面倒じゃない? 損得勘定はないの?」


 チェルシーは左手を背後に回すと、蛍光色の作業着のポケットから半透明の赤いカードを抜き取る。諜報軍(インテリジェンス)が扱う、電子通貨。おそらく、ジョリオンにつけておいた分の支払いだろう。


「まぁ、ノリーンは特別よ。お得意様でもあるし、気心の知れた友人でもあるし……それに、なんていうのかなぁ」


 チェルシーは遠くの方を眺めて、不意に黙り込む。


「……ほっとけないっていうのか。まぁ、ともかく、大事な人だからね。ノリーンにだっているでしょ? そういう人」


 大事な人。

 随分と、遠い言葉になってしまった。

 それゆえ、ノリーンはすぐにチェルシーに応えられない。


「大切だから、あえて遠ざけておくの?」


 チェルシーの言葉が、ノリーンの心に染みていく。

 何か言い返したかったけれど、チェルシーの声がいつまでも耳につきまとって離れない。

 それでも、ノリーンは辛うじて口を開いた。


「身勝手だって思う?」

「気持ちはわからないわけじゃないね」


 チェルシーはフロントガラスの情報と目の前に広がる視界を確認しながら、言う。

 中心街(セントラル)から離れた、閑静な高級住宅街。チェルシーの古びたピックアップ・トラックとは到底そぐわない、豪奢な邸宅が等間隔に並んでいた。


「でも、むなしく感じちゃうかもね。傍にいてほしいときに限って、その場にいないっていうのは、辛いっていうか……」

「ごめんなさい、チェルシー。もうちょっとだけ、寝かせてもらうわ」


 言うが早いか、ノリーンは羽織ったミリタリージャケットのフードを目深に被る。

 チェルシーの苦笑にも、ノリーンはあえて聞こえない振りをした。



 父が弔われた日のことを、ノリーンは今でも明瞭に覚えている。

 それは、とても寒い日のことだった。

 一月の寒空の下、その日もワシントンからバージニア方面へ向けて車は駆けていた。

 アーリントンではその日、一時間半ごとに葬儀が行われていた。

 エヴァレット家の人たちは、アーリントン国立墓地付属の礼拝堂の前に集まっていた。

 遺族とは別に、三人の参列者代表が棺に付き添うために集まっていた。

 三人は、父が歴任した政府ポストの現職者達だった。連邦捜査局(FBI)の副長官、空軍特別捜査部(OSI)局長の少将、防衛情報局(DIA)局長の将軍――階級は中将――の三人だった。

 そう、三名の参列者代表と、それにノリーンたち親族は棺の到着を待っていた。

 ショパンの「葬送行進曲」を奏でる空軍の楽隊に続き、空軍儀仗兵が手綱をとる二輪の馬車が父の遺体を納めた棺を乗せて到着した。

 二輪の馬車の傍で、身体をぴんと伸ばした儀仗兵が、騎手なき馬の(あぶみ)に、長靴を逆さまに取り付ける。

 斃れた将軍に捧げる儀礼だった。

 誰かが、故ケネディ大統領の葬儀を思い出す、と言った。ノリーンの知らない人だったから、三人の参列者代表の誰かだったかもしれない。

 馬車は礼拝堂の玄関の、緑色の庇の下に来て止まる。

 馬車を引いて来た馬の鼻筋の先に、蒸気が白い霧のように噴き出ていた。

 だけど、何故だろう。ノリーンは寒さに震えていた訳ではなかった。悲しみと、喪失感。それが、ノリーンの身体を揺さ振っていたのだと思う。

 父の棺がようやく礼拝堂に運び込まれ、祈りが始まる。死者の安らかな眠りを皆で祈るために。だけど、ノリーンは思う。はたして魂は心穏やかな心地であの世へ旅立つことができるのか。

 幼い頃に母を喪い、ひとりぼっちになってしまったノリーン。彼は冷たい土のなかで眠ることを潔しとしないのではないか。

 最前列で呆然と座り続けるノリーン。その後ろに、遠い親戚たちの幼い子ども達が騒ぎ立てることもなく、神妙な面持ちで座っている。

 誰もが、故人との別れを前に固まっていた。

 そして、棺は墓地に運ばれ、父の魂はようやく神父の手で天使達に引き渡された。

 棺を下ろし、土をかぶせた。儀仗兵がライフルを発射する。

 その一発一発が、ノリーンの心にしみた。


 結局、その日ノリーンは涙一つ零さなかった。



「ノリーン、起きて」


 優しく揺さぶるチェルシーの手を、ノリーンは思わず強く握ってしまう。その握力に、チェルシーが声を上げる。


「……ごめんなさい」

「びっ、びっくりしたー。いきなり物凄い力で掴むんだもん」


 チェルシーが目を丸くしている。


「どうしたの、ノリーン? 顔、真っ青だけど」


 そう言うと、後部座席に置いた鞄からタオルを取り出す。それを、青ざめた顔をして固まるノリーンに差し出してくれた。


「ありがとう」

「……悪い夢でも見た?」


 難しい質問だと、ノリーンは思った。

 確かに、今ノリーンが見ていたものは、夢だった。だけど、それはかつてノリーンが体験した記憶であり、それは現実だった。決して、夢ではなかった。


「ええ」


 そう言うと、周囲の状況を確認する。

 住宅街に住む人々が訪れる、複合商業施設の駐車場だ。ちょうど、主要な幹線道路からは離れていて、ここ以外からやって来た人の車は少なそうだった。


「ご飯、食べない? それとも、まだ寝る?」

「食事にする。もう眠れそうにないもの」


 チェルシーがボックスから色々な食べ物を差し出す。

 寝起きだったので、胃に重たそうなハンバーガーではなく、チューブに入ったエナジーゼリーを啜る。チェルシーはシリアルに牛乳をかけて、随分と大きいスプーンで食べていた。


「……ノリーンはさ」


 チェルシーはそう言うものの、まだ口にシリアルが残っていて、かなり聞き取りにくい。


「……ん?」

「もっと人に弱みを見せてもいいと思うよ?」

「弱み?」

「うん。弱み……じゃないか、弱さかな」


 チェルシーはそう言うと、カップの底にたまった牛乳を飲み干す。


「大事なものから遠ざかると、寂しくなるでしょ? 自分を自分で鼓舞してみたり、痩せ我慢してみたり、柄でもなく開き直ってみたり……。あんまり背負いすぎてると、肩壊しちゃうよ」


 わかったような口を利くのね、とはさすがに言えなかった。

 ハルートがここにいないことが、それを端的に示している。

 三日も顔を合わさないなんて、初めてかもしれない。

 それに、IRIS社のパーツで納得できない時はいつだってチェルシーの下を訪ねては、ハルートの話題で盛り上がった。それゆえ、ある意味ではチェルシーはノリーンとハルートのことをよく知っているといえる。


「チェルシー」

「何?」

「……わたしを甘いと思う?」


 その問いに、チェルシーは口籠る。


「うーん、どうだろ。甘さなのかな……?」

「わたしは、そう自己分析をしてる。でもね、チェルシー。大切なものは誰にも渡しちゃいけないし、失いたくないと思えばこそ、あえて手元から遠ざけることも、わたしは必要だと思ってる。そして、それが合理的で、正しいとすら思ってるの。たとえ、今は辛くってもね。いつか、あれは必要だったと言える日が来るわ」


 そう言って、ノリーンは前を見据えた。


「ここからは、わたしが運転する」

「マジで? この車、自動運転システムないんだけど」

「大丈夫よ」


 ノリーンは車から降りると、ぐるっと車を回り込んで運転席側へ移ろうとする。


「それに、チェルシーには目的地がわからないでしょ?」

「そりゃそうだけど、言ってくれれば大丈夫だって……」


 渋々、チェルシーは運転席から降りると、席をノリーンに譲る。


「残念だけど、彼の家には表札が出てないの。いえ、行く度に違う名前が表示されてて、ネットの検索だと出て来ないの」


 その言葉に、チェルシーは眉を顰める。


「……何それ?」

「今は引退した、父の知り合いなの」


 ノリーンの言葉に、チェルシーが目を見開く。

 キーを回しこんで、エンジンを始動させた。

 そして、ピックアップ・トラックは走り出す。

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