017 <いばら姫> ― Ⅴ
娘の遺体を橋の上に置いたまま無心に人殺し城へと帰って行くローズ。シャトンはそんな彼女を止めようと何度も声を上げたがローズは無視をし続けた。
城の中は先の様な精霊の悲鳴は聞こえず、遠くで鍔迫り合いをする音だけが響いてくる。ローズは彼女を止めようとするシャトンを振り払いながら急いで地下室に続く階段へと向かった。しかし階段を下りるまでもなく手すりに二つの影が寄りかっているのを発見する。そこには腹を抉る様に斬り付けられたリッツと涙を流す精霊の姿があった。どうやら地下室からは脱出できたが、ここで力尽きてしまったようだ。
剣がぶつかり合う音も地下室からではなく二階の渡り廊下の陰から聞こえてくる。恐らくフリードリヒとオクタビウスは青髭と剣を交えている間に建物の奥へと追い込まれてしまったようだ。
「…………なぜ戻って来た?」
精霊が静かに顔を上げてローズを睨んだ。この言葉には息子同然として大切に育ててきた主マックス・リッツが命を懸けてお前を逃がしてやったのに、何故またこの地獄へと戻ってきたかと言う苛立ちの意味を孕んでいる。
「助けにきました……」
精霊の威圧に押されながらもローズは捻り出すような声で言い切った。恐怖は未だにぬぐえぬが、心はすっかりグリムアルムの使命感に駆られている。
そんな彼女の強い意志に気が付いたのか、ただ声に反応しただけなのかリッツが小さく指を動かした。死んでいるかと思ったがまだ息はあるようだ。だがもう顔を上げる力も残っていない。何か言い出そうと口を開くが、痛みにせき込み吐血する。彼は喋る代わりに腰のポケットから赤く染まった青い紙を取り出して、ローズに見せるように腕を下ろした。
「栞…………を…………」
それはリッツがハンスから託された、精霊との契約の印である猟師の栞であった。彼はなぜローズがこの場所に戻ってきたかよりも真っ先に精霊を逃がそうと動いたのだ。
「だめだ、マックス! 今、栞を手放せばお前は死んでしまう!!」
精霊の言う通り、彼が今なお生きていられるのは彼女の液体を操る能力のお陰。それによって彼は必要以上に血を流さずに済んでいる。しかしどの道長くはない命。彼は己の命よりも精霊の安全を選んだのだった。
精霊はそんな彼の慈悲に何度も抵抗の叫びを上げた。だがその声は一番聞かれたくも無い青髭の耳にも届いてしまう。青髭は渡り廊下から階段下を見下ろすと、逃げたはずの人間が戻ってきていることに気が付いた。しかしローズたちの方はその青髭に気が付いていない。
「精霊さまぁ…………、貴女だけでも逃げてください……」
主人の最後の願いに「嫌じゃ……」と涙で濡れた声で突き返す精霊。だがリッツの息の抜けるように発せられた「お願いだぁ……」という穏やかな声色に、ついに精霊は小さく頭を頷かせた。彼女はいつだって我が子の意思を尊重する。
「ローズ…………、妾からも………………頼む」
精霊の両手に握られた青い栞とリッツの右手。潰えてしまう命の灯を震える手でローズに突き出した。
そんな彼らの決死の覚悟を見たローズは内心、酷く動揺をしていた。彼らを助けに来たつもりが自らの手で彼らの命を刈り取ってしまう。考えもしていなかった事態に理解が追い付いていないようだった。本当は二人を助けたい。だがそんな最初の思いも忘れてしまうほどに目の前の光景に混乱し、思考が鈍ったローズはただ言われるがままに“栞を受け取ろう”と腕を伸ばした。
だがその時、
「ローズ!! なぜ逃げていない!!」
と二階の吹き抜け廊下からフリードリヒの怒号が彼女の頭上へと落ちてくる。
突然のことで驚き、思考が固まるローズ。慌てて声の方へと見上げれば、血走った青髭の両眼とローズの目がばっちりと合ってしまった。彼は勝ち取った獲物がまた奪われるのではないかとローズに強い敵意を持っていた。
青髭はフリードリヒとオクタビウスの相手を止めると、手すりから一階へと飛び降りてローズの前に着地する。地響きする地面と目の前に現れた大男にローズの心は再び恐怖に囚われた。
そんな彼女を助けるためにフリードリヒも背後から青髭を突こうと剣を振るうが、彼の気配に勘づいた青髭は振り返りざまに剣を振ってフリードリヒの腹を切り裂いた。
フリードリヒも大層焦っていたのであろう。普段ならば避ける事も出来た単純な振りが深々と彼の腹を掻き捌き、内臓が地面に勢いよくぶち撒けられる。
ローズには確かに栞を受け取ろうという意思はあった。しかし師匠が一撃でやられた衝撃。それよりも青髭が近づいてくるという恐怖に彼女の心は完全に陥っている。気が付けば彼女の足はその場から逃げ出そうと動き始めていた。
結局のところ、彼女の覚悟とはその程度であった。口先や頭の中では使命の為にと容易く嘯くが心は常に逃げ出したい気持ちでいっぱいである。その甘さに精霊は大きく失望し、怒りの形相でローズを罵った。
「よくも騙したなー! この裏切り者ーーーーっ!!」
憎悪の叫びが彼女の背中を深く突き刺す。精霊は逃げるローズに向かって腕を伸ばすが、その腕も下りてきた青髭の剣によって胸と共に切り捨てられた。瞬時に彼女の体は元の紙の束へと戻ってゆく。
精霊が封印された。それはリッツの死も意味する。彼女の断末魔が耳にこびり付き、振り返ることも恐ろしい。ローズは己の弱さに絶望し、現実を受け止めることもできずにただ出口へと走っていた。
すぐそこには外の日差し。少しでも早くその光に触れたいと、足を急がせるが古ぼけた絨毯に躓き勢いよく倒れてしまう。
「ローズ様!!」
ローズの隣で共に走っていたシャトンは倒れた彼女を起き上がらせようと駆け戻る。そこに堂々と歩いてくる青髭の足音。振り返り、大男の影を怯えた眼差しで確認するローズ。青髭はローズの前に仁王立ちすると大きく剣を振り上げた。
ああ、もう駄目だ。そう確信するや、ローズは力強く目を瞑って体を縮こませた。しかしいつまで経っても剣が下りてこない。代わりに彼女の頬には、ぽつり……ぽつり……と生暖かい水が滴ってくる。ローズは恐る恐ると瞼を開けた。するとそこには彼女を覆いかぶさるように護るオクタビウスの姿があった。
「マイン ローゼ……怪我はないかい?」
いつもと変わらない柔らかな微笑みを浮かべてオクタビウスは愛の言葉を囁いた。震える彼女の瞳から優しく涙を拭いとり、主であるフリードリヒが息を引き取ると同時に彼もまた栞の封印によって紙の束へと戻っていく。
「あ……あぁ……」
返り血のようにオクタビウスの紙がローズの上に降り注ぐ。目の前の光景に言葉を詰まらせ、頭の血の気がサーっと引いてしまう感覚に襲われるが、それでもなお生に執着し続ける本能が醜く彼女を這いつくばせて外の光へと向かわせた。しかしそんな彼女の背後から、青髭は余裕のある声で問いかける。
「小僧。また逃げるのか?」
ローズは動きを止めてその場で固まった。
「お前の仲間は皆、死んだ。貴様は何の為にここに来た?」
呼吸が早くなり、沸々と何かが込み上げてくる感覚に襲われる。
「挑発に乗ってはいけませぬ、ローズ様」
シャトンが警告を耳打ちするが、彼女には聞こえていないようだった。
「さあ来い小僧。<青髭>の首はここにある」
そう言うと青髭は三歩ほど後ろ歩きで下がり、階段下に転がるリッツの死骸に更なるトドメを突き刺した。
ぐちゃりと鳴り聞こえる鈍い音。ゆっくりと振り向きその光景を見ていたローズは心の中に閉じ込めていたある感情に支配され、ついに<青髭>に飛び掛かる。
朽ちた広間を真っ白なイバラが這い上がる。それは今まで押し殺してきた彼女の<童話>に対する“憎しみ”そのもの。愛する義父を殺し、師や仲間を殺してきた<童話>に対する初めての復讐劇。
世界は一瞬にして動きを止めて眠りに還る。しかしその中で唯一動きを止めないローズはオクタビウスのレイピアを拾い上げると青髭の腰に突き刺した。
確かな感覚はある。しかし手ごたえを感じてすぐに青髭の剣が動き出し、形見のレイピアを叩き折る。
――まだ<いばら姫>の能力は発動しているはず。 なのに、なぜ<青髭>は動ける?
瞬間的に生まれる疑問を跳ね除けるかのように、青髭の剣がローズの上に振り下ろされる。
だが、
「ローズ様!!」
と今度は彼女の従順なる愛猫シャトンがその身を盾にして彼女を庇った。
「シャトン!!」
彼の体は真っ二つに切り裂かれ、紙の束に戻ろうとする。その小さな体を受け止めようとローズはレイピアを手放して腕を伸ばした。しかしその両腕にはシャトンではなく青髭の大剣が重く叩き下ろされる。
鈍く響く骨の音。共に彼女の口からは声にならない悲鳴が吐き出される。その声に
「ん? キサマ、女か……」
と青髭が純粋な声で聞いてきた。
どうやら青髭はローズの男装にうまく騙されていたようだ。だがもう変装の意味はない。青髭はローズの正体を知るや声を明るく弾ませた。
足元に蹲る少女の三つ編みを乱暴に掴むと、自分の顔の所まで持ち上げる。髪を引かれる痛みにローズは悶えて両足をバタつかせるが、必死な抵抗も気にせずに青髭はまじまじと彼女の顔を吟味した。
「ふん、男の格好などしおって。この私を騙したつもりか。舐められたもんだ」
青髭はそう言いながらもニタリと笑みを浮かべるが、ローズはその濃い髭の奥に見える黄ばんだ歯の不気味な光に再び恐怖を取り戻した。




