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グリムアルム  作者: 赤井家鴨
第一幕
34/116

008<夏の庭と冬の庭> ― エピローグ




 日本から来た観光客が賑わう小さな町の駅。

彼らは日本の梅雨時を離れて、この地で楽しく休暇を過ごすらしい。ツアーガイドの笑顔に案内されて、彼らは目的の地へと歩いて行く。

 彼らが去った後には、ルドルフとウィルヘルムの二人組だけが駅前にポツンと立っていた。

二人ともあちらこちらにガーゼや包帯を巻いており、ウィルヘルムに至っては松葉杖までついている。


 二人は故郷の町に帰っていた。正確には帰されていた。

あの戦いの後、二人はハンスが呼んだ救急車に搬送されて一か月近くも入院し、上司(ハンス)の命令により頭を冷やすためにも無理矢理に実家へと帰されたのであった。



 階段を上ることに苦戦しているウィルヘルムにルドルフが無言で右手を差し伸ばす。しかしウィルヘルムは、その手が見えていないとでも言うように、彼の手を無視して自力で階段を上って行った。

そんな甥っ子の後姿を、寂しそうな目でルドルフは見つめている。彼の瞳にはもう、使命や欲望と言ったドス黒い影は落ちていない。

 そんな調子で二人は緩い坂を歩いて行き、大きな屋根の小さな教会にたどり着く。

しかし二人はその中には入らず、教会の裏へと回りこんだ。そこには立派な屋敷と庭があり、庭には若々しい草木が生い茂っている。


 ウィルヘルムは重たそうに右腕を上げると、屋敷のチャイムを力無く押した。

「はーい」と高く通った女性の声が、呼び鈴に返事をして玄関扉を勢いよく開く。

出てきた女性は目を真ん丸くしてルドルフを、そしてウィルヘルムの顔を見る。彼女はウィルヘルムを見るや一瞬にして大量の涙を流し、彼を強く抱きしめた。

「ウィルヘルム! あぁ、私の可愛い坊や。こんなに大きくなっちゃって!

よーく、母さまにそのお顔を見せてちょうだい! キスさせて! 五年間ずっと、貴方を忘れたことなんてなかったわ!」

「お母様、痛いです! もう、勝手にどこか行ったりしませんから、離してください!」

傷に触れられ、泣き声まじりに訴えるも、母は気にせずに彼の首をより強く抱きしめた。

 少々うるさい感動の再会をしている間に、彼女の後ろから熊のようにのっそりと、眉毛を八の字に垂らした太っちょな男が現れた。その男の顔を見たウィルヘルムは、暗く苦しそうな表情を浮かべる。が、目だけはそらさずに彼の顔をジッと見据えていた。

「お父様……、大変申し訳ございません。栞を……<守護童話>を取られてしまいました」

 思い返すと瞳が震える。しかしそれでも目をそらしてはいけない。父、アルノルトは眉毛の端を困ったように掻くと、怯える息子の目を静かに見つめ返した。

「そうか……あの栞は自分の命と同じか、それ以上に大切にしなくてはいけないよ。と、そう教えたはずなのだが……、それを奪われたとなると、私はお前に罰を与えなくてはならない」

 残念そうに言うアルノルトとは違い、ウィルヘルムは覚悟を決めて来ていたようだ。彼は一層、全身に力を入れて、父が言い与える罰を受け止めるための準備をした。

 そして、その罰とは

「……今日一日、子供部屋で妹、マリアへのお祈りを捧げなさい」

と言う、もっとも簡単なものであった。

 彼は激しく怒られ、絶縁される覚悟で来ていたので、その罰の軽さに心底驚いた。

しかし、それを表情には出さずに、冷静を装って「はい。わかりました」と返事をする。

そして懐かしの子供部屋へと足を向けると、我が子を心配する母もまた、ウィルヘルムの後を追って二階へと消えていった。


 二人を見送ったアルノルトは、今度はルドルフの顔を見て深くため息を吐く。

「お前の顔も久しいな。ウィルヘルムが家出をした日以来か……」

「私もグリムアルムの資格を奪われてしまってな、ウィルヘルムにも説教されてしまった。男の嫉妬はみっともないと……」

 左腕にギブスをはめるズタボロ姿な弟を見て、アルノルトの八の字眉毛が更に垂れてゆく。

「お前ももういい大人だし、今更私がガミガミと言っても聞いてはくれないだろ?」

どうやらアルノルトは、自分が弟にバカにされている自覚があるようだ。

ルドルフはバツが悪そうな顔をするが、アルノルトは気にせずにズボンのポケットからあるものを二つ取り出した。それはチェスの駒、白と黒のポーンだった。

「一局どうだ? チェスだけはお前に負けた記憶がないんだ」






「ウィルヘルムとまたこの部屋に入れるなんて、母さま嬉しいわ」

 五年前と何も変わっていない子供部屋。しかしどこも埃っぽくなく、毎日掃除をしていることが伺えられる。

 ウィルヘルムはベッドの上に背負っていた鞄を置くと、ボロボロになった黒いマントを取り出した。そしてそのマントの包みを開くと、白い小さな箱が現れる。

「ウィルヘルム、その箱は?」

「マリアです……。もう、頭と小さな骨数本しか残っていませんが……」

 ウィルヘルムの手から母へと渡されたマリアの骨壺。彼女は涙をこらえる事も無く「マリア……」と囁きながら、大事に娘を抱きしめた。

「お母様、申し訳ございませんでした……。

マリアの死を受け止められなかった自分の弱さが、とっても恥ずかしい。

そして、今もまだ懲りずにマリアが戻ってくるんじゃないかと何処かで期待しているのです」

 ウィルヘルムの懺悔を然りと聞いた母は、骨壺をまたウィルヘルムの手の中に戻してあげる。

「ウィルヘルム……。貴方がいない間にね、マリアのために新しい墓石を……、彼女が好きだったネズの木の根元に作っておいたの。とっても綺麗なのよ」

そう言いながら涙を拭うと、彼女は急に険しい顔をして、廊下の方を強く指差した。

「今すぐ貴方の手で、マリアの骨を納めてきなさい。ちゃんと綺麗な水で隅々まで洗うのよ。終わったらお父様に言われた通り、この部屋で一日、懺悔するの。いいわね」

 ウィルヘルムは頷くと、言われるがままにスコップを持って、屋敷の庭へと出て行った。

樽桶一杯に綺麗な水を溜めると、マリアの骨を静かにその中へ浸からせる。丁寧に丁寧に骨のくぼみやヒビの間まで、指を器用に使いながら、汚れを少しづつ落としていった。そして十分綺麗になったと満足すると、今度は夏の庭だった場所にあるネズの木の下へと歩いて行った。

 庭の向こう側には教会の墓地が広がっているのだが、その中でもマリアの墓石が一番美しく思えた。

 五年前の夜も、こうしてネズの木の下でマリアの事を思ったな。っと土を掘り返すたびに思い出した。しかしあの時とは違い<童話>はもういない。

 二枚に破れたマントにもう一度、マリアの骨壷を包んで、大きく掘り過ぎた穴の中へと名残惜しそうに彼女を納めた。そして穴からゆっくりと上半身を起こし、ちょっとづつマントの上に土をかけていった。

 土をかけても、かけても彼が故意に積み重ねてきた罪は拭えないだろう。

しかし、彼が愛する妹を自分の手で葬ることが、彼の母がウィルヘルムに与えた大きな罰だった。

 一杯づつ土をかけるたびに目から大粒の涙が落ちてゆく。

次第にウィルヘルムの視界がぼやけていき、完全に骨壷が埋まる前に、彼はスコップを持つ手を止めてしまった。




マリア……マリア……。ごめんね。ごめんね。

こんなワガママな兄で。

お前を守れなかった弱い兄で。

戦う兄が好きだと言った。

頼れる兄が誇らしいと言った。

そんな事ないのに、そんな所まったく無いのに……。

お前の方がいつだって強くて優しい、人思いな子なのに。

そんなお前に大好きだと言われて俺はとっても嬉しかったよ。ねえマリア、

「僕も……僕も大好きだよ……」


『マリアの方がもっとだよ?』



どこからか、マリアのくすくすっと笑う可愛い声が聞こえた。気がした。

しかし庭には彼以外誰もいない。

 土の下から聞こえた気がした。ウィルヘルムは泥まみれになりながらももう一度穴を掘り返した。マントが顔を覗かせると、無理やりそれを引っ張り出し、骨壷に素早く耳を当てる。だがやっぱり、何も聞こえない。

 あまりの寂しさに幻聴を聞いてしまったかと、ウィルヘルムはひどく落ち込むと、また骨壺を土の中に戻そうとした。が、骨壷を包んでいるマントが次第に熱を帯びていく。

まるで夏の日照りのような熱さが、ウィルヘルムの両手を優しく包んだ。



『お兄ちゃん。ウィルヘルムお兄ちゃん。私の大好きなお兄ちゃん。

見栄っ張りで、弱虫で、いつも私の前を行くあなたが好き。

もう自分を見失わないで、傷つけないで、責めないで。

私も今度こそ、お兄ちゃんのこと守るから……』



 破れたマントの隠しポケットから、白い紙の切れ端が現れた。紙には幸せそうな女性が一人、幸せそうに座っている絵が描かれている。ただの紙くずのように見えるのだが、ウィルヘルムにはそれが一体何なのか分かっていた。そう、それは常にウィルヘルムが持ち歩いていた白い栞。の切れ端だった。

 あの時、<夏の庭と冬の庭>に取り憑かれていた時、マントと一緒に栞の端も切り裂いていたのだった。そしてその切れ端は、クラウンの目から逃れてジッとポケットの奥に潜んでいた。

 しかし何で? <童話>の力は確かにクラウンに奪われてしまったはず。

だがこの手にしている栞の切れ端もまた、<夏の庭>の力を引きつないでいる。

「マリア……なのか…………?」

 <夏の庭>はマリアの<童話>。彼女が<童話>を栞の中に引き止めてくれたのだろうか。そんなおかしな話、信じられない理屈だが、彼はどうしてもこれだけは信じたかった。

 ウィルヘルムは彼女の存在を以前よりも身近に感じると、栞の切れ端を握りしめて、青空を静かに見上げた。






兄弟水入らずのルドルフとアルノルト。彼らは客間でチェスをやっていた。

初めこそルドルフは、チェスをやろうの一言が理解できずに混乱していたが、ルドルフに唯一勝てるゲームはチェスだと自慢されては、やらねばならない。

完璧主義のルドルフは、兄さんの記憶違いだと文句を言って、そのまま真剣勝負を始めたのであった。

しかし駒をひとつひとつ動かすうちに、ルドルフの心が重くなる。

それもそうだ。彼の兄であるアルノルトの、大切な一人息子ウィルヘルムを彼はズタボロにいじめぬいたのだから。いくら躾でやったとしても、やりすぎたと今の彼は反省している。

 ルドルフは兄からのお説教が、飛んでくるのを今か今かと待ち構えている。

しかしアルノルトはと言うと、彼は真剣に駒の動きを見てうーんと悩んだり、あ! っと気づいて、駒をひとつ戻したりと……一向にお説教が始まる気配もなく、黙々とゲームを続けていた。このままでは本当にチェスを遊んで終わりになってしまう。居たたまれない気持ちになったルドルフは、ようやく自分から話を切り出した。

「あの…………申し訳ございませんでした」

「ん? 何が?」

「ウィルヘルムのこと」

「あぁ」と言って、またひとつ、アルノルトは駒を進める。

しかしゲームの途中結果はルドルフの方が一枚上手といったところか。

「それはウィルヘルムに言うことだろ。私じゃない」

「いや、アイツにも入院中に何度も言ったが……、何も言い返してはくれなかった」

寂しそうな顔をしているルドルフをチラッと横目に見る。彼はちゃんと反省していても、形のある罰が欲しいようだ。そういう所も、また妙に面倒くさい奴である。

 無言が続き、今度はアルノルトが居たたまれない気持ちになってフーッと大きくため息をついた。

「残念ながら……、反省している人を責めるような趣味を私は持ち合わせてはいないのだよ」

 さすがウィルヘルムの父親というべきか。しかしそれでルドルフの気が落ち着くわけではない。彼はふてくされた様にブツブツと

「兄さんはいつもそうだ。そうやって余裕たっぷりな顔しやがって。俺よりバカなのに……」と嫌味を言う。

 その言葉に二、三本ほど矢が突き刺さるような衝撃を感じたが、アルノルトは、はははと困ったように笑うだけだった。どうやら兄弟仲は思ったよりも不仲というわけではないようだ。

「ルドルフがせわしいだけだよ。

私だって、本当は怒っているんだよー? なんなら喧嘩、してみるか?」

小さくシャドーボクシングのポーズをとってはいるが、全く彼には似合っていない。腹の出っ張りも、五年前よりも成長している。これがかつて名を馳せていたグリムアルム様だと言うのだから、本当に

「あほらしい」

 肩の力が抜けながらも、ルドルフはひとつ駒を前に進めた。

「私はルドルフの頑張りも、ウィルヘルムの気持ちも知っているからな……。どう怒ればいいのか分からないんだよ」

 ルドルフの頑張り。それはもうルドルフ自身も分からなくなっていた。自分は一体何を頑張っていたのだろうか。

そしてまた一歩、駒の兵は陣を組む。

「イルゼに言えば怒ってくれるよ? そのまま二度と、この家の敷居を跨げなくなるかもしれないが」

「それは少々困るなぁ。でも、イルゼさんにもちゃんと謝っておかなくては……。

 兄さんは……、マリアに<童話>が取り憑いていたことは、知っていましたか?」

「ああ。ハンス君から聞いてたよ。あの子が家出して、ハンス君に見つけてもらった日には彼から全部聞いていた」

 ルドルフはのけ者にされた気がして悔しそうに顔を歪める。

 彼がウィルヘルムの家出先がハンスの童話図書館だと知ったのは、彼がグリムアルムになるための手続きをしに童話図書館へと訪れた時だった。その時にはもうすでに、<童話>(ネズの木)はマリアの骨に取り憑いて、しばらく経っていたというわけだ。

「あの時の私も、ウィルヘルムの行動が理解できなかったし、グリムアルムの掟を破られたことに対して、大きく彼に失望した。グリムアルムの先輩として、ウィルヘルムをきちんと叱らなくてはいけないと、そんな風に考えていたが、ハンス君に止められてしまった。

 確かにあの子のしたことは許されない事だ。だけど、あの子はそれを分かってはいない。何がいけないのか悟らせるのも我々の役目だが、そればかりでは、あの子の為にもならない。今、あの子から<童話>を引き離しても、より我々に反発するだろう。と。

 たとえ、今は甘やかす結果になってても、自分でいけないことだと気付く日が必ず来ることを、私たちは信じなくてはいけない。これは彼が決めたことなんだ」

「そう……ハンス君が言っていたのですか?」

「ああ。ウィルヘルムは、家には帰りたくないともね。

それでもあの子を引き取るのが、本当の父親だったのだろうか。その答えは今でも分からない。

だが、あの子は帰らないと決めた。自分で行く道を選んだのだ。だいぶハンス君に助け舟を出してもらってはいたそうだがね。それでも、自分で決めたのであれば、私はもう口出しできないよ。あの子の人生はあの子が決めるんだ。私じゃない」

 そしてアルノルトは力強い一手を打った。彼は気持ちよさそうな顔をしているが、ルドルフにはそれの意味が全くよく分かっていない。

「それって、育児放棄ってやつじゃないのか? 手が付けられないから人に預けるとか……」

「いやいや! あの子の性格と、ハンス君のことを信じて、私も決めたことなのだ。育児放棄とはちょっと違う。人生の修行だよ」

それでもまだルドルフは納得していない様子。疑いの目で兄を見ていた。

「お前は昔っからマニュアル人間だからな~……。それで中途半端な私やウィルヘルムが許せないんだろう。だから父さんにグリムアルムを任せられなかったんだ」

「なんで今、アイツの話なんか……ってか、何だよそれ?!」

 アルノルトはしまったといった顔をしたが、諦めたように話しだす。

「もう時効だろうし、いいだろう。

 私は父さんに、グリムアルムの座を一度断っていたんだ。私よりもルドルフの方が才能もあるし、一途に働いてくれるだろうと。しかし父さんは頭を横に振った。あいつはまだ分かっていないと……」

「何を?」

「<童話>と我々とのあり方を……」

 彼ら兄弟の父は<童話>との戦いで命を落とした。そんな父が<童話>と人間とのあり方を兄だけに説いていた。ルドルフは恨めしそうに兄を睨んだ。

「ルドルフは有り余る才能に甘んじている節がある。

もちろん私は知ってるよ。お前は才能だけでなく、人並み以上の努力もしてきたことを。

それに、別に自分の才能を誇ることを悪く言っているわけではない。むしろ誇るべきだと私は思う。しかし、誇りと自惚れは違うと……」

「誇りと自惚れ? そんなの分かってるよ。だけど俺がいつ自惚れていたと言うんだ」

「お前は<童話>をバカにして見下し、物のように扱う所があるだろう?

確かに、<童話>は恐ろしい存在だ。だが、彼らは我々の精霊であり、隣人であり、愛する兄弟だという事も、決して忘れてはいけない。それをアイツは分かっていない。と……」

「…………その時、言ってくれれば」

「自分で気付かなくては意味がないよ」

そう言ってアルノルトはニッコリと笑った。どうやら彼の父の言葉が、ようやくルドルフの元にも届いたようだ。

気付けばチェス盤の上はアルノルトが優勢な面になっていた。これには思わずルドルフも、ははっと笑って「やっぱり、兄さんにはかなわないなぁ……」と声を漏らしていた。



「そうだ。ハンス君に、もう一度お詫びを言わなくては……」

「ハンス君……」

ハンスの名を聞いたルドルフは苦しそうに唾を飲み込んだ。


 彼の回想の中は、真っ白な雪に覆われていた。

その雪原の中でルドルフは、クラウンに傷つけられた胸の痛みに意識を失いかけていた。遠くの方で桐子の泣き声が聞こえてくる。もうろうとしている頭の中で彼女の声は酷く響いていた。

 助けを呼ぼうにも足が動かない。

ウィルヘルムはどうした? 彼は無事か?

何だかんだと言ってルドルフは、可愛い甥っ子のことを心配していた。そんな彼の前に突如、黒いドレス姿の彼が現れた。

 真っ白な雪の世界に落とされた純粋な黒。

それだけでも強い存在感を示しているというのに、彼の肌は弱りつつあるルドルフよりも青白く、瞳は変わらず不自然なまでに赤く染まっている。

 彼は倒れているルドルフを、感情のない顔で見下ろしていた。

「そう…………アナタも、やっぱりそうなのね……」

その顔を見たルドルフは、悪事を犯した後に通る教会前の石像に睨まれたような感覚に襲われて、そのまま意識を失ってしまった。



「彼は一体、何者なんですか? 兄さんは、ハンス君の事を何か知っているんでしょう?」

その話を聞いたアルノルトは、悲しそうな顔をしてソファーの背もたれに寄りかかる。

「そうか……、ルドルフはハンス君と栞の契約を交わしたんだっけか。

彼には申し訳ないことをしてしまった。ウィルヘルムといい、お前といい……。

今度一緒にハンス君にお詫びを言いに行こう。そして、その時に彼から直接聞くんだ。お前だって、グリムアルムだろ?」

 面汚しどころか、とんでもない事件を起こしてしまった弟を、アルノルトはまだグリムアルムと呼んでくれている。それは今なおグリムアルムに憧れを持っているルドルフにとって、最上級の慰め言葉であった。彼は強く頷くと、ひねり出すように「はい……」と小さく返事をした。



 廊下の方でガチャガチャと、片付けをする音が聞こえて来る。

二人の兄弟は客間から庭へと続く廊下の先を覗いてみると、倉庫にスコップや樽桶をしまい終えたウィルヘルムの姿が確認できた。彼は足先を一生懸命使いながら、靴裏の泥を払っている。

 父アルノルトは、静かに息子の元へと歩いて行った。それに気付いたウィルヘルムは、待ち受けるようにして父の顔を見据えている。

「さっき叔父さんから話を聞いたよ。<童話>との注意……、私の言葉を覚えているかい?」

「<童話>にわが身を預けても、心は決して委ねるな」

「うん。……しかし、グリムアルムの資格をなくした今、その助言はもう……」

 そう父が言葉を言い終わる前に、ウィルヘルムはある物を彼の前に差し出した。それは白い栞の切れ端。

 目元がほんのりと赤く染まってはいるが強く軸のある息子の眼差しに、アルノルトとルドルフは熱い意志を感じ取った。

「お父様、俺にグリムアルムの稽古をつけて下さい。

マリアが残してくれた<夏の庭>……。もう俺は逃げません」






<つづく>



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