Anything for him
山場です。
Side カナキ
「はぁっ、はあっ、はぁ!」
街の郊外にある林を抜け、マティアス宅までやってきたときには、僕は全身から滝のように汗を流していた。
教会からここまでは、ほぼ街の対極に位置しているため、普通に歩いてくるには二時間はかかる。そこを僕は魔術で身体強化したうえで、家の屋根を渡ってショートカットしてやってきたのだ。おかげで時間は大幅に短縮できたが、身体は早くも疲労を訴えていた。
「……ふぅ」
だが、ここで休むわけにはいかない。事態は切迫しているのだ。先ほど、フィーナを足止めしている際に起こった事――僕がエトのために万が一に備えて張っておいたマティアス宅の結界が、先ほど何者かによって破壊されたのだ。
そして、カレンの護衛に紛れ込ませていたエンヴィも、先ほどセニアによってやられてしまった。本心の読めない女だとは思っていたが、まさか僕だけでなく、マティアスにまで牙を剥くとは。本来、真っ向勝負でセニアが挑んでも、マティアスが負けることは万に一つもないだろうが、今は状況が状況だ。マティアスにこのことを一刻も早く知らせたかったが、魔法を使えないマティアスでは、思念で情報を送ることもできない。ここに来て、元の世界の携帯のありがたみを痛感する形になった。
しかしまず僕がすべきなのはエトの安全確保だ。結界が破られてから既に十五分が経過している。侵入者の目的がエトだった時には、既にエトに危害が及んでいる可能性は高い。それでも、僕は一縷の望みをかけて、武家屋敷の古びた玄関のドアを開けた。
「――ッ」
中に入った瞬間、漂ってきたのは血の匂い。幸い、視界の中には特に異常な点は見つからないが、血の匂いは居間の方から漂ってきている。僕は土足のまま家に上がると、音を殺して匂いの元をたどる。
「…………」
正直、ここまで心中穏やかでない気分は、こちらの世界に来てからは初めてのことだった。今までで一番の危機だったレインとの一騎打ちの時でも、ここまで切迫した感情は沸いてこなかった。考えてみれば、エトとは、この世界の人の中でマティアスに次ぐくらい長い付き合いになる。僕は、エトという少女の存在が、ここまで自分の心の中で大きな比重を占めていることに今更ながら気づき、そして、同時に襲撃者の正体と目的にもようやく合点がいった。
血の匂いには、既に他の匂いも混ざり始めている。何の匂いかを表現することは難しいが、僕にとっては慣れた匂いだ。
僕は居間の襖を開いた。
「あ、カナキ先生。遅かったね!」
「――――」
居間の壁には、あちこちに血が飛び散っていた。そして、床にも大量の血痕。いや、血痕だけではない。床には血の他にも、ぶよぶよとした桃色の臓物や、細切りにされた小腸があちこちに散らばっていた。
「先生があんまりにも遅いから、私たち先に食べ始めちゃってるよー。あ、勿論先生の分もあるから安心してね!」
「なんで……」
「うん? なんでって何が?」
そう言いながら目の前の少女――アルティは不思議そうに首を傾げた。彼女の手に握られたスプーンには、真っ赤に染まった眼球が乗せられている。
「はい、エトちゃん。あーん」
「あぐっ、んんぐぅううう!?」
優しい口調とは裏腹に、強引にスプーンの物を食べさせられ、呻き声を上げながらそれを咀嚼させられるエト。その彼女の変わり果てた姿を見て、僕は急に視界の風景が遠のいていくような錯覚に陥った。
ぐちゃり、とエトの首元で音が鳴る。飲み込んだ物がそのままテーブルに落ちたのだ。エトには全く聞こえていないようだったが、アルティはめざとく気づいて、エトの首を持ち上げた。
「あーエトちゃんまた零したぁ。もう、エトちゃんも大人なんだから物落としちゃだめだよー……なーんて、私がエトちゃんにお説教できる日がまさか来ようとは! 人間、生きていれば良いことがあるもんですなぁ!」
「――やめろ」
いつものような態度のアルティを、僕は自分でも驚くほど冷たい声音で遮った。
こちらを向いたアルティは不思議そうに数回瞬きする。
「ん? 先生どうしたの? なんか怒ってる?」
「……エト君、僕の声が聞こえるかい?」
「……カナキ、先生?」
瞼を閉じたエトは、うわ言のように僕の名を呼んだ。すると、数回顔を震わせた。
「せ、先生……! 私、私ぃ……!」
「……本当にすまない、エト君。君は、僕を呪う資格がある」
「もう、二人だけで話を進めないでよぉ!」
「黙れ」
茶々を入れてきたアルティに、僕は思わず声を荒げた。それだけでアルティはびくりと震え、みるみる顔が強張っていく。
そういえば、アルティに僕が怒ったことは一度も無かったか。そんなどうでも良いことを考えながらも、僕はアルティを冷たく一瞥する。
「せ、先生? なに、私、何か悪いことした……?」
「アルティ君。それを、エト君を渡しなさい」
「は、はい」
アルティは肩を強張らせながら、小さな歩幅で歩いてくると、僕に“ソレ”を渡してきた。
僕は、両手でそれを大事に持ち上げると、胸の中に優しく抱き寄せる。それだけで、エトは安心したような息を吐いた。
「あったかい……。カナキ先生ですよね?」
「うん、僕だよ。本当に、どうしようもなく、来るのが遅れてしまった」
「……いいえ、最後に、こうして先生に会えただけでも奇跡のようなものです。それに、先生にこうして抱きしめてもらえることが出来るなんて、なんだか夢みたいです」
「……僕も、これが夢であってほしかったよ」
抱きしめたエトの体に、人肌の温かさなど最早微塵も感じない。それでも、僕の心のどこか大事なところが、ゆっくりと満たされていくのは感じた。
まさか僕にも、こんな人並の感情が残っているとはね。
自分でもこんな感傷に浸ること自体、馬鹿馬鹿しいとは思う。今まで僕がなにをしてきたかを考えたら、エトを自分で殺すことが出来なかったとはいえ、ここまで虚脱感を覚える道理もないはずだ。
それでも、胸にポッカリと空いたこの気持ちに、すぐに折り合いを付けることが出来ない。
「先生……私、本当はお父さんの仕事なんて継ぎたくなかったんです。多分、先生は気づいてましたよね」
「うん」
「でも、私があそこまで意地を張って仕事を継ぐって言ったのは、実は、仕事を継いだら、学校を卒業した後でも、先生と一緒にいられると思ったから、そんな理由だけなんです。私、最低ですよね。そんな理由だけで、あんな仕事をしようだなんて……。殺される人は、こんなにも痛いし、怖い思いをするんだって、分かっていたのに見ないふりをしていた……。ここで死んじゃうのも、当然の報いなんです」
「それは違う。君は、君“たち”は何も悪くない。全部僕の責任だ。……もうゆっくり休むと良い」
「……先生、私は……ずっと!」
そこから言葉が紡がれることはなかった。
どこかでこれを見ている彼女が、このタイミングで意図して『完全なる骸』を切ったのだろう。
胸に埋めていたエトの顔を覗くと、何か必死に僕に伝えようとしたいことがあったのが分かった。
「あ、あの、先生……」
「アルティ君……君も、これから地獄を見ることになると思う」
僕は、胸に抱いていた物――エトの首を丁寧に椅子の上に乗せた。テーブルの周りには、エトの体を形作っていた物がぐちゃぐちゃになって散乱している。
僕はアルティの眼の奥を覗く。予想通りだった。ならばおそらく、彼女も僕と同じ、いやそれ以上の苦しみをこれから味わうことになるだろう。
「――アルティ。だけどこれだけは忘れないでほしい。君は何も悪くないし、何があっても僕は君の味方をする。だから、決して自分を見失ってしまったら駄目だ」
「……先生? 一体、さっきから何を――」
そこで、アルティの眼の奥にあった薄い靄が消える。彼女が魔法を――アルティに掛けていた暗示魔法を解いたのだ。
彼女のことだ。おそらく、暗示をかけている間のアルティ自身の記憶を消すはずがない。
急に暗示を解かれ、正気を戻したアルティは、最初に周囲の様子を見て、口元を押さえた。
「せ、先生!? うっ、これって一体――」
そこでアルティの言葉は止まった。口元を押さえていた手をだらりと下げると、次第に瞳孔が開き、身体が震えだす。
それはアルティという一人の少女が崩壊する瞬間だった。僕は、気休め程度にアルティを抱きしめたが、そんなもので彼女の崩壊が止まるわけがなかった。
「ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああッッッ!! 私は、エ、エト、エトちゃんを、鋸で、包丁で、鋏で、ペンチで、フライパンで、スプーンで……ううううううああああああああッッおおげええええええええ!!」
遂に床に吐き出したアルティ。僕でさえ痛々しいと感じるほどの絶叫を、今彼女はどのような気持ちで聴いているのだろう。
「――もういいでしょう。今の気持ちを、是非後学の為に聞かせてくださいよ。セニアさん、いや――アリス・レゾンテートルさん」
「――あはは。そりゃ、最高の気分だよ、カナキ君」
やがて姿を現した彼女――アリス・レゾンテートルは、セニアに通ずる、あの妖艶な笑顔で、僕達を見下ろした。
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