003<夜ウグイスとメクラトカゲ> ― Ⅲ
「あーあ、もう飽きたな。」
男は呑気にあくびをついた。未だに獲物が茂みの中から出てこない。かれこれ三分は待っただろうか。これが男の待てる限界時間のようで、ふらふら落ち着きなくナイフを振り回し始めていた。
「もーいーかい?」
男の問いかけに誰も茂みから出てこない。
「んじゃ、こっちから向かいに行くよ~」
そう言って男が一歩足を踏み出した。その時、ようやく茂みがガサガサと大きく揺れ動いた。
凍った芝生をギシリと踏み鳴らし、茂みから現れたのはボロ雑巾のように傷ついて使い物にならなくなったクラウン。ただ一人。
ふらふらと歩く彼女の足取りは立つのもやっととうかがえる。頭をあげる力も残っていないのか、うつむきながら苦しそうに息をしていた。
彼女は真っ赤に血濡れた左手を、降参っといったようにあげている。
「なんだ? お前一人で丸腰か」
「あぁ。アイツはお前が言った通り使い物にならない下級<童話>だった。
利用できると思ったんだが……、ビービー泣くだけで五月蝿いから殺してやった。後ろにあるのはただの死体だ」
クラウンは上げた左手の親指で茂みの方を指さした。確かに、茂みの中に誰かが潜んでいるような気配は感じない。
「ハッ、仲良く作戦会議してたんじゃねぇのかよ」
「バカ言うな。オイラに仲間なんていらない。欲しいのはオイラの命の安全。
お前の目的は、オイラの集めた<童話>だろ? 全部やるから見逃してくれ」
なんと土壇場でのクラウンの寝返り。俯いているので彼女の表情は分からないのだが、その声はとても楽しそうに弾んでいた。きっとその顔には薄気味悪い笑顔が浮かんでいるのだろう。そんな事が安易に想像できるほどに軽やかな声色を出していた。
追い詰められすぎて可笑しくなってしまったのか? いや、違う。どうもその声はどこかおかしい。余裕を感じる声色とも思われるのだが、男にその違いは分からなかった。
男もクラウンの、桐子への裏切りに初めは驚く顔をしたのだが、すぐに楽しそうにニヤリとにやけた。
「あぁ、<童話>は全部いただくよ。だがなぁ……命乞いなら聞かねーぜ。だって女は卑怯だからなっ!!」
そう言うと男は素早くクラウンに近づいた。右手にはしっかりとナイフが握られており、堂々と彼女の真正面に飛びかかる。
「テメェを生かして帰せばよぉ、取り戻しに来そうだからなぁ~! 今のうちに殺してやらぁぁあああひゃひゃひゃひゃっ!!!」
男のナイフが今度こそクラウンの咽喉元めがけて向かってきた。彼女は未だに左手を上げたまま無防備な状態で突っ立っている。今ここで防御の姿勢を取れば命だけはまだ助かるだろう。それぐらいの距離に差し掛かった時だ。クラウンはゆっくりと、うつむいていたその顔を男の方に向けて見せた。
「女、女、うるせーよ」
力なく閉ざされていた瞼は両方ともくぼんでおり、スローモーションのように持ち上がる。そこにはぽっかりと、二つの穴が空いていた。左の穴からは真っ赤な血が涙のように流れている。
「お……おまえっ!まさか!」
二つの暗闇に見つめらた男が動きを止めた。目が無くとも男の様子が分かるのか、クラウンは満足そうにニタリと笑う。
と、その時、彼女の後ろの茂みが激しく揺れた。素早く何かが木を登ったのだが、男はそれを見逃がしてしまう。なぜなら男は、目の無いクラウンの顔にすっかり釘付けとなってしまい、心の底から恐怖を味わってしまっていたから。他のものなんて見ている暇なんてなかった。
「オイラは女じゃねーし、負けるのは……」
巨木の上から大きな影が飛び出す。するとようやく男はその存在に気付いた。
「……お前だ」
太陽を背にして飛ぶ影を男は追って空を見た。しかしそこには眩しく輝く太陽が、元から目の悪い男の視力をその眩い光で容赦なく奪う。自分の目を刺激する光の針を取ろうと男は懸命に目を擦ったが、その間にも影は大きく体をひねって男の背後に着地した。
背後から聞こえた着地音に男はよろめきながらも振り向いた。なんとしてもその影を確認しようとしたのだが、残念なことに、視力が戻る前に影の方が男よりも素早く動いていた。
『なおーんーー……』
影は立ち上がる勢いに任せて右手に持った木の短剣の、柄頭を男の顎めがけて突き上げる。 見事にそれは急所に入り、男は殴られた流れに任せて飛び上がった。宙に舞った男は背中から激しく地面に着地して、大きな土煙を巻き上げる。男は気絶したのか、白目をむいてすっかり伸びきってしまった。
後に残ったのは風の音だけ。他に音はなくただ静かに風が流れていく。
しかししばらくして、その静けさをさえぎるように影がのっそり動き出した。男がちゃんと気絶しているか確認しようと、不気味な足音が男の頭上に近づいた。
男の顔を見下ろす影。それの顔は紛れもなく桐子の顔そのものであった。しかし、彼女の左目には血のように赤黒い色をした瞳が埋め込まれており、表情も雰囲気までもが彼女のそれとはまるで別人であった。
* * *
時間としては十分も経ってはいないだろう。目を覚ました男は両手、胴体をぐるぐる巻きに縛り上げられていることに気がついた。彼の前には二人の影。クラウンと桐子……の姿をした何か。二人とも目玉はちゃんと二個ずつついていた。
二人は<童話>のお話通りに目玉を一人で二つ使い、<童話>使いの男を気絶させたので<夜ウグイスとメクラトカゲ>を男から引きずり出すことが出来たのだ。つまりは二人の勝利だ。
<夜ウグイスとメクラトカゲ>の力を手にしたクラウンは、早速彼らに命令してクラウンと桐子にかけられた呪いをすっかり綺麗に解いてしまった。これで男につけられた数々の傷が治ることはないのだが、目玉はパッチリ元通り。遠くの物までよく見えた。
クラウンは男の襟を強く引っ張ると、しっかりはめ込まれた二つの赤黒い目玉で睨みを利かせる。
「さぁ吐け。お前はどこからきた? どうせハウストにそそのかされた三下だろ?」
目を覚ましたばかりの男の頭をクラウンは容赦なく振り回す。
「はっ、わかってんじゃねーかよ。それよりもその女、さっきとは違う<童話>を憑けてんな」
無抵抗な男と目が合った桐子。の姿をした何かは、汚物でも見るような冷ややかな目つきで男を見下ろしていた。
「口を慎め若造が。キサマに許されている事は、我が主クラウン様の問いにただ静かに答えることだけだ。嫌だと言うのならば……」
桐子の瞳がギラギラ輝き憎悪の色に燃えあがる。左目の下には未だに乾いた血の跡がついており、その姿はもう桐子とは言えないものであった。
「もういいよシャトン。ありがとう」
クラウンは今までの、彼女からは想像できないような甘い声で桐子に憑いた〈童話〉をなだめる。すると桐子の姿をしたソレは深々とクラウンにお辞儀をし、彼女の体から黒い影がするりと抜け出した。
憑き物が取れた桐子は倒れる事無くその場に立ててはいるが、どうも気持ちが悪そうによろめいている。しかし意識はちゃんとあるようだ。上げた顔は元通り、情けない泣き虫桐子が帰って来ていた。
「オイラの守護<童話>だ。なかなか利口だろ?」
そう言ってクラウンは短剣の柄頭の先に着いた黄色い紙を、男にチラリと見せつけた。短冊のようなその紙を見た男はゲッと顔を歪ませる。
「! おまえ、本物のグリムアルムじゃ」「アイツらと一緒にすんじゃねぇ!!」
恐ろしい剣幕でクラウンは男の言葉を否定する。
「確かにコイツはグリムアルムに飼われていた<童話>だ。しかし今は違う。コイツ自らオイラの元に着くと言ったとても利口な<童話>だ」
「ふんっ。だとしても、他人の体に守護<童話>を取り憑かせるなんてバカな事……お前も<童話>を道具として見ている口か?」
その言葉にクラウンは、子供のようにニタリとイタズラっぽく笑った。
「ああそうだ。<童話>の存在は悪そのモノ。道具としてこき使っても別にいいだろ?」
何の汚れ無い純粋な彼女の声。何も悪いことはしていないっといった彼女の顔に<童話>は道具と言った男本人でさえ、クラウンの答えにたじろいだ。しかし桐子はそのクラウンの言葉を聞いて、彼女の言葉の意味がよく理解出来ずにいた。
クラウンは<童話>を道具として見ていると言った。だとしたら、己を慕う<童話>に優しく話しかけた彼女は一体何だったのだ。愛情なきモノにも、彼女はあんな優しい声をかける事ができるのか?
クラウンの<童話>に取り憑かれた反動で頭がクラクラする桐子はボーッと頭を抱えつつ、彼らの会話を聞き逃さないようにと耳を澄まして聞いていた。
「ほら、さっさと次の質問に答えろ。ハウストに何と言われた」
「そんなのお前なら知ってるだろ? <童話>の力さえあればどんな願いも叶う。
俺様の夢はでっかいからな~……沢山の<童話>が」「! <童話>が願いを叶える?! 本当に?」
急に大声を上げた桐子にクラウンがウザったそうに睨んで舌打ちをした。
しかし桐子の方はというと、自分の声が頭の中に反響してより一層頭痛が悪化してしまった。急いで頭を抱え込んで、苦しそうにもがいている。そんな子などは無視をしてクラウンは男との会話を先に進めた。
「で、その夢もこうして破れたわけだが……」
再びクラウンは男を見下ろす。
子供のように輝いていた瞳は氷のように冷たく変わり、表情からも慈悲の念が感じられない。これはもう容赦などしてはくれぬだろう。そう悟った男はなんとも情けない声を出して、急に態度を改めてクラウンに命乞いをしだしたのだった。
「なあ頼むよ、見逃してくれ! もうアンタらには近づかない。俺は<童話>の力を利用して金持ちになりたいってだけの、ただのみみっちい雑魚キャラだ!!
<童話>もハウストに無理矢理憑りつかされた! 俺はただ……力が欲しかっただけなんだ。なのにあのクソ爺……」
「オイラの命乞いは聞かなかったのに、自分の命乞いは聞いてもらおうとしてんのか? ん?」
男の言葉はより一層クラウンの神経を逆なでし、彼女は短剣に手をかけた。それを見た桐子は急いでクラウンの手を取り彼女の動きを阻止する。
「人殺しはダメだよ! もう<童話>は取り憑いていないんでしょ?」
「殺しはしねえよ……半殺しには、するかもしんねーけどな」
男は「ひぃ!」と気の抜けた悲鳴を上げて後ずさる。
「目障りだ。オイラの気が変わらないうちにどっか行け!」
言われた通りに男は立ち上がり、縛られたままそさくさと逃げていった。
間抜けな後ろ姿を見送ると、この場に残っているのはクラウンと桐子の二人だけとなってしまった。
「離せっ!」と言ってクラウンは桐子の手を振りほどく。
しかし、先の戦いでの傷は治っていないので、クラウンはよろけながらその場にしゃがみこんだ。
男の前では平気そうに装ってはいたが大分ダメージが入っているのだろう。未だに右手の感覚は戻っていないのか力なく垂れ下がっている。
「大丈夫……?」と心配して、しゃがみこんだクラウンに手をさし伸ばすが、また払われてしまった。クラウンは気怠そうに自力で立つと、桐子の事をキツく睨む。その瞳は相も変わらず静かな敵意を宿していた。
大怪我をしているとはいえ、自分の目玉を迷いなくえぐり出すほどの根性がすわった人間だ。彼女に襲い掛かられれば一般女子高生に過ぎない桐子なんてひとたまりもないだろう。思っていた以上に強敵になり得る存在に桐子も酷くビクついた。
ここからは桐子対クラウンの一騎打ち。そんな馬鹿なことを桐子がするわけないのだが、このままでは本当に殺されかねん。
何か策はないものか。焦りでうまく回らぬ頭を懸命に働かせ、桐子はとんでもない先手を打つ事を思い付いた。
「フロイライン! クラウン! 《クラウンお嬢ちゃん!》」
なんともまぁ命知らずというか……。
血だらけの敵意むき出しで、冷静に装ってはいるが興奮状態とも取れるクラウンに向かって、桐子はなんとお嬢ちゃんと言い切った。しかしそれを聞いたクラウンは目を真ん丸く見開き、ゆでダコのように顔を真っ赤に染めて湯気を出すではないか。
「フッ! フフフ、フロイライン?! バッカにしてんのか気持ち悪い!」
驚きたじろぐクラウンの姿はどっからどう見ても普通の女の子。血まみれ以外は。そう確信した桐子は自分のペースに彼女を持ち込もうと、どんどんクラウンに近づいた。そして、
「それじゃあクラウン! 私と取引しましょう!!」
と桐子は、クラウンが一瞬見せた<童話>シャトンへの優しさと、自分を殺そうとした男を逃す甘さに、自分の命を賭ける事にした。これしか助かる方法が思いつかなかったから。
「取引ぃ?」
「私に憑りついた<童話>は絶対にあなたに渡す。絶対! その代り、もう私を襲わないでちょうだい。あなたが他の<童話>を成敗している間に、私は私に憑りついた<童話>を何とかして祓っておくから!」
なんとも取引とは言えぬ内容にクラウンも思わず「えぇ~?!」と驚く。
「もうすでに私はグリムアルムのハンスさんとウィルヘルムくんとは手を組んでいる。もし、あなたが私を殺すような事があれば、彼らには地の果てまであなたを追いかけるように頼んであるわ」
勿論嘘である。そんな約束はしていない。しかしこうでも言っておかないと、彼女に今すぐ殺されかねない不安があったから。
桐子は短剣を握っているクラウンの両手を手にとると、間を詰めて彼女の自由を奪ってみせた。
しかしこの取引、発案者である桐子自身も内心呆れてしまっている代物だ。
もしクラウンが「グリムアルムなんて屁でもない」っと思っていれば桐子は彼女に殺されるだろうし、「お前と組んで何の得がある? お前を殺せば、宿主を失った〈いばら姫〉はオイラのもんだ」っと言えば桐子は彼女に殺されるだろう。
何と捨て身で馬鹿な考え。桐子の顔からは嫌な汗が噴き出し、手汗も随分ひどくかいていた。
「襲わないって誓ってくれれば〈いばら姫〉をハンスさんでも、ウィルヘルムくんでもなくあなたに渡すわ」
「別に……オイラはお前と手を組まなくったって〈いばら姫〉を祓えるぞ」
「じゃあ何で食堂にいた時に〈いばら姫〉を追い出せなかったの?」
クラウンはギクリと肩をすぼめた。
「あなたほどの強さがあれば、私を殺すチャンスなんて、いくらでもあったと思うけど? それを何でしてこなかったの?!」
あえてクラウンを煽り立てる。というよりかは桐子もムキになっていた。クラウンの手を強く握り、声を荒げて、涙を浮かべ、彼女に全てをぶつけに行った。もう後には戻れない。
今までビクつくだけだった桐子がこうまで感情をぶつけたのだ。そんな桐子にクラウンは、彼女は、正直引いていた。
クラウンは眉をひそめて、恐ろしいものでも見るような目つきで桐子の顔を見る。必死な桐子の表情は、ギラギラと生への執着心で燃えている。その必死さといったら、あのクラウンが後ずさるほどのものだった。
しかし、まあ何故クラウンがここまで来て何も話さず、先みたいに桐子の腕を力ずくで振りほどこうとしないか。と桐子は新たな疑問を持っていた。何かしら理由があるのではないか。桐子は感情をむき出しにしながらも次の糸口を探っている。
先ほどクラウンは<いばら姫>を祓えなかったことについての話をしたとき、ギクリと肩をすぼめていた。それに今も、何か言いたげそうに唇を震わせているが何の声も出てこない。単純明快、穴だらけの取引なのに、クラウンは追い詰められたように深く悩み続けている。別に考えるほどの内容でもないのに。
しかしこれは桐子にとってはまたと無いチャンス。このまま押し通せばもしかすると助かるかも。
そんな淡い期待を持ち出すが、ついにクラウンは口を開いた。




