016 <長靴をはいた牡猫> ― Ⅲ
残ったローズの母親は「さて」と手を打ち、馬たちを放牧地に放つと倒れた男のいる馬小屋へと戻った。男は身体を起こして、じっと自分の足元を見つめいる。
「先から物静かだが、口がきけないのかい?」
スワルニダの声に男はゆっくりと彼女の方へと顔を向けて自我を示す。
「なぜ私は此処に? <童話>とは?」
「なんだお前さん、<童話>に意識は乗っ取られてはいないのか。だとすると何も分からないでここに来たのかい? へぇ、ここに来る前は何処に居た?」
「どこに……? 憶えて……いません……。考えると、頭がズキズキする……」
辛そうに頭を抱えてうずくまる。どうやら演技でもなさそうだ。そんな寂しい男を、スワルニダは心配する素振りを一つも見せずに大きなため息をついて男を見下ろした。
「さて困った。私の旦那はグリムアルムだったが、私自身は凡人だ。お前の頭痛の元であろうモノを取り除いてやりたい気持ちはあるのだが、私は<童話>を見たり祓うことは出来ないんだ」
苦しむ男を憂いでいるはずなの声は全くもって困ってはいない。相変わらず冷たく突き放した声色をしている。と言っているうちに娘のローズが息を切らして帰ってきた。
「たっ……ただいま、戻りました……」
胸に手を当て呼吸を整えている娘にも母は冷たく「ああ、どうだった?」と言って目線を送るだけ。
「大丈夫です。渋滞もなく、いつも通りの…………あら、起き上がっても大丈夫なのですか?」
頭を縮こませている男に気が付いたローズは男の元へと駆け寄り、心配しながら隣に座った。
「記憶が無いようだ。<童話>には意識を乗っ取られてはいないようだが、頭痛で苦しんでいる。<童話>が暴れているのかね?」
母の調査報告にローズは「可哀想に」とだけ呟くと、すぐさま男の両手を軽く掴んだ。
「お手を失礼します。今から貴方に憑りついている<童話>が誰なのか調べますので、緊張しないでリラックスしてください」
意味のわからぬ男に緊張も何もないのだが、真剣な彼女の姿勢にちょっとだけ肩を強張らせた。しかしローズの声もまた震えている。走って来たからかどうかはわからないが、手も少しだけ汗ばんでいた。彼女の方が俄然緊張しているようだった。
「それでは……、参ります」
そう言うとローズは両目を瞑り、肺の中の空気を全て無くすかのような長い息を細く吐き出した。
静寂に包まれる小屋の中、かすかに聞こえてくるのは遠くで草を踏み軋ませる馬の足音と鳥の可愛いさえずりと笛のように吹き鳴る北風の音だけ。次第に小さな音に慣れ始め、三人の固い呼吸音を聞き分けられるようになった頃、ローズはぱっちりと両目を開き「…………ごめんなさい」と残念そうに声を漏らした。
「声が……まったく聞こえません。いつもなら五月蠅いぐらいに喋るのに、この子はとっても物静かです。あの、記憶が無いようですが、自分のお名前は分かりますか?」
男は少しだけ眉間にしわを寄せると、少しは考えているような素振りは見せるが申し訳なさそうに頭を垂らした。
「すみません……わかりません……」
それを聞いたスワルニダが「胡散臭いねぇ」とつい憎まれ口を叩いてしまうが、ローズは彼に同情して悲しそうに眉を細めた。
「まったく記憶が無いのね……可哀想に……。きっとそれで、<童話>もお話ができないんです」
「あの、先ほどから言っている<童話>というモノはいったい……」
「あぁ、ごめんなさい。<童話>って言っても何のことか分からないですよね。そうですね……私たちの言う<童話>とは、例えるならば精霊の類です。彼らは人の心で遊んだり、イタズラしたりするのが大好きで、それを咎めるのがこの家の一族の役目です。
貴方の身にも<童話>が取り憑いているようなのですが、どうも声が聞こえなくって……。<童話>に取り憑かれた人は意識も乗っ取られてしまうというのに、貴方には意識がある。なにかその子にも事情があるのかも……」
「それで、<童話>の正体は分からず仕舞いか?」
母の質問にローズは口を開くが、咄嗟に小さく下唇を噛んだ。
「もし、<童話>も彼と同じように記憶を無くして口がきけないというのであれば……、<童話>の名前を言ってしまうのは危険かもしれません。彼よりも先に<童話>が記憶を取り戻してしまったら、彼の意識どころか魂さえもとって喰べられてしまうかもしれません」
何も打つ手がないと知ったスワルニダの顔がより一層曇り、男を見下ろす目も更に冷たくなる。
「申し訳ございません、お母様。私一人でどうにかできるような相手ではございませんでした。……ご無理なのは承知なのですが、フェルベルト様が来るまでの間、彼をこの家で保護することはできませんでしょうか?」
「?! こんな怪しい男を?! お前と私しかいないこの家で養えと?!!」
「そこまでしてもらわなくても大丈夫です。今すぐ出ていき……」
「ダメです!!」
急に出てきたローズの大きな声に母と男はびっくりして彼女の顔を凝視した。ローズ自身も自分の声量に驚いているようだが、すぐさま取り繕ったような言葉を吐く。
「<童話>をみすみす逃すことは、グリムアルムの一族としてやってはいけない事だと、お父様も言っておられました。グリムアルムで無くとも、<童話>に苦しめられている人を救うのが私たちの役目ではないのでしょうか?」
いつに無くやる気に満ちた娘の言葉に母は少しだけ嬉しそうに、しかし嫌味たらしく口角を上げて笑ってみせる。
「いいだろう。おい、お前。タダで泊まるのが申し訳ないと思うのであれば、下男として雇うっていうのもいいぞ。息子たちも出て行ったきりで力仕事には苦労してるんだ」
「…………分かりました。せっかくのご厚意ですし、行くあてもありませんからしばらくの間お世話になります」
「!! こちらこそ、よろしくお願いいたします! えっと……」
ローズは困ったように小首を傾けた。
「本名が分かるまで、何とお呼びすればよろしいでしょうか?」
「お好きなものをどうぞ」
「下男で十分だ!」
「分かりました……」
この男は何でもはいはいと答えを返す。このままでは本当に名前が“下男”になってしまう。慌てたローズは声を引きつらせながら、勇気を出して発案した。
「あ、あのっ! 厚かましい事を重々承知で申し上げますが……、私が名付けてもよろしいでしょうか?」
確認を取るローズに二人は静かに注目する。この沈黙は了解という意味なのだろう。二人の視線にローズは改めて姿勢を正すと、固い息を小さく呑み込んだ。
「マテス……はいかがでしょうか?」
白い頬が真っ赤に染まる。
「お好きなように呼んでください」
男は自分の事なのに相も変わらず他人事のように返事をする。母親も渋い顔のまま、腰に手を当て大きくため息をついた。
「それではマテス、フェルベルト様が来るまでの間ですが、どうぞ宜しくお願い致します」
深々と頭を下げる彼女に合わせてマテスも気の抜けた顔のまま頭を下げる。お辞儀と言うよりもローズの真似をするマテスに少女は優しくはにかんだ。




