016 <長靴をはいた牡猫> ― Ⅻ
翌朝。今日はマテスが馬小屋の掃除当番のようで、こちらの仕事もそつなくこなしてゆく。彼もすっかり一人前に成長したようだ。その証拠に次の仕事までの時間に少しばかりの余裕ができていた。
マテスは馬小屋の入り口に置いてある樽の上に腰をかけると、干草を喰む馬たちを眺めながら時間が過ぎるのを待っていた。しかし彼の眼には昨朝見た草原でのあの光景が映し出されている。朝焼けで白んだ大空にじゃれ合う馬のはいた息。なだらかに駆けるそよ風が撫でる少女の栗色の髪。
マテスは足元に捨てられていた古紙と木炭のかけらを拾い上げると、朝日を浴びる少女の輪郭をなぞるように手を動かした。美しい思い出を焼き付ける様に、何度も記憶を呼び起こす。しかしそれと同時に昨夜の彼女の言葉がこだました。
―――― 貴方は大丈夫。
彼女のことは信じているが、今もなお記憶をなくしたままの自分は本当に大丈夫なのだろうか。
「マテス、お掃除は終わりましたか?」
母屋での仕事を終えたローズがマテスの様子を伺いに馬小屋を覗きにやって来た。突然の声かけに大きく飛び上がったマテスは急いで古紙を足元のゴミの中へと投げ捨てる。しかしローズがそれを見逃すわけがない。
「あら、何かしら?」
「あぁ!!」
止めようとするマテスの手の間をかいくぐり、ローズは古紙を拾い上げた。そこに描かれていたのは朝日を浴びる少女の姿と、馬の横顔のスケッチ。
「これ……、貴方が描いたの?」
「あの……その……」
恥ずかしそうに言葉を詰まらせるマテスをよそに、ローズは「すごい……」と息をのむように囁いた。
「凄く、上手!! 貴方、絵描きだったのね! きっと記憶を無くす前は著名な画家だったのよ。私の義父様も絵を嗜んでいたから分かるの。間違いないわ!! ねえ、何か思い出した?」
「いいや……、全く…………」
「惜しい所まで来ているのかも。そうだ! 今日から毎日絵を描いてくれない?」
「え?!」
「毎日少しずつでも絵を描いていけば、貴方自身の記憶が思い出されるかもしれない。今度、隣町まで行くことがあったら、ちゃんとした紙と絵の具を買って来るわね!」
嬉しそうに絵を眺めながら馬たちの元へ駆け寄るローズにマテスも初めこそは困ったような顔をしていたが、心の中では不思議と満更でも無かった。
それから毎日、マテスは仕事の合間に色んなものをスケッチした。初夏の日差しで煌めく森や川。草原を転げ回る動物たちや今の自分の居場所であるプフルーク家の母屋。そして夜には子供に童話を読み聞かせるローズの姿を。いつしかスケッチは十も百も超え、ローズからもらった画材は二ヶ月とたたないうちに全て使い切ってしまった。
「奥様、街へ出かける許可をもらえませんか?」
翌る日、マテスは勇気を振り絞って主人に外出の許可を取っていた。その頃には彼女の耳や目にも彼の趣味はバレており、それが<童話>とは関係のない彼自身の能力であることもローズから聞かされていた。
「街に行った所でどうする? お前はタダ飯と住む場所をもらう代わりにタダ働きだろ?」
その言葉にそうだったと思い出すマテス。言い返す言葉もなく落ち込む彼の指先には木炭の墨が頑固にこびりついていた。その努力の跡に彼女は何を思ったのか、「ハァ……」っと大きくため息を吐くと嫌みたらしく腕を組んだ。
「今日は倉庫の掃除をしてもらおうかね」
まるで独り言のようにつぶやく彼女の言葉に、マテスは不思議に思いながらも「はい……」と元気なく返事をした。
マテスはこのプフルーク家の部屋全てを掃除していると思っていたが、秘密の倉庫がある事をこの時初めて知った。彼はスワルニダの後に続き、二階の奥、彼女の部屋のさらに奥にある屋根裏部屋への扉の前に連れてこられた。
錆びついた鍵をガチャガチャと揺らして扉を開けると、仄暗くて埃っぽい空間が広がっていた。一歩部屋に踏み込めば、床に積もっていた分厚い埃が瞬く間に宙に舞い上がり、小さな窓から差し込む日差しでキラキラと輝きを放っている。
これは掃除のしがいがありそうだ。だがマテスの目に映ったものは埃まみれの家具ではない。家具の上に積まれている幾つもの芸術に関するコレクション。絵を描く道具や古いクラシックのレコードたち。この時代では退廃芸術として忌み嫌われた絵画の雑誌も乱雑に集められている。マテスは一つ一つの物に興味を示すが、その中でも最も目を引く大作に彼の心は鷲掴みにされた。
分厚い油絵具で塗りたぐられた人よりも大きい横長のキャンバス。そのキャンバスは怒りに染まった赤い空に覆われており、厳つい藍色の馬が抜け出そうともがき苦しんでいる。馬の足元には苦痛に顔を歪める人々が、黄色や緑といったありえない色で描かれており、馬を捕まえようと力強く腕を伸ばしている。その中を走る白い稲妻が彼らを四角く引き裂いて見るものに恐怖を植え付けていた。
絵の隅に書かれた作者の名前は“テオドール・プフルーク”。彼がどういった意味を込めてこの絵を描いたのかは分からないが、マテスは十分にこの絵からこの世に対する恐怖と恨みを感じ取り、絵の馬に睨まれている様な錯覚に陥って固まっていた。
「ヴィルト・ヤークト」
スワルニダがマテスの後ろからその名を呼んだ。彼女は使い古された油絵の具の道具箱を持ってマテスとともにその絵を見る。
「確かそんなタイトルだったよ。まったく、絵を描くならばもっと売れる絵を描いてくれればいいものを。こんなもの、薪の足しにもなりやしない」
そう言いながら彼女は手に持っていた道具箱を乱暴にマテスに押し付けた。
「街に行かなくても画材はまだまだ沢山ある。買い足しに行くのならここの物、全てを使い切ってからにしなさい」
油絵の具は古いながらもしっかりと蓋がされており、中の絵具は乾いておらず今でも使えそうだった。ようやっと抱えて持ち運べるほどの真っ新なキャンバスもいくつか渡された。
「あの……、テオドールさんとは」
「先代の“領主のグリムアルム”で私の亭主。ローズを拾ってきた張本人さ」
スワルニダは深くため息をつきながら木箱に腰をかけると、寂しい瞳をして旦那の作品を見つめていた。そして静かに語り出す。ある冬の物語。
「忘れもしない雪の日だ。ウチの旦那は国境近くの小さな街へ<童話>祓いの依頼を受けて出向いていた。その街は外国人がお偉いさん相手に商売するような治安の悪い地域でね、今でも物騒な所だと評判さ。
そんな街のボロい教会にあの子は捨てられていた。神父様も助けるよりも死ぬのを待つほうが楽だと言うほどに弱っていた赤子のローズを、物好きなあの人は引き取ったんだ。私がずーっと女の子が欲しいって言ってたからなんだとよ。私の実子は三人とも男だからね。だけども食い扶持が増えて本当にいい迷惑だった」
愛おしそうに懐かしむ初老の女の姿は今まで見せてきた険しい形を顰ませて、小さくか弱い姿を映し出す。しかしその背中は次第に元の冷ややかな姿を取り戻し、静かに怒りをにじませた。
「なのにアレは、ローズや息子たちを置いて死んでしまった」
「それは……」
「<童話>に殺されたんだよ。ローズがまだ六つの時だ。父親っ子のローズのことだから、そのまま<童話>が怖くなって<童話>とは無関係な道を選ぶと思っていた。何度、稽古をつけても嫌がるそぶりを見せたからね。なのについにこの間、あの子は自らグリムアルムになると言ってきた。それはお前のお陰だろ? マテス。お前がローズを変えたんだ」
女の恍惚とした笑顔にマテスはひやりとした嫌な冷気を感じとる。
「私はただ……彼女に本心で話してほしいと……言ったまでです」
「その言葉だと、お前はまだ知らないのだな」
「え?」
「その言葉が、ローズに勇気を与えた。お前の言葉は魔法の言葉だ。家族でも何者でも無いお前の言葉が」
「私はただ……」
「お前に感謝の言葉を送ろう。そしてお前に憑りついた<童話>が祓えるよう、私もあの子の為に手伝おう」
嬉しそうなスワルニダを見て、マテスは自分がしでかしたことにゾッとした。
ローズは本当はグリムアルムにはなりたくなかった。アントレアスがグリムアルムになることを拒んでいたのは彼女ではなく自分であった。彼女自身の気持ちを話してほしいと言ったはずが、彼女の選択を奪っていたのは自分の言葉であった。だとしたら最終的に彼女の背中を押したのは、自分の言葉……。
己も片棒を担いでしまっていたことに気が付いたマテスは酷く吐き気を催し後悔した。しかしもう手遅れだ。彼女はもうすでにグリムアルムになってしまった。今更、後に戻る事はできない。
マテスは画材を抱えて自室に戻ると、しばらく椅子の上でうなだれた。そして覚悟を決めたかのようにデッサン帳を広げると、右手を素早く走らせた。彼は描き続ける。自分の記憶を取り戻すために、自らの手で苦難を乗り越える力を得るために。
気が付けば手が勝手にローズを描くほどに、彼の頭の中は彼女のことでいっぱいになっていた。




