一夜明けて
「……あーあ」
早朝。
昨日の忘れ物を思い出していつもより二時間早く来た僕は、保健室に入った途端、大きな溜息を吐いた。
「――勿体ない」
昨日吊るしておいた女性――バレッタは、既に絶命していた。
吊るした彼女の亡骸の下では、変わらずエンヴィが待機しており、保健室に入った僕の姿を認めて、ぶるぶると全身を細かく震わせる。
――結構楽しみにしてたんだけどなぁ。
見開かれたバレッタの眼窩には眼球が無く、口をぱっくりと開けた姿は、どこか人形のような滑稽さを醸し出していた。
おそらく、彼女の身体の中には内臓もほとんど存在しないだろう。昔、長時間宙づりにされた人間は、主に眼球で三十分、各内臓器官は五時間程度で重力に引かれ、全て落ちてしまうと聞いたことがあった。当時は後始末の関係や、そもそも眉唾物だと信じて疑わなかったことから、これを実践したことはなかったが、エンヴィという便利な後始末方法が出来た今、遂に実験してみようと思ったのだ。噂の真偽はともかく、宙づりにされた人間がいずれ心不全で死に至ることは分かっていた。あとは、その過程をじっくり鑑賞して楽しもうと思っていたのだが……。
とにかく、悲嘆していてもしょうがない。
僕は溜息を吐き、死体の処理を始める。とはいっても、縄を解いて、残った死体をエンヴィに捕食させるだけだ。もののニ十分で、それらの作業は完了してしまった。
全く、昨日は本当に厄日だった。
僕専用の椅子に座り、体重を大きく後ろに預けた。あまり眠れていないからか、頭の奥には靄がかかったような僅かな眠気が残っていた。
「ふぅ……」
昨日、ハンサの店から脱出した後は本当に大変だった。
誰かが通報したのか、騒ぎを聞きつけた野次馬の中を駐屯兵団の団員が分け入り、カフカの中を家宅捜索しはじめ、そこにあった珍しい品々は残らず押収されてしまい、そこの店主だったハンサにも重要参考人として、今朝改めて手配書の前半に顔写真が載った。
僕達はそんな駐屯兵団の捜索の目をくぐり、なんとかマティアス邸跡に到着。最低限風除けや雨風を凌げる場所にハンサを連れ込み、そこで治療を行った。
その間、エトを呼ぼうと思った事は一度か二度ではない。命に別状はないとはいえ、少女から受けたハンサの傷は想像以上に深刻で、このままだと障害を残す可能性がありありと浮かんだからだ。それを回避するためには、どうしても人手が必要だった。
結局、そうやって悶々と悩んでいるうちに、向こうが先にやってきてしまった。なんでも、街で騒ぎがあったので、僕が巻き込まれていないか心配になったらしい。エトの隣にはアルティもいた。二人には、馴染みの店の店主が手配者に襲われたんだと取り繕い、治療に手伝いをしてもらった。
「……あの、カナキ先生。この人の指って……」
「……今は七本しかないけどね。勿論さっきまでは手足合わせて二十本あったよ。全て、その手配者に切り取られてしまったんだ」
「……ッ」
二人が声にならない悲鳴を上げたのが肩越しに伝わってきた。
それでも、そちらに構わず意識を集中し、少女に返されたハンサの指を一本一本、丁寧に縫合していった。
それらある分は全て上手くいったが、それでも左手の薬指と小指は切除されたままだった。元々、彼女が投げてきた小瓶の中には入っていなかったのだ。その他にも、睾丸が一つ潰されたりなど、ハンサの身体の各所には、拷問の痕が見て取れた。
それら全てを治療する頃には空が白み、辺りも明るくなってきていた。
僕に出来ることには限界があったし、ハンサはリリス中央病院などで本格的な治療を受けさせたかったが、脛に疵のあるハンサを入れれば駐屯兵団の手が届くことは自明であり、苦肉の策として、僕の家に押し入れた。出来る限り自宅にトラブルは持ち込ませたくなかったが、背に腹は代えられなかった。
両親が心配するから、とアルティとエトをお礼と共に帰した後、僅かに意識を取り戻したハンサと、少しだけ話が出来た。それで、今回の敵が誰であるのか、僕は知ることになる。
『共喰い商人』と『毒蛇』かぁ。
ハンサの証言、そして様々な地方の手配書を見比べた結果、今回の事件の首謀者に行きついた僕は、思わず舌打ちをしていた。『共喰い商人』はともかく、『毒蛇』などレートがS+、つまりアリスよりも厄介な相手だということになる。
そして、よりにもよって、その人物を相手に、自分は素顔をまんまと晒してしまったのだ。
「…………」
あのとき、カフカの扉をくぐったことに後悔はない。だが、もっと上手い方法があったのではないかと自問する感情があるのも否定できなかった。悔やんでも仕方のないことだが、心の整理が未だつけられずにいた。
――だが、あのときのように、まだ取り返しのつかない状況というわけではない。ここから挽回はいくらでも出来る。起きたことよりも今はその後の対処を優先すべきだ。
理性の部分が囁き、僕もその通りだと意識を切り替える。反省は後でいい。今は余計な感情を削ぎ落そう。
理性ある怪物である僕にとって、心と体を別々に切り離すのはそれほど難しいことではなかった。
まず、今の僕に必要なのは学園の教師としての仮面――昨日の事件を言伝で聞いた、第三者としてのカナキ・タイガという教師の構成だった。クラス内には駐屯兵団とかかわりの深いカグヤ所属の生徒も多数存在する。それらの生徒達に対し、いかにいつも通りに振舞うことが出来るかが、最初の仕事だった。
懸念は杞憂に終わった。
その日、特に問題もなく一日を終えた僕は、ゼミの生徒であるエト達と共に下校する所だった。
そのとき、校門に寄りかかる漆黒の美女を見つけ、僕は思わずその場に立ち止まってしまった。
「――はーいカナキ先生。待ってたわよ?」
「……あなたは」
僕を見て妖艶に微笑んだ女――『毒蛇』フェルトは、僕の反応を見て蛇のように目を細めた。
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