006<腕のいい猟師> ― Ⅲ
長い道を走り続ける二人の少女。しかし急に走りだしたので桐子の方はすぐに息が上がってしまった。口の中は血の味に満ちており、脇腹もズキズキと痛くなる。だが今の彼女は足を止めずにこの状況をすぐにでも理解しなくてはいけなかった。
彼、ルドルフが言ったことは本当なのか。普段からみせるウィルヘルムの焦りにも似たあの態度、少女の自己暗示ともとらえられるあの呟き。
マリアが死んだ? いや、死んでいた?
たとえ探られたくはないと拒絶されても本当の彼女を知らなくては助からないと、桐子は唾を飲み込み、自分の手を引く白い少女を観察し始めた。
彼女はいくら走っても息を乱していなかった。汗が頬を伝う桐子と違い、一滴も汗を流していない。走っているというのに、彼女の手は氷のように恐ろしく冷たかった。足取りも減速することなく、ただ機械的に一定の速度で走っている。
それを八歳児の幼い少女ができるのだろうか。たとえ運動をしている人でも、長く走れば息が乱れるだろうし、足の速度も一定というわけでもない。それに、春の温かい気候の中で汗ばむこともないというのは、健康的な人間にあり得る事なのだろうか。
桐子は震える声で少女に聞いた。
「マリア……あなた、<童話>なの?」
恐怖を帯びたその声に、答えるためにと彼女はゆっくり立ち止まる。
そして、少女は静かに桐子の方へと振り向くと、時折見せていた冷たくも美しい、感情のないお人形さんのような顔をして彼女の事を見つめていた。
あぁ、そうなのか……。
桐子は少女の顔を見ると何故だかスッと今まで起きたことを理解し、素直に心の中で納得した。
<童話>は人々の心を悪い方へと突き落とす。<彼ら>は厄災を好み、不幸を愛する忌むべき存在。<悪魔>に<死神>そして<悪霊>……。
二人の繋がれていた手はほどかれ、路地の入口で彼女らは対立した形で立っている。日の光の中にいる桐子と建物の陰に身を置く<童話>。桐子の目頭が次第と熱を帯びていき、赤く染まると彼女は吐息をつくようにして声を出した。
「マリア……」
桐子は悲しげに両手を広げ、<童話>を優しく抱きしめようとした。
それは<童話>も予測しなかった彼女の行動。桐子はこの<童話>をまだマリアと呼ぶ。彼女らを騙し続け、ウィルヘルムに厄介事ばかりを持ってくる<童話>を。
一瞬、少女の眉がピクリと動き、辛そうな表情を浮かべたような気がした。が、しゃがみこんだ桐子の後ろ、道の反対側から猟銃を構えるルドルフの姿が少女の両目にはっきり映った。
「桐子ちゃん! 危ない!」
少女は目一杯の力で桐子を入口の隅へと押し飛ばす。それと同時にルドルフの猟銃が大きく音を鳴らした。
弾丸はブレることなく少女に向かって飛んでくる。転ばされた桐子は急いで顔を上げると、もう一度「マリア!」と大きく彼女の名を呼んだ。
覚悟を決めた少女の顔は諦めとは違う、物悲しくも優しい表情を浮かべていた。そして飛んでくる弾丸を受け止めようと、真っ直ぐ前を見つめている。
だがその覚悟も無駄に終わってしまった。黒い影が風のようにやってきて、少女を庇うために自ら弾丸に当たってきたのだ。影の正体は言わずもかな、ウィルヘルムのカラスである。カラスはその場に撃ち落とされると、ピクリと動かなくなってしまった。
横たわるカラスを見た少女は、衝撃を受けたように大きく目を見開き、俯いたまま固まっている。
「クソ! あともうちょっとだったのに……。ウィルヘルム、よくも邪魔したな」
悔しがるようなことを言ってるが、声は嬉しそうに弾んでいる。
一羽のカラスを撃ち落とされた事により、残された六羽のカラスたちは今まで保っていた整列を乱し始めていた。それをみたルドルフは、ニヤリと嫌な笑みをする。
「しかしまぁ、一羽撃ち落とせたってことで良しとしよう」
「よかった? どういう事!? 甥っ子を撃って何が良いの?!」
「部外者が黙れ! ウィルヘルム、知ってるか? <七羽のカラス>のような集団の<童話>はな、一羽づつ潰していけばいいんだよ」
ルドルフのにやけた顔を見た桐子は、自分の感情がふつふつと奮い立つのを感じていた。そんな彼女に、自分の血だまりに沈むカラスが命令する。
『何をしている……早く…………マリアを遠くへ……』
今にも息絶えそうなかすれた声。しかしその声はルドルフにも聞こえていた。
「生意気なガキめ。そんなに叔父さんに構って欲しいのか」
「やめて! ウィルが何をしたって言うの?! ウィルまで死んだらどうするの!!」
怒りに顔を歪ませながら、桐子は潤んだ瞳で訴えた。
その悲しい訴えに、ルドルフは不思議そうな顔をして彼らに思いがけないことを言い放つ。
「どうするって? 別に、どうとでも」
予想外の言葉にその場の空気が凍りついた。しかし彼はそんなことなどお構いなしに自分の正義を語りだす。
「お嬢さん。君はグリムアルムを名前だけでしか知らないね。
いいかい、グリムアルムというのは正義の象徴さ。強く正しく美しく、誰もが見本にしたくなるような存在でいなくてはいけない。
しかしウィルヘルムは禁句を犯した。妹の骨に<童話>を憑りつかせ、生き返らせたつもりでいる。
人間が人間を生き返らせることは有ってはいけない事だ! とんでもない大罪だ! ましてや悪しき<童話>の力を借りて……。私はそれを見過ごしてはいけない。彼に罰を与える義務がある!」
「それなら、殺してもいいの?」
「殺す? まさか! 人殺しはしないよ。そうだね、確かに先ほどの君の言葉に対して、否定的な事を言わずに個人的なことを言ってしまった。すまない」
「個人的……それってもっと悪いわよ! 貴方はウィルのことを何だと思っているの?」
更に邪悪になっているルドルフの笑顔。そして、聞きたくもなかった答えが彼の口から返される。
「邪魔な存在。私は、こいつの存在のせいでフェルベルト家のグリムアルムになれなかったんだ」
心の奥底から言っているのであろうその言葉に、強固とした芯があった。
「大体この規律自体が馬鹿らしい。跡を継げるのは長男だけ?
兄さんよりも俺の方が勉学も体力も遥に勝っていたのに、グリムアルムも<守護童話>もすべて独り占めにしたのは兄さんだ!
なぜ俺じゃない? 何故、俺には何も与えてくれない? 俺の方が優れているのに!!」
自ら本性をさらけ出すルドルフに、その場の誰もが、特にウィルヘルムのカラスたちがより一層大きな声で騒ぎ立つ。
『男の嫉妬は醜いらしいぞ』
一羽のカラスがルドルフを煽る。しかしそのカラスも彼の猟銃に見事撃ち抜かれて墜落した。
「黙れウィルヘルム。お前は知らないだろう? 俺がどれだけグリムアルムになりたかったのか。
子供の頃、兄さんと一緒に<童話>を狩ったことがある。その時の興奮といったらもう……
悪しき<童話>に鉄槌を下した喜びで、何日も上手く眠れなかった。こんな人生を許された兄さんが羨ましい。
しかし後を継げるのは長男だけだって規律があるから、仕方なくグリムアルムになることを諦めたんだ。だから警察官として世界の平和を表から守ろうと誓ったのに……」
正義感だけは素晴らしい。だが、どこか裏がありそうなその言葉に、先のように素直に感動することは出来なかった。
可哀想な自分に酔いしれて、感傷に浸るルドルフの顔がまた暗くて恐ろしいものとなり、恨むような目つきで桐子たちを見る。
「五年前。兄さんが体を悪くして、グリムアムルを続けられなくなったと聞いた時は心が躍ったよ。やっと私の番だって。裏からも、表からも悪を成敗できる。
しかしそんな事はなかった……。お前の存在だよ、ウィルヘルム。お前だ」
今の彼の表情に見合った歪んだ正義。
桐子は倒れたまま腰が抜けたように立ち上がることが出来なかったが、今のルドルフの言葉を聞いて、とにかくマリアを守らなくてはと、彼女の体にしがみ付く。
「可愛い可愛い甥っ子よ。兄さんたちの大事な天使。
だけど今はお前が憎くてしょうがない。どうしてそんな風にマリアを苦しめる。
マリアは純粋でいい子だった。私もグリムアルムになりたいけれど、お兄ちゃんのためなら我慢すると、彼女は悔しそうに笑っていた。
彼女は私の心のよき理解者で、頭のいい子だった。しかしマリアは死んだ。なぜだ? お前だよ、ウィルヘルム。お前が、マリアを、殺したんだ」
ナイフのように彼の言葉がウィルヘルムの心をえぐる。それでもルドルフは容赦なく語り続けた。
「あぁ、可哀想なマリア……。諦めても諦めきれなかったその強い心が! <童話>を操ることによって認められると信じた純粋な心が! お前の<童話>に燃やされ、殺された!」
会話を中断させようと、また一羽のカラスがルドルフに向かって突進する。しかしそのカラスも簡単に撃ち抜かれ、落下している所を銃床で殴り飛ばされてしまった。
カラスにダメージが入るたびに、ウィルヘルムの苦痛の叫びが辺りに響く。
その声がより一層ルドルフという人物を恐怖の存在として浮き彫りにするのだが、彼はあくまで<童話>を封印しようとしているだけで、罪を犯したウィルヘルムに罰を与えているだけなのだ。その絶対的な自信が、彼の口をより流暢に動かし続ける。
「俺も彼女を見習うべきであった。死を覚悟してでも規律などに縛られず、その地位を兄から奪うべきであった。そうすればマリアは死なずに済んだのかもしれない……。
しかしこれはもう過ぎた話だ。私は全てを受け止めてお前や兄さんを赦したよ。マリアを殺した事も、見殺しにした事も……。
だがな、今日、お前にはさらに失望したよ。正当なグリムアムルでありながら、<童話>にマリアの格好をさせて兄妹ごっこだって? いつの間にそんな下種な趣味を身に着けたんだ! 我ら一族の名に泥を塗り、マリアの魂を侮辱するこの外道がぁ!!」
三羽のカラスが一斉にルドルフの銃を奪おうと襲い掛かる。しかし彼らもすべて撃ち落されてしまった。しかし銃声は一発のみ。
なされるがままに落ちたカラス達は、地面に倒れて身動き一つ出来ずにいる。
「さあどうした! <庭の力>を使えよ!! お前はそれでもフェルベルト家の五代目を名乗るグリムアルムなんだろ? 俺に気を使わず、さあ使え!!」
残ったカラスは一羽だけ。攻撃を受けずともその翼はズタボロで、飛んでいるのもやっとのよう。ゆっくりと落ちるように飛んでくるカラスは桐子とマリアの前に舞い降りた。
己の体を、そのズタボロな翼で覆い隠すと、元のウィルヘルムの姿に戻る。息はひどく乱れ、体のあちらこちらには銃弾を受けたような赤い痣が出来ており、場所によっては血を流している。それでもウィルヘルムは、膝をつきながらも両腕を広げて彼女たちを守ろうとした。
反撃してくる様子もない彼に冷ややかな目線を送るルドルフは、もう一度猟銃を構え直した。
「安心しろ。かつてはマリアと同じように愛した甥っ子だ。マリアだけでなく、お前も居なくなっては兄さんが可哀想だろ? でもまぁ、グリムアムルに復帰できないぐらいには痛めつけてやるよ」
一度、銃口はウィルヘルムの足に向けられるが、急所を外すように少しだけ狙いをずらす。そして、引き金にかけられた指に力が込められようとしたその時だ。彼らの間にマリアの姿をした<童話>が突如、音もなく立ちはだかった。
「えっ?」
桐子は自然と声を漏らし、マリアがいた場所、自分がしがみついていた先を見るのだが、そこには誰もいなかった。
天から舞い降りた天使のように、ふわりと佇む白い少女。
驚き目を丸くするウィルヘルムと嫌な笑みを浮かべるルドルフ。彼らの感情の渦に挟まれてもなお、<童話>は凍りついた顔をしてルドルフを虫ケラでも見るような目つきで見つめていた。
「ほう。お前、自らが当たりに来たか。つまらないなぁ……。でも、望み通り打ち抜いてやるよ」
「逃げろ! マリア!」
ルドルフが素早く引き金を引くと、銃口から弾丸が飛び出した。その軌道は見事<童話>の眉間めがけて撃たれたのだが、次の瞬間、その弾丸は鞭のようなものに弾かれ、的外れな方向へと飛んでいく。
気が付けば<童話>の手には金の鎖が巻きついており、それを鞭のようにしならせて銃弾を弾き飛ばしたのであった。これには思わずルドルフもヒューと口笛を吹いて感心する。
「正直お前を見た時は舞い上がったよ。楽しく鹿を追っていたら、マリアがいるじゃないか! 驚きと喜びで一杯になり、天の主に感謝した。しかしそれは間違いだと私はすぐに分かったよ。お前はマリアじゃない。マリアは五年も前に死んだんだ」
何度も繰り返し言う「マリアは死んだ」それはウィルヘルムの心を大きく喰い破るために繰り返し言うのだろう。現にいつも元気で生意気なウィルヘルムが、反論もせずにきつく口を閉ざしている。そして悔しさで顔をクシャクシャに歪ませながら、悲しみの色に染まった瞳でルドルフのことを睨んでいた。
見ていられないほどに痛々しく傷ついた彼の姿に、桐子はすぐにでも駆けつけたい気持ちでいっぱいだった。しかし腰を抜かしてしまい、うまく立ち上がることが出来ない。
――動け! 動けよ、私の足! マリアが死んじゃう! ウィルを助けるんだ!
呪文のように言い聞かせるが、目の前にいる小さな男の子の肩すら支える事が出来ない。<メクラトカゲ>の時から全く成長していない自分の不甲斐なさに、桐子は激しく怒りを覚えた。
弾丸を弾き飛ばした<童話>はゆっくりとウィルヘルムの方に振り向くと、静かに彼の元へと戻っていく。<童話>が背を向け、立ち去ろうとしているが、ルドルフは彼女の背中を狙い撃ったりはしなかった。彼もまた<童話>がこれから何をするのかと黙って様子を見ているのだ。
「マリア……逃げろ、頼む……。もうお前を、死なせたくはないんだ…………」
マリアと呼ばれた<童話>はウィルヘルムの前までやって来ると、ゆっくりと膝まつき、彼のサファイヤ色した瞳を見つめながら、はっきりとした口調でこう言った。
「私を封印してください。ウィルヘルム・フェルベルト」
「…………マリア……お前、何言ってるんだ? いつもみたいに、ウィルって……そう呼べよ。
ん? からかってるのか?」
「今すぐ私を封印してください。そして栞の契約をするのです。命令を……あの男を殺すための力を……どうか分け与えてください。ウィルヘルム・フェルベルト」
ウィルヘルムの目から大粒の涙が溢れ出た。目の前にいる少女にあの笑顔はもうない。
喜び笑い、怒り悲しむ人間としての表情が全くない、お面のような顔がウィルヘルムの返事を待っている。
「やっと本性を現したか<童話>風情が。少しは楽しませてくれよな」
もう一度猟銃を構え直したルドルフが、<童話>を狙って引き金を引いた。
<童話>は銃弾を避けずに小さな左肩で受け止めると、ルドルフに向かって走り出す。
「やめろ! やめてくれ!!」
ウィルヘルムは声を荒げて叫んだ。しかしその声は二人に届かない。
「キウィット、僕はなんて綺麗な鳥なんだ!」
<童話>が呪文のような歌を唱えると、彼女の背後から大きくて美しい、七色に光る純白の鳥が飛び立った。それを見たルドルフは「そうこなくっちゃ!」と楽しそうに声を弾ませる。
彼は次々と銃弾を打ち出すが、全て彼女の金の鎖に弾き飛ばされてしまった。<童話>は左肩を撃たれたというのに、その痛みを感じさせない素早い動きでルドルフに近づく。
<童話>の距離が寸前までに近づいた時、彼は左腰にかけてあった純銀の短剣に手をかけた。しかし彼女はそのままルドルフの脇を通り抜け、急いで彼の後ろに延びる路地裏へと逃げていく。もちろんルドルフがそれを許すわけがない。
「追いかけっこか? いいよ、付き合ってやるよ」
彼もまた珍しい動物を見つけた子供のように、無邪気に後を追って路地裏の中へと消えていった。
取り残されたウィルヘルムと桐子は、だんだんと小さくなっていく金具のこすり合った音を聞きながら、静かにその場にとどまっていた。
「…………おい桐子……。肩を貸してくれ……」
涙声を隠すようにひねり出されたウィルヘルムの声を聞き、桐子はハッと我に返る。
無理矢理に自分の足を動かし、ウィルヘルムの元へと歩み寄る。そして彼に肩を貸すと、何度も転びそうになりながら、二人も狭い路地の中へと消えていった。




