007<夏の庭と冬の庭> ― Ⅰ
1998年、12月。
クリスマスまで一週間を切ろうとしていた寒い冬の夜の事。家々の屋根には雪が降り積もり、窓には温かな光が点っている。そのうちの一軒のお屋敷から元気な産声が聞こえてきた。
「ほーら綺麗になった。奥様、可愛いお嬢ちゃんですよ」
助産婦から手渡された赤子を見た母は、嬉しそうに我が子の顔を撫でてやる。
「こんにちは。初めまして、私たちの赤ちゃん」
部屋の扉がカチャリと音を立てて開くと、赤子の父親と思われる男性が一歳ほどの男の子を抱きかかえたまま入ってきた。
「お疲れ様。おぉ! 可愛らしい天使だ。こんにちは。ほらウィルヘルムも挨拶しなさい」
ウィルヘルムと呼ばれた男の子は眠たそうにまぶたをこすり、両手を母親に伸ばして抱っこを要求する。その姿に父と母は笑い合い、彼のワガママを受け入れた。
「おいでウィルヘルム。ほら貴方の妹ですよ。こんにちは、お兄ちゃん」
産まれたての赤子をもの珍しそうに見つめるウィルヘルムは、舌足らずの口で母に言った。
「まーりぃーあっ!」
「マリア?」
父と母の名前をやっと言えるようになった息子から突然出てきた別の名に、母は不思議そうに首をかたむける。
「あぁ、さっきまでウィルヘルムにクリスマス絵本を読み聞かせていたんだ」
「あらまあ。ウィルヘルム、私はマリア様じゃないわよ」
それでもなお、ウィルヘルムは楽しそうに「まーりあ! まーりあ!」と名前を連呼する。
「覚えたてで嬉しいのね。そうだ! あなた、この子の名前はマリアにしませんか?」
「えぇ?! そんな急に……。ずっと前から決めておいたとっておきの名前が……」
「いいじゃないですか! 私もマリアって名前が気に入りました。
さぁ、私の大事な天使たち。母さまは貴方達の為に、とびっきりのクリスマスプレゼントを神様にお願いするわね」
満足そうに我が子を抱きしめる母に、父も優しく彼女の肩に手をのせた。
「何をお願いするんだい?」
彼女はこの場に溢れんばかりの幸せを感じて、満面の笑顔でお願いする。
「この子達の一生が、幸せなものでありますように」
* * *
子供たちの母親が彼らの幸せを祈ってから九年の歳月が過ぎていた。
季節は夏、日差しは高くジリジリと道行く人々を照らしている。人々は熱く燃える太陽から逃げるため、木陰や建物などに涼しさを求めていた。
そんな真夏日に例のお屋敷を訪ねてみるとなんと、屋敷の長い廊下には真っ白な雪が降り積もっていた。
「こら! ウィルヘルム! マリア! おいたをするのをやめなさい!」
九年前の冬、幸せいっぱいに子供たちを抱きかかえていた母は、今や鬼のような形相になって子供たちを叱りつけている。しかし、彼女の声は子供たちには届いておらず、二人は変わらず楽しそうに遊んでいた。
ウィルヘルムが指をパチンッと鳴らすと、どんどんと雪が降ってきた。廊下はすっかり新雪に覆われて外とは違って随分寒い。
「お兄ちゃん! アイスバーンを作ろうよ!」
黒髪を二本に結わいた小さなマリアがそう言うと、ウィルヘルムが「いいよ!」と嬉しそうに廊下の雪を均一に降らせてみせた。
真っ新な雪を前にマリアは両手をかざして、うーんっと力を念じてみせる。すると彼女を中心として辺りの空気がじわじわと暑くなってきた。
廊下の中が植物園のように蒸し暑くなってくると、雪も少しずつ表面を溶かしていく。彼女の足元には小さな緑が生い茂り、細いツタが廊下の柱を上っていった。外の気温よりも室内の方が暑くなった頃には、すっかり廊下は水びだしの廃墟のように荒れ果ててしまった。
次にウィルヘルムがヒューっと口笛を吹くように冷たい風を吹きだした。その風に当てられた緑は成長を止め、溶けた雪も一瞬で氷に変わる。二人のコンビネーションは抜群で、あっという間に氷のリンクは完成した。
はしゃぐ二人は早速、廊下の上を滑って回る。彼らは随分とこの遊びをしているようで、ウィルヘルムは一回転ジャンプを得意気な顔で決めてみせた。
氷の廊下を右往左往と踊る子供たちを見た母はすっかり呆れ返っているようだ。大きくため息を吐きながら、右手で額を抱えている。
誰か他にこの場を治められる者はいないのか。無法地帯となった廊下の中、呆れ立ち尽くす母の背後から、熊のような大男がのっそりと姿を現した。
男が静かにリンクの前に立つと、廊下の中を一瞬にして強い熱風が吹き荒れる。
氷はあっという間に水に変わり、床も壁も天井も、廊下の四面全てが緑の草木に覆われた。
「お……お父様」
水たまりの中で縮こまる兄妹は、威厳ある佇まいをしてこちらを見つめている父に恐怖し、互いに抱き合い震えていた。
牧師の四代目グリムアルム、アルノルト・フェルベルト。
彼は若い頃より<童話>の才能を開花させ、歴代の中でも好成績を収める優秀なグリムアルムとして知られていた。彼の手によって助けられた人は数知れず、常に誰かに感謝され、彼の偉業を称えた伝説は他のグリムアルムや<童話>の存在を知る者達の間ではとても有名な話であった。
しかしそんな彼も今は<童話>との死闘により体を悪くしてグリムアルムを引退している。現役の頃よりかは多少衰えてはいるのだが、今でも十分なほどの<童話>の力を宿していた。それは彼がゆっくりと、我が子たちのもとへと歩むたびに芽吹いてゆく小さな草花達が証明している。
子供たちもそんな父を心の底から慕っていた。<童話>に関する事について父の右に出る者はいない。そう信じ切っている程に父の事を尊敬しており、彼の子であることを誇りに思っていた。
だからこそ子供たちは焦っていた。自分たちが<童話>の力を使って身勝手に遊んでいる所を大好きな父に見つかってしまったのだ。ウィルヘルムとマリアは恥ずかしさと罪悪感に落ち入り、すっかりしょげてしまっている。
父アルノルトの足元で小さくなっている二人は、目の前に佇む父の顔色をうかがおうと、静かに顔を上げてみた。だが彼の少し出っ張った腹のせいで表情は上手く読み取れない。たとえ見えたとしても、彫りの深い顔立ちに落ちる暗い影のせいで、とても恐ろし顔をしているように見えた。
<童話>は氷のリンクを作る物でなければ、子供の遊ぶおもちゃでもない。叱られる覚悟を決められずにいる子供たちに、アルノルトは大きく鼻で息を吐いた。そして縮こまる子供たちに、ずいっと顔を近づけると彼は静かに口を開く。
「ウィルヘルム……マリア……。ダメじゃないか~、お母さまを困らせちゃあ! ちゃーんと御免なさいは言えるかな?」
八の字に垂れているアルノルトの特徴的な眉毛が更に困ったように垂れていく。
申し訳なさそうな声で注意する父に、子供たちはすくっと立ち上がる。そして廊下の入り口に立つ母の顔を見て「御免なさい」と素直に行儀よく謝った。
屈んだ父の背後で子供たちを見下ろしていた母は、固く緊張させていた表情を緩めると「分かればいいのよ」と優しくにっこり微笑んだ。
フェルベルト家。ライン川沿いにあるぶどう畑が美しい町に住んでおり、人々を<童話>の手から救い出すことを使命としている牧師家系のグリムアルム。
この家に生まれた子供たちが兄ウェルヘルムと一つ年下の妹マリアであった。二人は互いに溺愛し、いかなる時も必要とし合ってそばにいた。右で妹を泣かすガキ大将がいれば天罰などと言って兄は喧嘩をしに走り、左で兄に色目を使う女の子がいればその日からしばらく妹が兄を独占した。そんな光景が日々見られ、周りの大人たちは可愛らしい、仲のいい兄妹だと笑って済ませているのだが、二人の両親は<守護童話>のせいではないのかと常に不安でいっぱいだった。
フェルベルト家の守護童話<夏の庭と冬の庭>。この<童話>は特別強い力を持った<消された童話>の一つなのだが、彼自身の性格は温厚的で、人間を好いているような変わり者であった。そのお陰か<童話>の溢れた力はフェルベルト家の者に副作用としては現れず、代わりに屋敷の庭がおかしなことになっている。
庭半分は一年中冬のように雪が降り積もり、もう半分は一年中夏のように緑と暖かな日差しに覆われている。それは兄妹たちが生まれた後も変わらず続いており、それがこの町では普通のことになっていた。
しかし兄妹たちは物心がついた頃から、何故だかこの溢れた力を自由自在に操ることが出来ていた。ウィルヘルムは冬の庭。マリアは夏の庭。まるで<夏の庭と冬の庭>が二人を認めて、力を二つに分け与えたみたいだ。と、両親も不思議に思っていた。
だがこの能力は元は一つの大きな力。例え力の持ち主である<童話>の意思で分け与えられたとしても、自然と力は元の一つに戻ろうと動いてしまうのだろう。そのせいで兄妹たちはいつまで経ってもベッタリとくっついているのだと、そう両親は考えていた。
しかしその不安も近々晴れそうだ。
「ウィルヘルム、誕生日会の計画はどうなっているの?」
廊下の掃除を一通り終えたウィルヘルムは、母の質問にハッと大きく目を見開いた。
あと数日も経てば八月になる。それはつまりウィルヘルムの誕生日が近づいて来ている事を意味していた。
「あともう少しでイメージが固まるんだ! 大きなケーキと……いろんな国のお菓子を並べたい! あと肉喰いたい! 肉! 豚の丸焼きとか、インパクトすごくね?!
それと、窓の外を見ると冬の庭がよく見える場所でやりたいんだ! 飾りつけはシンプルに。かつ大胆に! 風船を沢山繋げて……あ、やっぱり外でやるのも良いかもな。この間、観たアメリカのサスペンス映画のさ、庭でやってた誕生日会を再現するの!」
ウィルヘルムの頭の中は夢の誕生日会でいっぱいだった。何せこの日で彼は十歳になる。ウィルヘルムにとって、この十歳の誕生日会はただ祝ってもらうための物ではない。自分の成長を周りの人々に大きく証明するとっておきの誕生日会なのだ。
後先考えずに溢れ出るアイディアたちを、母は現実的なものへとまとめていく。
「色んな種類のお菓子ね……。お肉は叔父さんが狩りで捕まえてきた物がまだあったはず……。それを出しましょう。そっちの方がワイルドでウケルわよ。
今の季節、長時間外に出ているのは辛いし、脱水症状にでもなったら困るから部屋の中でやりましょうね。その代わりに部屋の中をそれっぽくデザインして……鳥のシルエットに切った紙を壁に並べたら、とってもカッコよくなるんじゃない?」
だいぶウィルヘルムの計画する誕生日会よりかはグレードダウンしてしまったが、それでも彼は満足そうにうなずいた。どうやらイメージは固まったようだ。
ウィルヘルムと母は早速買い出しに行こうと、出かける準備をし始めた。しかし彼らの後ろには、熱心に視線を送る一人の少女がいる事を忘れてはいけない。マリアだ。彼女は雑巾を握りしめ、羨ましそうにこちらを見つめている。
「マリアも一緒にお兄ちゃんのお手伝いしてくれる?」
娘の視線に母が優しく声をかけてやる。するとマリアの瞳がキラキラと嬉しそうに輝きだした。しかし、
「ダメだよ母様、これは僕の誕生日会だ! マリアの手伝いは必要ない!」
と、大好きな兄にきっぱりと断られてしまった。
大きくショックを受けたマリアはより強く雑巾を握りしめ、静かに小さく震えている。母はなんとかウィルヘルムを説得しようとしたのだが、彼は頑なにマリアの手伝いを拒絶した。
まるで自分の存在そのものを否定されたかのように落ち込むマリア。彼女は悲しそうな声で自分は大丈夫だと、涙をこらえた笑顔で母に言った。
彼女の母はすぐに娘の笑顔がやせ我慢で作られた偽物なのだと気が付いたのだが、兄のウィルヘルムが強く彼女の腕を引っ張って玄関の方へと誘導する。
「帰りにケーキ買ってくるから! 大人しくお留守番して待っててね!」
娘を慰める時間も与えられず、何とか言った母の情け。マリアは扉の向こうへと消えていく母に向かって小さく頷いた。そしてパタリと静かに扉が閉まると、彼女は線が切れたようにビャーっと大きな声で泣き出した。
あまりの大声に、書斎室に戻っていたアルノルトが慌てて彼女のもとへと駆けつける。意味も分からず泣き続ける可愛い娘に、困った父はとりあえず彼女の小さな体を抱き上げた。そして落ち着いてきた頃、ようやく、少しずつだが彼女の泣いている意味を聞き出した。
「大丈夫。ウィルヘルムはマリアを要らない子だとは思っていないよ」
「マリアいらなくない子?」
「そうだとも」
「じゃあどうしてお兄ちゃん、マリアを置いていったの?」
不安そうな娘の顔を見て、父は彼女が傷つかない最良の答えを探し出す。
父は可笑しそうに笑いながら、マリアの鼻を突っついて言った。
「それは、マリアを驚かせるためさ」
「驚かせるため?」
「ほら、今度ウィルヘルムは十歳になるだろう? 五の倍数は特別な年だ。
今年は全部自分で準備するんだって、すっごく張り切っていたからな~。妹のマリアに手伝ってもらったとお客さんたちに知られたら、見栄を張れなくなってしまうだろ?」
マリアは鼻を高くして自慢する兄の姿を思い浮かべた。そしてその立派に伸びた鼻がぽっきりと折れてしまう所までを想像すると、楽しそうにくすくすと笑いだす。
「ウィルヘルムはね、一人立ちの準備をしているんだよ。マリアが居なくたって自分一人の力で大丈夫だよって、立派に成長したよって、マリアに見てもらいたいんだよ。別にマリアの事を嫌いになったわけじゃない。わかったかい?」
「うん……。でも、マリアはお兄ちゃんが泣き虫さんでも、お兄ちゃんのことが大好きよ」
優しい娘の気遣いと、妹に気遣いされる男ウィルヘルムに同情した父は思わず大きな声で笑ってしまった。
「ねぇお父様。マリアもね、お兄ちゃんを驚かせたい。珍しい誕生日プレゼントを用意するの!」
「珍しいもの……? 例えば?」
マリアはうーんと悩みだす。しかしいくら悩んでも答えは出ない。
「ちょっとお散歩しようか。店先に珍しいものがあるかもよ」
父の素敵なアドバイスにマリアは小さく頷いた。そして二人は手をつなぎ、町をぐるりと回る長い散歩へと旅立った。




